浄土教美術の形成と展開
12月20日の授業への質問・感想
作ることのむずかしい当麻曼荼羅という話でしたが、なぜ、そのようなむずかしい技術を施して作っていたのか気になりました。絵画ではだめだったのでしょうか。作るのも修行のひとつだったのでしょうか。
当麻曼荼羅は絵の具を用いて描いた絵画ではなく、綴れ織りの技法を用いた織物です。織物の歴史についてはあまりよく知りませんが、絵画との決定的な違いは持続性ではないかと思います。つまり、絵画の場合、絵の具の褪色や剥落がかならず起こるのに対して、織物の場合、糸そのものが染められているので、そのような問題から解放されます。藍染めや草木染めなどが最近流行していますが、実際に経験してみると、そのことがよくわかります。あるいは、千年以上前の正倉院の御物や、中央アジアなどから出土した織物が、現在でも当時の色をそのまま残していることも、テレビや展覧会などでもよく目にします。ヨーロッパでもタペストリーは、宗教絵画のひとつとして古くから発展してきました。しかし、絵画とは異なり、織物は縦糸、横糸1本1本を重ねていくことで、デザインを生み出すので、その労力はたいへんなものです。幾何学的な模様でもそうなのですから、まして、当麻曼荼羅のような複雑な図像を織り上げるのは、想像を絶する時間と、高度な技術が予想されます。当麻曼荼羅が中国で制作され、日本に請来されたという説があるのもそのためです。その一方で、このような複雑なものであるからこそ、一晩で織り上げたという奇跡譚も生じたのでしょう。蓮の糸を用いたという伝承も、その精妙さからきたと思われます(極楽の蓮池のイメージもあるのでしょうが)。
「坐像か立像か」はどのように重要なのですか。製作年代の前後と関わりがあるのでしょうか(来迎会を行うようになると、坐像より立像である必要ができたりするのですか)
当麻曼荼羅の原本は当麻寺に伝わるもので、現存する当麻曼荼羅はこれを転写していったものとされますが、細部にはいろいろな違いがあります。とくに九品往生の部分に現れる阿弥陀に坐像と立像の二つのタイプがあることから、坐像を新図、立像を古図と伝統的に呼んできました。もちろん、製作の時期を意図した用語です。しかし、ややこしいことに、実際は坐像の方が古い形式、立像の方が新しい形式であることが、来迎図との関係で明らかにされています。このような混乱が生じた原因は、原本の当麻寺の曼荼羅が、早くから下辺の九品往生の部分を欠いていたためと考えられます。来迎図の中の阿弥陀が坐像から立像に変化したのは、本来極楽浄土の教主で、浄土図の主役であった阿弥陀が、わざわざ往生者を迎えにくるという場面に転用されたことによるようです。つまり、浄土図の中で坐像で表されていた阿弥陀を、そのまま坐像の姿で来迎させるよりも、立ってこちらに向かってくるという、より積極的な姿勢をとらせたのでしょう。その背景には来迎会のような儀式もおそらく関係すると思いますし、今回取り上げる臨終行儀も密接にかかわると思います。山越え阿弥陀のような図像の誕生も、立像の阿弥陀や臨終行儀からはじめて説明できるものです。そのような点でも、当麻曼荼羅は日本の浄土教美術の主役のひとつになるでしょう。
上品上生のフルメンバーが迎えに来てくれるのを、実際に人間が演じてみせる迎講は、ありがたいようでいて、どこか滑稽にも見える。でも、当麻曼荼羅をはじめ、浄土曼荼羅自体が、儀礼や説話的要素を含み、人々が極楽浄土へのあこがれをリアルに感じることができるという具体的な絵であるので、迎講もやはり人々がそういった具体的なイメージを思い浮かべるのに、とても有効な儀式であると思う。
宗教美術の特質として、単に鑑賞を目的とするのではなく、儀礼や儀式などと密接な関係を持ち、そのような場面で用いられる点があります。その場合、芸術作品と呼ぶよりも、むしろ儀式の装置や道具のひとつとしてとらえることができるでしょう。当麻曼荼羅も単に極楽浄土や観経の内容をそこから知るのではなく、儀式の中で用いられ、絵解きされることがもっとも重要な機能だったと考えられます。演劇的、芸能的な性格を持つ迎講は、それとはまた別の点で、絵画と儀礼を結びつけますが、さらに中将姫伝説という説話的な要素が加わることが、文化史的にも重要でしょう。本来、極楽浄土図というのは極楽世界をパノラマ的に描いた景観図であって、そこには説話的な要素は含まれません。しかし、観経の阿闍世王説話が盛り込まれたり、十六観が加わることで、絵画としても変質していきます。迎講の誕生は、このような説話の力が絵画の外にまであふれ出したような感じがします。そして、説話は演劇的な要素をはらんでいますし、儀礼も一種のパフォーマンスとして、演劇や芸能と密接にかかわります。
迎講の面は木製ということですが、相当重そうだと思ってしまいました。視野も狭くなるだろうし、練り歩くのはとてもたいへんそうだと、いらぬ心配をしてしまいます。仏像をすぽっとかぶるのもたいへんですね。動くことがそれほど重要であったということでしょうか。
迎講のお面はかなり現存していて、石川県でも重要文化財に指定されているものがいくつかあります。私も以前、大分や福島で実際にさわってみたことがありますが、それほど重いものではありません。木製ですが十分乾燥されていますし、きわめて薄く削られています。もちろん、縁日のセルロイドのお面ほど軽くはありませんが、ひもで縛り付けて固定できる程度の重さです。能の面と似たようなもので、実際、このような面を作る技術は、両者で共有されていたようです。目のところに穴があいているだけなので、たしかに視界は狭いのですが、ゆっくりした動き(お練りというぐらいですから)を行うのには問題ないでしょう。寺院によっては、付き添いの人が手を持って歩く場合もあるようです。阿弥陀象をそのままかぶるのは、これとは違い、たしかにけっこう重そうです。しかし、お練りをしながら来迎するのは二十五菩薩だけで、阿弥陀は本堂から縁まで少し移動するだけだったようなので、それほどたいへんではなかったのでしょう。むしろ、それだけの移動でも、見ている人にとっては「阿弥陀様がいらっしゃった」ということで、相当な演劇的効果をもたらしたのではないかと思います。
当麻曼荼羅が二百数十本にも展開していることはすごいと思いました。複雑な展開をしたということでしたが、儀式の装置として使用されたことが印象的でした。言い方は悪いのですが、「はやったんだなぁ」と思ってしまいます。儀式がたくさん行われたこともそうで、当麻曼荼羅を必要とした人がたくさんいたということがわかった気がします。もちろん形式も大事だけど、形を変えても人に何かを伝えたいという思いは一緒なんだなぁと、当たり前のことなのに感心してしまいました。
当麻曼荼羅の流行は、平安から鎌倉にかけて活躍した証空によるところが大きく、とくに彼の開いた浄土宗西山派(せいざんは)で重視されたのですが、たしかにその数は、他の浄土経曼荼羅と比べて格段に大きいものです。当麻寺に伝わる原本は縦横四メートルあまり巨大な作品ですが、実際に流布したのはその四分の一や六分の一の大きさのもので、いわば縮小コピーのようなものです。それぞれの作品の特徴や製作に関する伝承などから、いくつかの系譜がたどれるようですが、網羅的な研究はそれほど進んでいないのが実状です。ちょうど、文献の写本がいくつも現存していて、写し間違いなどから写本の系譜(geneology)をたどるような作業を行うようです。けっこうおもしろいと思うのですが。
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