観音の図像と信仰

11月4日の授業への質問・感想


仏像のさまざまな差異は、口誦伝承の過程で生じた差異によるところが大きいかと思った。伝言ゲームという表現を使っていたが、人が人に何かをことばで伝えようとすると、その人なりの解釈や想像も入るだろうし、その土地ごとの特徴的なものが入ることもあるから、より古くテキストのないものは、それこそ多種多様なものが作られてもおかしくはないのではなかろうか。また、文字で表されたものも、地域や国をこえるときに、違った形で伝わることもあるのではないだろうか。

たしかに、ある出来事が起こっても、それを伝える過程で、さまざまな伝承が生まれます。そもそも、同じ出来事を見ている複数の人が、その出来事をまったく違うイメージでとらえることもしばしばあります。それはけっして、古代のインドだけの話ではなく、現代のわれわれのまわりでも、頻繁におこっているのではないでしょうか。口誦伝承についても、仏教に限らず、文学、神話学、文化人類学などさまざまな領域で関心を集めています。このような口誦伝承と仏教美術との関係について付け加えると、語りであろうと、文字の形であろうと、歴史的には膨大な量のテキストが生まれ、そしてその大部分が消滅してしまったことが重要でしょう。現存する文字資料は、奇跡的に残ったものにすぎません。これに加え、図像がテキストに依存しているだけではなく、図像的な伝統がむしろ重要であったことも、つねに意識する必要があります。地域や時代を超えてイメージが伝達されるときに、その意味や形が変わることと、その過程で何が重視されたかは、私自身が仏教美術をとらえるときに、気になるところです。ずいぶん昔ですが、そのようなことを意識して書いた論文があります(「十忿怒尊のイメージをめぐる考察」『仏教の受容と変容 チベット・ネパール編』佼成出版社)。

図像が生まれる過程の説明の部分でふと思ったのだけれど、キリスト教は絵画的な作品が多いのに対し、仏教は仏像などの彫刻作品がメインである気がする。両者の違いが気になった。

授業で取り上げている作品が仏教の彫刻であることが多いので、そのような印象を与えたかもしれませんが、仏教でも絵画はたくさん作られました。日本では「仏画」と呼ばれ、密教ではとくに膨大な量があります。インドでは残念ながら、保存に難があったようで、パーラ朝のころの仏教絵画はほとんど残っていません。わずかに写本の挿し絵でいくらか伝えられています。インドの重要な仏教絵画としては、アジャンタの壁画が重要です。一方のキリスト教の美術に絵画が多い印象をもつのは、美術の教科書などに登場する作品に絵画が多いからかもしれませんが、実際は彫刻もたくさんあります。教会で中心におかれているのは、キリストやマリアの像です。 キリスト教と仏教の美術はまったく別のもののような感じがしますが、どちらも神や仏を人の姿に似せて表したり、説話図も礼拝像もあることなど、宗教美術として共通の要素も多く認められます。キリスト教美術の研究者と同じ研究会に出席したことがありますが、問題意識がずいぶん共有できることに驚いたこともあります。

彫り方についてちらっと話していましたが、「高浮彫」と「丸彫り」の違いがよくわかりませんでした。日本でもたしか、平安時代の仏像の作り方に、「一木作り」と「寄せ木造り」というのがあった気がしますが、そのような違いなんですか。

高浮彫は浮彫の一種ですが、光背に像の背中を密着させるように彫るため、像全体は立体的になります。普通、浮彫(レリーフ)というのは、石板や金属板にほんの少しでこぼこを付けたようなものをイメージするので、それと区別するために「高浮彫」と呼んでいます。「丸彫り」はべつに像を丸く彫るわけではなく、いわゆる彫刻として、全身を石から掘り出したものです。日本の仏像に用いられる「一木造り」と「寄せ木造り」は、木彫すなわち木材を使った彫刻の技法のことで、その言葉の通り、一木作りは一本の木から掘り出したもの、寄せ木造りは複数の木材を組み合わせた上で彫ります(組み合わせることを「矧(は)ぐ」といいます)。インドにも木彫の仏像があったようですが、ほとんど残っていません。

観音は説話にもとづいて生まれた像ではないとわかりました。素朴な質問になってしまいますが、観音のそばの脇侍もまた、観音と同じ過程でできたのですか?たぶんそうじゃなくて、説話にもとづいたものなんですよね。うまく言えませんが、脇侍の組み合わせが変えられたのは、ひとつひとつが説話を持っていて、独立したものだからなのでしょうか。観音のマニュアルに組み込まれた像なら、変更不可ですよね。

脇侍の成立はじつはよくわかりません。古い時代であれば、たとえば阿弥陀の両側に観音と勢至が脇侍の菩薩として登場しますが、これは浄土経系の経典に説かれていることが典拠となります。また、ガンダーラの脇侍菩薩に観音と弥勒が現れ、これがクシャトリアとバラモンのイメージを持っていることを紹介しましたが、その場合、特定の文献にもとづくというよりも、菩薩の持つふたつの特性をそれぞれが体現していると解釈されます。ところが観音の場合、ターラーやブリクティー、さらに馬頭や善財童子がなぜそこに現れるのかを、説明することが困難なのです。このうち、ターラーは単独像が大量に残っていますが、その図像上のイメージは観音にきわめて近く、おそらく観音の流行に連動したような形で、大量に生産されたと思われます。しかし、脇侍が独立して単独像になったのか、あるいはその逆に、単独像が脇侍に組み込まれたのかも、よくわかっていません。ブリクティーも同様で、単独像の作例がやはり相当数、残っています。これに対し、男尊の二人は、いずれも脇侍のみの作例しか知られていません。観音に限っても、脇侍の中にこのような違いがありますが、それ以外の如来や菩薩でも同じようなことがあります。その多くは特定の説話を持つことはほとんどないでしょう。脇侍に限らず、仏や菩薩などの種類が爆発的に増えたのは、密教の時代の特徴で、その一部は脇侍のような形でのみ登場しますが、その成立の背景はまだ解明されていません。

スライドで右腕の欠けた観音を見ていてふと思ったのですが、今までのスライドの中にも欠けた観音像があったと思います。日本では観音像というと、お堂の奥に置かれて大事にされているイメージがありますが、インドではどのようにまつってあるのでしょうか。現在のインドの宗教というとヒンドゥー教が大部分のはずなので、仏教信仰がすたれて仏教寺院の観音像が粗末に扱われていたのではとも思いました。

インドの仏像はほとんどが遺跡からの出土品です。ヒンドゥー教の寺院や、村のほこらのようなところにまつってあったものもあります。インドから仏教は800年ほど前に滅んでいます。そのため、どうしてもインドの仏像は腕や顔などが欠けた作品が多くなります。それでも、パーラ朝のものは黒玄武岩というかなり硬い石材が用いられているので、保存状況はそれ以外の時代や地域のものに比べると比較的良好です。わたしは欠けた状態に仏像に慣れてしまっているので、それほど違和感がないのですが、日本の有名な仏像ではこのような不完全なものがあまりないので、はじめて見る方には、ずいぶん哀れな状態だという印象を与えるかもしれません(実際は日本の仏像もほとんどが補修をしてありますが、それがわからないようになっているだけなのですが)。仏像の安置場所ですが、インドの仏教寺院では、寺院の一番奥の本堂のようなところにも、当然本尊が安置されていますが、入口や外壁などにもたくさんあったようです。そういう点では、同じ仏教寺院でも、インドと日本とではずいぶん違います。実際、インドの仏教遺跡に行きますと、あっけらかんとした雰囲気です。

八難の他にも、八戒、八大明王など、仏教には8つのまとまり(8つでまとめたもの)が意外とあるような気がする。

たしかにたくさんあります。でも、八以外にも数字を含むものがたくさんあります。釈迦の有名な教えとしても、四諦八正道十二支縁起がありますし、三毒、五蘊、六波羅蜜、過去七仏など、ほとんどの数が、いろいろな術語として現れます。仏教で八が好まれたというより、むしろ、教えの体系を構築するときに、数を限定することに熱心であったと見るべきでしょう。これは仏教だけの特徴ではなく、じつはインドの思想ではしばしば見られるものです。インドとか仏教とか聞くと、多くの日本人は「悟り」や「信仰」のような漠然としたイメージを持つのですが、その教理体系はきわめて緻密です。

・アヴァローキテーシュヴァラの詩は、とても多くの困難とその救済が唱われていますが、これらはすべて韻を踏んでいたり、並びに何か規則があったりするのでしょうか。
・今日は観音経を見ましたが、なぜ途中から詩の形の部分があるのでしょうか。これは漢文の特徴でしょうか。それともインドから文章と詩が入り交じった形になっているのでしょうか。

経典ではしばしば韻文が現れます。詩の部分はひとつのまとまった段落の最後に登場し、それまでに説かれた内容をまとめて説くことが一般的です。これはインドの仏教経典の古い時代からの伝統にもとづいています。前回の授業でお話ししたように、仏教のテキストははじめは口承で伝えられました。その場合、散文で伝えるよりも、韻文で伝える方が記憶が容易でしたし、正確に伝わりました(子どものころに覚えた百人一首はずっと忘れないのと同じです)。初期の「語り」はほとんどがこのような韻文で、教えのエッセンスのみが伝えられたようです。文字のテキストが現れるようになっても、このような韻文はそのまま残りますが、その韻文が説かれた状況や解説などが、散文の形で付け加えられます。そのため、散文の中に韻文が組み込まれたような形のテキストができます。『法華経』のような大乗経典の時代でもその伝統は残っていて、経典を制作するときには散文で説いた内容を、もう一度、韻文でまとめて繰り返すのです。なお、仏教に限らず、サンスクリットの韻文は厳密な韻律論がありますが、音韻の数とそれぞれの長さ(長短)が最も重要です。それに加え、さまざまなレトリックがあります。ヨーロッパの詩の脚韻や頭韻、日本の和歌の修辞などとはかなり異なります。

カサルパナ観音の上部にある五仏は密教五仏と関係がありますか。

五仏の印を見ると、密教五仏である可能性が高いです。光背の上部に密教五仏が表される例は、カサルパナ観音の他に、如来(おそらく釈迦)、マーリーチー、文殊、ターラー、パルナシャバリー(葉衣)などがありますが、五仏を表す理由や、中心となる尊との関係はよくわかっていません。中心となる尊ともっとも密接な仏が、五仏の中心を占めるという傾向はあります(若干、例外もあります)。たとえば観音であれば阿弥陀、マーリーチーであれば大日となります。

前回の残りのスライドの最後で、台座の部分は私たちの世界と仏の世界の共有部分といわれましたが、それはやはり重要なことなのでしょうか。宗教美術で私たちの世界のその上に天上の世界を描くようなことは多いように思うのですが。その作品の中で完結していると考えるのではなく、それを見るものも含めて複雑にとらえることは、思いもよらなかったです。

私たちはインドの仏像を見ると、当然、それは像とか彫刻ととらえますが、当時の人々にとっては仏そのものであったはずです。単なる石のかたまりではなく、何らかの魂の宿った聖なる存在として意識されたのではないかと思います。実際、仏像などが完成したときには、魂を入れる儀式も行いました(これは日本でも同様です)。そうすると、仏像は聖なるものであり、そのまわりも聖なる世界になるわけですが、その一部にわれわれの世界(いわば俗なる世界)に属する供物や帰依者などが登場することに、注目しています。仏像が「仏ではなく像として扱われている」と言ったり、台座の部分が仏とわれわれの共有部分と言ったのはこのような意味です。聖なる世界がわれわれとどのような形で接点を持つかは、美術に限らず、宗教を考える上では重要なことだと思っています。

レジメに何枚にもわたって載せられた漢文を見て、はじめ、これを全部授業でやるのかと思って驚きました。こんなにむずかしいお経をすべて覚えて、しかも意味まで理解できているお坊さんはすごいと思いました。

法華経の漢文は岩波文庫に読み下し文が入っていますので、読んでみたい方は見て下さい。授業で読んでもいいのですが、それで何時間も使うことになってしまいます。私は僧侶ではないので、あまりよく知りませんが、お経を覚えて意味も理解しているお坊さんはそんなにいないのではないでしょうか。

観音坐像の上部が山のモチ−フになっているのを見て、新聞一面右上の新聞名の部分を思い出しました。他の新聞がどうなっているか知りませんが、北陸中日新聞だと兼六園の石灯籠や雷鳥がさりげなく描かれていて、本場の中日新聞にはツインタワーやたしかお城等が描かれています。地元の特徴を主張しすぎることなく表そうとしている感じが、坐像の背景にこっそりいる動物やインドでの山のモチーフの存在と似ている感じがします。わかる人にはわかる的なところがよいのでしょうか・・・。

たしかにどこか似たところがありますね。うちは朝日新聞ですが、やはり東京版と大阪版で背景が違うそうです。いつもは何気なく見ているので気が付かないのですが、注意してみると、いろいろなモチーフが組み合わされています。


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