浄土教美術の形成と展開

12月13日の授業への質問・感想


浄瑠璃寺では9体の阿弥陀が像として作られていたが、見返り阿弥陀の帰り来迎の話を聞いたとき、たしかにたくさんの人々を浄土に連れていったり、迎えに向かうには一つの身体に制約されるより、そういうものから自由な阿弥陀の方がよいよねと思いました。今さら的なことですが。しかしながら、人間死んだらどんな見た目になるんでしょうね。みんなあのパンチパーマみたいな頭になるんでしょうか。
日本の阿弥陀像の多様性は、そのまま来迎の思想の日本的展開に対応します。前回からの浄土教の曼荼羅や、今回以降取り上げる来迎図はその応用編といったところです。逆に、阿弥陀如来像を理解するためには、来迎図のさまざまなパターンを知る必要があります。阿弥陀の姿がさまざまであることは、日本人にとっての浄土やそこへの往生に、特定のイメージに限定されない多様な可能性が許されたということなのでしょうね。ところで、授業で取り上げている浄土教美術は、いずれも平安から鎌倉にかけてのもので、その基盤となっているのは平安時代の現れた浄土教思想です。これにたいし、鎌倉新仏教として現れた浄土真宗では、来迎図や迎接の阿弥陀などを見ることはありません。ほとんどの真宗の寺院では、阿弥陀の立像が安置されているだけで、その他には、名号を書いた軸や、祖師の親鸞などの画像がまわりの厨子などに掲げられているだけです。場合によっては親鸞の行状図がかけられることもありますが、これは絵巻物的な性格のものです。浄土真宗というのは一種のプロテスタント的な宗教なので、浄土教美術の持つ仏像や画像の華やかさにたいして禁欲的な態度を示し、それが図像の画一化を生んだようです。浄土教美術の多様性にいわば背を向ける立場をとったのですが、これは親鸞の説く「絶対他力」の教義から見れば、必然的な結果でしょう。一方、同じ鎌倉新仏教でも、法然の浄土教団は証空の当麻曼荼羅重視の姿勢にも見らるように、観想念仏を重視するため、来迎のさまざまなイメージがよく保たれています。当麻曼荼羅や来迎図のすぐれた作品が、現在、浄土宗の寺院にしばしば残っているのはこのためです。質問の最後の「パンチパーマ云々」は、実際に経験しなければ(つまり死ななければ)わかりませんが、浄土思想の基本として、極楽浄土への往生者は、まず「一生補処(いっしょうふしょ)の菩薩」として極楽に生まれます。これは菩薩としての修行を終える最後の人生を極楽で過ごすということで、そのあと、自分の仏国土へと仏として生まれ変わります。パンチパーマになるのはその時で、極楽ではまだ菩薩の姿をしています。実際、浄土図に現れる仏は阿弥陀だけで、ひとつの仏国土にはひとりの仏しかいないというのが、仏教の基本的な考え方です。なお、仏の頭のパンチパーマは螺髪(らほつ)と言って、仏の三十二相の一つです。

蓮の花からはじまり、五鈷、独鈷、月輪・・・と阿弥陀を瞑想していくやり方(つまり、最初に大枠の「場」を想定し、それから分割、捻出していくやり方)は、インドの思考パターンに合致すると思います。つまり、前期のヴァイシェーシカ学派等は、世界をいくつかの元素にわけ、さらにそれを何段階にも分割(細分化)していくことで、世界を把握しようとしますが、これも「最初の大きな一つのもの」から、より小さな下位概念を考えています。これと逆行するのが、一つ一つの小さなものをはじめに認識し、それをだんだんとグループ分けし統括していって、最終的に「唯一の真理」にいたる考え方でしょう。この二つの思考パターンを比較すると、前者のインド的な思考の方が、より論理的に明解であり、また「異端」に属するか否かがはっきりしていると思います。
仏の瞑想から世界を認識するパターンに思索を広げていくのは、なかなかおもしろい発想です。われわれが世界を認識する方法として、世界を全体として把握し、それをカテゴリー化する(「元素」というよりは「要素」か「カテゴリー」の方が適切でしょう)立場と、個々の現象から全体を構築する立場の二つが、対照的に存在するのはたしかでしょう。帰納的、演繹的ということばでも表現できるかもしれません。仏の瞑想もこれに対応するという着想も理解できます。仏というのはインド的な文脈では、ウパニシャッド哲学のブラフマン(梵)やアートマン(我)にも通じ、その場合、哲学的な意味での世界に置き換えることができるでしょう。ただし、授業で紹介した紅玻璃の阿弥陀の瞑想は、「全体から部分」という方向とは少し違うようです。これは密教における仏の瞑想の基本的なパターンで、五鈷や独鈷は一種のシンボルとして登場します。ここでは用いられませんでしたが、文字がシンボルとなる場合もあります。仏そのものを瞑想するよりも、まずはじめに、その仏と密接な関係のあるシンボルを明瞭にし、それを「転換」させて仏のイメージにするというのが基本になっています。このような瞑想法の背景には、宗教美術一般に見られる「聖なるものは形式化されて表現される」という考え方もあるでしょう。インドの初期の仏教美術における「仏の象徴的表現」もそのひとつです。瞑想法のパターンを考えた場合、全体から部分と、部分から全体という二つの設定はおそらく有効です。観経に説かれた前十三観は明らかに「部分から全体」という方向性を持っています。シンボルからの瞑想も、おそらくこの方向に、わかりやすい「きっかけ」を与え、段階的に整備したものだと思います。これに対し、来迎を見るというような体験は、むしろ直感的、受動的なもので、イメージ全体がまとまって現れるはずです。来迎する阿弥陀や菩薩たちをひとりずつ増やしていくというようなものでは、おそらくないでしょう。興味深いのは、このような瞑想法の違いは、しばしば瞑想の対称の持つイメージの違いにもなって現れることです。「聖なるもののイメージ」は、それを見るもののあり方に、かなり依拠するということですが、これについては説明が長くなるので省略します。

浄土図は描かれているものひとつひとつとってみると、そんなに違いがないようなのに、ちょっとしたバランスや視点の違いで、ずいぶん雰囲気が変わっておもしろいです。清海曼荼羅は、観光地等で売っている「金のしおり」のようだと思ったのですが、金、銀のみ使っていたんですね。
中国に起源のある浄土図は、遠近法の素材としてもよく用いられます。われわれは一般にひとつの視点から見た絵を描くように、小さいときから教育されていますが、実際に美術史の中で取り上げられる絵画は、むしろさまざまな視点からみた形を組み合わせて描かれるものの方が多いようです。浄土図の場合、中央の阿弥陀と聖衆は正面から、上段の楼閣は下から、下段の蓮池は上からという3つの視点から描かれることがしばしば見られます。視点の問題は、対称とどのように向き合うかという問題になるので、宗教的な美術の場合、単に描くものの視点という以上に重要な意味を持ちます。たとえば、真正面から仏に向かい合うということは、その仏とに対して自分がダイレクトに働きかけることが暗示されています。逆に、叙景的に描かれた浄土図は、すでに浄土や阿弥陀の観想などから離れ、一種の風景画のように扱われているのかもしれません。清海曼荼羅の特徴のひとつが、描かれた主題ではなく、紺地に金銀泥で描かれるという表現方法にあることは、いろいろなことを示唆します。日本の美術史上で、このような描かれ方をした作品としては、空海にゆかりのある高雄曼荼羅(たかおまんだら)があげられます。唐から請来した金剛界と胎蔵界の2輻の巨大な曼荼羅にもとづいて、紫綾紺地の絹に、金泥と銀泥で描かれていますが、唐からの請来本は彩色本であったので、あえてこのように描かせた理由が謎なのです。寺院の内部に懸けられ、儀礼で用いられるときの効果をねらったという説や、仏という聖なるものを描くために金や銀を用いるという説などがあります。高雄曼荼羅の他にも子島曼荼羅(こじままんだら)という有名な両界曼荼羅でも類似の手法が用いられています。清海曼荼羅はこれらの密教の曼荼羅とは種類が異なりますが、あえて同じ手法をとったことが注目されるのです。その場合、清海が感得したという伝承も意味を持つかもしれません。感得というのは、密教に特有の仏のイメージ体験であるからです。


(c) MORI Masahide, All rights reserved.