観音の図像と信仰

11月18日の授業への質問・感想



「不空羂索観音」と広辞苑で引くと、「大慈大悲の羂索を以て生死の苦海に浮沈する一切の衆生を済度することを本願とする変化観音」と載っていました。その観音の持っているものに武器としての意味があったとは・・・。また「鹿皮観音」とも載っていましたが、不空羂索観音はバラモン的なんでしょうか。
最近は電子辞書の普及で、授業中でも広辞苑などがひけて便利ですね。羂索を使って衆生を救済するというのはもちろん正しいのですが、羂索が本来、単なる猟師の投げ縄ではないことは、仏教学者の間でもこれまでほとんど意識されていませんでした。別の方のコメントでも、「羂索」を広辞苑で引くと「本来は鳥獣を捕らえる罠」と書いてあって、広辞苑に記載されているのに必ずしも真実ではないことに驚いた、というものがありました。広辞苑は日本を代表する国語辞典ですが、仏教用語の説明を書いているのは当然仏教学者で、その執筆者の専門領域や、執筆時の学問の進展状況に、内容は左右されます。羂索を猟師の投げ縄とする説明は、13世紀の醍醐寺のある僧侶の書いた文献にもとづきますが、インドまではさかのぼれません。インドでの羂索の古い用例として、ヴァルナという懲罰神の持物であることはよく知られていますが、プラーナと呼ばれるヒンドゥー教の神話で、龍の羂索(ナーガパーシャ)として流布していたことは、Emeneauというアメリカのインド学者の論文で、私ははじめて知りました。ここには「鳥獣を捕らえる罠」というイメージはまったくありません。鹿皮観音は、不空羂索を説く経典に、この尊の特徴としてあげられていることに由来します。日本では文献の記述に忠実に像が作成されたため、不空羂索は鹿皮を身につけることが多いようです。鹿皮がバラモン系の菩薩の特徴であることは、以前の授業でも紹介しましたが、不空羂索の特徴が成立した時点で、バラモンのイメージが取り入れられたとは、必ずしも言えないようです。すでに観音が鹿皮を付けることが一般的であったとすれば、そのような観音のひとつを不空羂索と呼び、その特徴を文献の中に記したという順序が予想されるからです。


大きな十一面観音のコピーうれしかったです。すごくキレイですね。この像はもともと好きだったのでうれしいです。今後もたまーにあるといいなぁと期待してます。
向源寺の十一面観音は平安前期の観音像の代表的な作例にとどまらず、日本の仏像の中でもとくに有名な作品です。このようなすぐれた作品が、滋賀県の北の方の小さな町の小さなお堂に伝えられているのも不思議です。現在、この地方は浄土真宗の勢力が強く、ほとんどのお寺がこの宗派に属しますが、かつては密教、とくに天台系の密教が優勢でした。琵琶湖をはさんで対角線上にあるのが天台の総本山の比叡山で、この地域は比叡山の有力な支持基盤だったようです。ほかにも観音の重要な作例が多数現存し、地元では「観音の郷」として観光客誘致を繰り広げています。また、この地方は北陸修験の最西端に位置し、向源寺の創建には、白山の開祖である泰澄が関与しているようです。じつはわれわれの住んでいる石川県とは、修験の山を介して密接な関係にあるところなのです。カラーの資料は機会を見つけて、また配布するつもりです(著作権上の問題もあるのですが・・・)。


不空羂索が呪術的イメージを持つということが、文献と図像の関係にどう関わってくるのかが、よくわかりませんでした。
当時の作例を網羅的に調べると、羂索を持つほとけは、観音以外では陀羅尼の仏たちと忿怒尊であることがわかります。このうち、忿怒尊が羂索を持つのは、相手をとらえて身動きを封じる羂索の本来の機能として、ヒンドゥー教の神々とも共通します。もう一方の陀羅尼の仏たちは、戦いや武器とは無縁な女尊が多く、このような本来的な意味とは少し異なる文脈で羂索を持つと思われます。それは羂索が持つ呪術的な機能で、武器としての羂索が対象をとらえてしまうように、呪術の対象が自分の支配下になることを、羂索によって示していると考えられるからです。超自然的な力を借りて、自分の願望を成就することが呪術の基本です。不空羂索観音は観音の一種ですが、その成立や流行の状況を経典から見ると、明らかに陀羅尼の仏として信仰されていたようです。しかも、不空羂索観音以外の羂索を持つ仏たちが、いずれも左手に羂索を持っていたのに対し、実際の作例で四臂の観音が反対の右手に羂索を持つことは異様です。この理由として、反対の左手には、羂索に似た形態の蓮華をすでに持っているから、バランスをとって右手に持つとも考えられるのですが、それ以上に、右手の最も目立つところに持つという積極的な理由から、この仏にとって羂索が最も重要なシンボルであることを導き出しました。前回の授業は不空羂索の問題を少し詳しく扱いすぎましたが、オリッサの四臂観音が不空羂索観音である可能性が高いことを述べるためには、その論理的な流れを紹介する必要があったためです。授業で紹介した内容は『仏教芸術』第262号所収の私の「インドの不空羂索観音像」として活字になっていますので、関心のある人や、授業だけではよくわからなかった人は読んでみてください。専門的な知識がなくても理解できるはずです(この授業で基礎的な知識はすでにたくわえられているはずです)。

さまざまな仏像を見るたびに思うのだが、どれほど小さな脇侍でも表情や印など細部にいたるまで見事に表現されているのには驚かされる。それにしてもあの放置の仕方はあまりにひどい。脇侍についてだが、ターラーは向かって左にブリクティーは右に、というような配置はきまりごとなのか。
インドの仏像を見る機会は、これまであまりなかったと思いますが、日本の仏像とは別の魅力があります。とくにダイナミックな身体表現や躍動感は、そのような魅力のひとつです。これはヒンドゥー教の彫刻ではさらに顕著で、たとえば有名なカジュラーホのヒンドゥー教寺院などは、寺院のまわりに数百体の石造彫像が置かれ、寺院全体が生命にあふれいているという印象を受けます。仏教の尊像彫刻は、座禅を組んで瞑想をしている仏像のように、比較的穏やかで、おとなしいものが多いのですが、菩薩や女尊、忿怒尊などには、その中でも動きがあっておもしろいものがあります。ウダヤギリの四臂観音像の現状については、ほかにも「ひどい」という感想が多く見られました。授業でも紹介したように、オリッサ地方の四臂観音の中でも、唯一、補陀洛山のモチーフを伴い、さらに4尊の脇侍、苦行者や天子、7尊の仏坐像を周囲に配するなど、他に例を見ない、とても貴重な作品です。この作品は9〜10世紀頃の制作と考えられます。日本であれば平安時代で、国宝か重要文化財になってもおかしくないと思うのですが・・・。ターラーとブリクティーの配置は実際の作例ではほぼ例外なく一定ですが、その理由はよくわかりません。「文献にそうあるから」というのは、いつも言うとおり、理由にはならないでしょう。馬頭と善財童子もほぼ左右の配置は決まっているようです。思いつき程度ですが、それぞれの図像上の特徴から、バランスがとりやすい位置が選ばれている、あるいは、左と右のもつ価値が背景にあり、対になる2尊のうち、より重要な仏を右に置くといった理由を現在のところ考えています。

腕の数は最初は2本であったのが、四臂や十二臂など増えていったのは、どういう背景があったのですか。
腕の数が多いという特徴は、ヒンドゥー教の神との関連が予想されます。ヒンドゥー教の最も重要な神であるシヴァやヴィシュヌは、いずれも多臂像のイメージを持っています。とくにヴィシュヌは四臂で表されるのが一般的です。また、女神であるドゥルガー(マヒシャースラマルディニー)は、十二臂や十六臂などの多臂をそなえていますが、これは神話にその理由が示されています。仏教の仏の場合、明王系の尊格や女尊にはしばしば多臂像が見られますが、これらはいずれも密教の時代に登場した新しい尊格です。大乗仏教の時代から信仰されてきた仏や菩薩には、観音を除きほとんど多臂像は登場しません。ヒンドゥー教の神々が多臂で表されるようになるのが、仏教の多臂像よりも前であることから、その影響が予想されます。実際に尊像の制作を行った工房では、仏教からもヒンドゥー教からも注文があったはずなので、そのような場で仏像の多臂化が進んだのではないかと考えています。ただし、これらはあくまでも推測にすぎません。

神様が戦争に行くというのも、不思議なものだが(神様は絶対的な存在だし、戦争と結びつくイメージが全くない)ましてや、武器を持っていくというのも不思議な気がした。日本の観音や仏像にはそういった話は聞かない気がするので・・・。毘沙門天はその類なのだろうか。
インドでは神様は戦争が大好きです。古代インドのヴェーダの時代からさんざんやっています。ヒンドゥー教ではプラーナと呼ばれる聖典が神話の宝庫なのですが、その中には神様の戦いの物語がたくさん入っています。典型的なのが、アスラ(阿修羅)との戦いで、神々の敵であるアスラと苦戦を強いられた神が、救世主のように現れた最強の神によって、最後は勝利を収めるという筋書きです。神が絶対的な存在であるのは、ユダヤ=キリスト的な神の観念で、インドでは当てはまりません。世界の宗教を見回しても、神様と人間の境界はそれほど厳格ではない場合が多々あります。日本の観音や仏像と、戦争とのつながりは、インドとは少し異なります。日本の場合、聖典(経典)のレベルで神々の戦いが説かれることはあまりありませんが、民間説話のようなかたちで、人々の暮らしの中に仏が登場して、活躍します。また、仏の中では不動明王や大威徳明王、大元帥明王などが戦争に霊験がある仏として信仰され、実際に戦場に持って行かれた仏像や、先勝祈願をした像がいくつもあります。毘沙門天も同様です。

配布されたレジュメに観音の持物配置の図に関連して。人差し指と小指を伸ばしたかたちの手が多いですが、この格好の手は不動にもあったような気がします。ある仏尊に特有の手のかたちというものではないのですか。
配付資料を確認しましたが、たしかに人差し指と小指を伸ばしたものが多いですね。実際の作例を見ても、そのような手があります。これは特定の印ではなく、持物を軽く握っているのを表しているのだと思います。指全体をまげて、握り拳を作ってしまうと、観音の優美さが損なわれてしまうのでしょう。これを描いた西村公朝氏の好みの描き方という気もします。不動が示していた手の形もたしかに似ていますが、これは人差し指を突き立てて、残りの手で羂索を握っています。期剋印といって、人を弾劾するときのかたちで、忿怒尊特有の印です。インドでは羂索を持つ仏たちに、しばしば期剋印が見られます。

不空羂索の空は「空振り」の空なのでしょうか?それとも仏教的に何か意味のある空なのでしょうか。
不空の原語のサンスクリットではamoghaと言い、はじめのaは否定辞、moghaは「迷乱する、誤る」を意味する動詞muhの派生語です。全体で「誤ることのない、確実な」という意味の形容詞になります。ちなみにmuhからは痴に相当するmohaという語も作られます。amoghaは形容詞ですが、名詞としても用いられ、シヴァやヴィシュヌ、スカンダの異名にもなります。裏切られることのない、絶対的な信頼がおける神というニュアンスでしょう。空振りの空が空っぽという意味か、「空を切る」からきているのかよくわかりませんが、いずれとも異なるようです。また、仏教の専門用語である「空」(くう)はサンスクリットではァ鈩yaといって、amoghaとはまったく異なることばです。ァ鈩yaは何もない状態を指す形容詞で、これを中心に大乗仏教の哲学が構築されています。『般若心経』の色即是空、空即是色の空です。

呪→イコン→文献という流れは、日本では呪もイコンも文献もいっしょに入ってきただろうから、日本の場合は違うのかなとも思った。
今回から、ようやく日本の観音を取り上げます。御指摘のように、インドとは図像の形成過程が異なります。文献に忠実な像や、すでに中国で確立したイメージが日本に伝わっています。そのため、図像の解釈のためには文献の情報が不可欠となります。このことを具体的な作品を通じて確認したいと思います。インドの場合、むしろ、日本の仏像と同じような方法で解釈しようとするため、文献との不一致や、図像の特徴のばらつきが顕著となるのです。


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