観音の図像と信仰

11月25日の授業への質問・感想



十一面観音の顔がさまざまなバリエーションがあり、人間味が感じられ、少しうれしかった。仏像がだいたいがおだやかな表情をしているが、人間的側面(仏だからそもそも人間ではないのかもしれないが)が見られると、興味が引かれた。何のために十一も面が必要なのだろう。
向源寺の十一面観音の顔の表情がさまざまであることに、興味を覚えた方が多かったようでした。とくに後ろの大笑面に強い印象を受けたというコメントが多かったです。なぜ十一かという終わりの質問に対しては、十一が十と一に分かれ、四方四隅の八方に上下を加えた十方向があり、これに中心面とあわせるためと説明されます。べつに十の方向に限定されるわけではなく、あらゆる方向に顔を向けるということを表すのでしょう。観音経が法華経普門品と呼ばれることも関係があります。「普門」とはサンスクリットではsamanta-mukhaで、門と訳されているmukhaは、本来は顔を意味します。ただし、十一面観音は「十一の顔」をあらわすek慧aァamukhaと一般には呼ばれます。向源寺の十一面観音の顔がさまざまであることは、その典拠とされる経典『十一面観音神呪経』(大正蔵1070番)にそのような記述があるからです。以下は該当部分のテキストです。

彼善男子善女人。須用白旃檀作觀世音像。其木要須精實不得枯篋。身長一尺三寸作十一頭。當前三面作菩薩面。左廂三面作瞋面。右廂三面似菩薩面狗牙上出。後有一面作大笑面。頂上一面作佛面。面悉向前後著光。其十一面各戴花冠。其花冠中各有阿彌陀佛。觀世音左手把澡瓶。瓶口出蓮花。展其右手以串瓔珞施無畏手。其像身須刻出纓珞莊嚴(第二十巻、百五十頁下)。

顔の説明のところに下線を引いておきました。この引用文からもわかりますように、なぜ十一面がそれぞれ特徴ある表情をするかという理由にはまったくふれられていません。理由は「文献の規定に従ったから」としか言いようがないのです。私が拝観したときも、現地の説明をして下さる方が何か仏教的な理由を挙げておられましたが、文献的な根拠はないようです。作品よりも文献が先行する日本の密教美術の特質なのです。なお、この引用文では頂上面が仏面で、しかも五仏を宝冠に表していますが、実際は菩薩面です。このような文献との不一致も、研究を行うときに問題になります。

向源寺の十一面観音像はお顔といい、全体のプロポーションといい、写真でいつ見てもほれぼれしますが、こんなすばらしい仏像を制作した仏師の名前は残っていないのでしょうか。
残っていないようです。日本の仏像で仏師の名前が胎内などに記されるようになるのは、平安時代の中期頃からでしょうか(向源寺の像の制作は平安初期です)。しかし、大半の仏像は無記名です。仏像を刻むのは個性的な芸術家ではなく、伝統を受け継いだ職人であり、それは日本以外でも同様です。インドの仏像の銘文には、寄進者の名前はしばしば登場しますが、作者の名前が現れることは皆無です。なお、日本の仏像の内部空間は、制作者以外の名前以外にも、結縁の人々、つまり依頼主と縁のある人で、仏像を作る功徳の「おすそわけ」をもらう人たちの名前が記されることがあり、そこから、当時の人々のネットワークが明らかになることもあります。また、胎内納入品にもさまざまなものがあり、当時の信仰のあり方がわかります。仏像が持つ情報は、外観だけではないのです。

福井・羽賀寺の十一面観音の2割くらい長い手には驚いた。左手を曲げているから、余計に右手だけ長いように見えて奇妙な気がする。作った人はこのバランスで本当に作りたかったのだろうか。だとしたら2割り増しの意味は何かあるのだろうか。
特に意味はないでしょう。仏像の身体的な特徴に、三十二相と呼ばれるものがあり、その中に両手を広げた長さと身長が一致するというものがあります。もしこれにしたがうならば、普通の人よりも長い腕になるでしょう。仏がわれわれとは異なる身体的特徴を持ちながらも、人間的な姿を維持していることは、仏のような聖なるもののイメージを考える上で重要です。われわれとまったく同じではありがたくないし、崩したり、突飛なものにしすぎても、やはり聖性は失われてしまいます。その「さじ加減」が文化や風土などのさまざまな条件で異なることが、仏教美術のおもしろい点でもあります。

仏像は目を閉じているのが普通だと思っていましたが、今日の7の観音菩薩坐像は半眼のように見えました。そういえば、金剛力士像などはカッと目を開いていましたね。でも半眼なのは少し驚きです。鎌倉時代は質実剛健の文化などと習ったような気がしますが、十一面観音は見たものの中では鎌倉のものから華やかな感じですね。
日本では観音像を含め、仏像でまったく目を閉じたものはあまりないようです。伏し目がちで、細くあけているのが一般的でしょう。インドでもこのような表情の仏はグプタ朝のサールナートで流行します。それ以前のガンダーラやマトゥラーの仏像は、普通に目を開いています。目をやや閉じると、瞑想に入っているような状態に見え、仏の持つ精神性が強調されます。金剛力士像や忿怒尊は大きく目を見開くことが多いのですが、中には不動明王のように目をしかめたように表現されるものもあります(ただし、日本の初期の不動は目を見開いています)。鎌倉時代の文化を単に「質実剛健」とするのは少し単純なようです。運慶や快慶などの慶派の作品に見られるように、独自の美意識の追求した作品が数多く生み出されています。

今日は日本の観音ということで、歴史の教科書や資料集に載っていたような絵があった。江戸幕末か明治初期に神仏毀釈があったと思うが、今日見た観音は大丈夫だったのか?大丈夫だったのだとは思うが、なぜ壊されたりしなかったのか疑問である。
「神仏毀釈」ではなく「排仏毀釈」です。「神仏分離令」というのもあります。もちろん大丈夫だったのでしょうけれども、そのためにはお寺や仏像を守る人たちのたいへんな努力があったでしょう。日本の歴史の中で仏像の受難は戦争や盗難、火事など繰り返しあり、その中でも明治初頭の排仏毀釈と、第二次大戦とその後の混乱は被害も甚大でした。失われた仏像の数は無数にあります。最近も地方の仏の盗難が頻繁に起こっているようです。授業で紹介した向源寺の十一面観音は、姉川の合戦の際には焼失の危険があったのですが、村人のとっさの判断で、土中に埋められ、難を逃れたという言い伝えがあります。現在残っている仏像たちは、このような努力によって守られたものなのです。

福井が昔は文化の窓口だったことを聞いて、福井出身の僕としては、うれしい反面、今の福井のさびれ具合からしてやや悲しい気持ちにもなりました。昔は嶺南に住んでいたのですが(今は嶺北)、今まで知らなかったことなので、知ることができてよかったです。
それはよかったです。同じことは石川県にもあり、加賀と能登ではかつては能登の方がずっと進んだ文化を有していました(平安時代の頃のことです)。石川県の文化財で、平安時代の仏教美術は圧倒的に能登の方が多いですし、その水準もけっして京都や奈良にひけをとりません。若狭や能登の仏像は、できるだけ授業で取り上げたいと思っています。今回も中山寺や豊財院の馬頭観音が登場します。

左右二材で作るなど、設計の仕方とかがどうなっているのかよくわからない。作る手順に関しても知りたいなぁと思う。木の全体に金属の部品とかもありえるのかと驚いた。特に十一面観音で思ったが、ただ立っているだけじゃなくて、腰を微妙にひねっているところなどがとてもリアルだった。あんな大爆笑の面ははじめてみた。今までのインドとかの観音もすごく動きがあるのがあったけれど、今回見たのはすごく人間ぽい感じで動きそうだった。
仏像の制作方法については今回、参考資料を付けておきます。奈良国立博物館では、地下に仏像の制作プロセスがわかるような展示がしてあり、勉強になります。木の彫刻でできている仏像でも、いろいろ木以外の材料が加えられます。たとえば玉眼や白毫に水晶などの宝石を用いることもありますし、装身具にはさまざまな素材が現れます。仏像は裸形で造り、実際の衣を着せるものもあります(種類としては地蔵が多いです)。いずれもリアリズムを追求する過程で現れた方法でしょう。仏像の腰をひねるしぐさは、人間的な動きを表すのに効果的で、インドの仏像や女神像でしばしば見られます。腰ばかりではなく首もかしげることもあり、三つの部分に分かれるため三曲法(トリバンガ)と伝統的に呼ばれます。観音が女性的なイメージを持つことの理由にもなっています。


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