浄土教美術の形成と展開

1月17日の授業への質問・感想


聖衆来迎図はとても秩序だって描かれているのですね。二十五菩薩のフルメンバーの絵と、あとは切り取った阿弥陀三尊とか・・・、今度から見るときにわかりやすくなりました。高野山の大きな聖衆来迎図はぜひ一度生で見てみたいです。迫力ありそう。なんか映画館の3D映像がこちらに向かって飛び込んでくるようなイメージがあります。
来迎図は日本の浄土教美術の中でもとくに重要な位置を占めますが、描かれている人物(仏や菩薩)が画家の裁量ではなく、しっかりした約束事にもとづいていることは、あまり知られていないようです。高野山の聖衆来迎図はそのような伝統の中で生み出されたもので、来迎図のひとつの頂点を形づくっています。一昨年から昨年にかけて日本を巡回した「空海と高野山展」で、めずらしく高野山以外でも聖衆来迎図が公開されましたが、これからしばらくは見ることはむずかしいかもしれません。高野山の霊宝館でも通常は収蔵庫にしまってあります。ときどき、大正時代の模写が展示されていることもあります。

阿弥陀聖衆来迎図で、阿弥陀だけ風で衣がたなびいてないという点は、「阿弥陀だけ格が違うので、現実の(物理的な、あるいは俗な)風を受けない」などと妄想をふくらませてしまいました。阿弥陀こそまさに浄土(異世界)へと通じる鍵となる存在であり、その一点は他の一切と隔絶された格(次元)の違う部分なので、風を受けないことでそれを強調したとか。
いろいろ解釈が可能と思います。来迎図で衣や旗が風にたなびいている様子が表されるのは、来迎がきわめてすみやかに起こることを、おそらく表しているのでしょう。画面の中に往生者も描くことで、「あの世」から「この世」へのすみやかな到来と帰還がさらに強調されます。知恩院の早来迎は、雲なども加えることで、それを極端なまでにすすめた形です。来迎の中で阿弥陀を別格とするという考えは、高野山の聖衆来迎図で阿弥陀のみが金色に描かれていることにも通じます。また、阿弥陀は来迎にはやってきますが、実際に往生者を迎えるのは二菩薩です。仏が実際に活動するのではなく、その分身のような菩薩がかわりに行うという考え方も、阿弥陀を特別視することに通じるかもしれません。その一方で、坐像であった阿弥陀が立像になり、さらに今回取り上げる二河白道図のように、阿弥陀のみが来迎の場面に登場し、実際に往生者を迎えるというモチーフも現れます。このような変化も浄土教美術の興味深いところです。

今日の来迎図には奏楽菩薩がよく登場してきました。彼らがいることで来迎がより華やかになる印象を受けます。彼らが何を演奏してくれるのかが気になります。また持っている楽器は決まっているのでしょうか。
奏楽菩薩は、もともとは浄土図の中に現れます。阿弥陀の前に広がる蓮池の中に島を作り、そこで楽器を演奏する菩薩や踊りを踊る菩薩がいました。敦煌の作品の中で紹介しましたが覚えているでしょうか。来迎図に現れるのも彼らで、わざわざ出張しているようなものです。演奏している曲(?)が何であったかはわかりませんが、当時の人は何らかのイメージを持っていたことでしょう。迎講のような儀式で特定の曲が、いわばBGMとして演奏されることがあり、それが参考になるかもしれません。持っている楽器についてはおおむね何であるかはわかっているようです。有名なものとしては、次回取り上げる平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩がそれぞれ固有の楽器を持っています。可能であれば、そのときに少しくわしくみたいと思います。

有志八幡講の聖衆来迎図は、少し気味が悪く感じられました。というのも、色が青白く、唇が妙に赤いところや、先生がおっしゃったように冷たい感じ(人間味がない)だからです。これはスライドだからでしょうか。本物を直接見れば、少しはありがたく感じるのでしょうか。
スライドの色がオリジナルとは異なることは、若干あると思います。印刷物から複写したものですから、印刷の時点でも違いができます。しかし、作品から受ける印象というのはそれほど異なるものではないと思いますので、冷たい感じはおそらく正しい印象なのではないかと思います。この作品は、来迎図というばかりではなく、日本の仏教絵画の中でも最高峰に位置づけられるものですが、わたしもオリジナルをはじめてみたときは、どこかなじめないものを感じました。ルネッサンスの有名な画家で、「春」や「ヴィーナスの誕生」で知られるボッティチェルリに「神秘の降誕」という絵がありますが(ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵)、これを連想しました。この絵には天使が輪舞している様子が含まれるのですが、少しも人間的な暖かみが無く、「氷点下の踊り」などと評されています。

授業に関係はないのですが、先生が「霊能力はあります」とおっしゃったことに驚きました。どういったことを根拠として、そのようおっしゃっているのでしょうか。
別に根拠はなく、なんとなくそのように思っているというぐらいです。私は密教を専門としていますが、あまりオカルト的なことは好きではなく、神秘体験や精神世界というものにも興味がありません。ましてや、水子のたたりとか守護霊とかは、いたずらに人を不安にするだけのものだと思っています。しかし、これまでに見てきた人の中には、病気を治す能力のある人や予知能力のある人などがいました。いずれも合理的、科学的な説明ができないものです。霊能力ということばがあまりよくない印象を与えるとすれば、「超自然的能力」とでも呼ぶべきかもしれません。なお、私自身は残念ながらそのような能力は持ち合わせていません。


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