浄土教美術の形成と展開

12月6日の授業への質問・感想


先生の話にもあったが、平安前期の阿弥陀像が金沢日にあることが、たいへん不思議だと思った。近世以前の金沢は今日のように核となる土地ではなかったと思うのだが・・・。また、今日の授業には関係ないことなのだが、さっきふと「あみだくじ」のことを思い出して、この阿弥陀は阿弥陀なのだろうかと疑問に思った。もし、そうだとしたら「あみだくじ」にはどのような意味や由来があるのだろうか。
伏見寺は現在では金沢の中心である寺町5丁目あたりにありますが、もともとは野々市にあったそうで、江戸時代に寺町が前田家によって整備されたときに移転したと聞いています。その本来の場所からもわかるように、伏見寺はむしろ北陸修験と関係があるようで、とくに白山信仰との結びつきが顕著なようです。伏見寺の開基は、東大寺建立に功績のあったことで有名な行基と伝えられ、その歴史の深さも相当なものです(ただし、日本中に行基や空海の開基のお寺は無数にあります)。平安前期の阿弥陀像があるのも、このような由緒からすれば当然かもしれません。また、この阿弥陀像が金銅仏であることも注目されます。白山の本地仏として伝わる仏像の多くは金銅仏で、この地域に独特の金銅仏文化圏があったのかもしれません。白峰村の林西寺にある白山下山仏(明治初期の神仏分離令で白山頂からおろされた仏像)の多くも金銅仏です。伏見寺の阿弥陀如来坐像は機会があれば、住職にお願いして拝観したいと思っています。あみだくじについては断片的な情報ですが、阿弥陀如来像の後光から来ているそうです。現在ではあみだくじは縦と横の線で作りますが、もともとは賞品や賞金を中心にかいて、そこから放射状に線を引いて作ったそうで、その形が阿弥陀の後光に似ているとのことです。いつ頃からあるのかはわかりませんでしたが、授業で扱っている平安や鎌倉の阿弥陀像ではなく、浄土宗、浄土真宗が民衆に広まった結果、本尊仏としての阿弥陀像のイメージが、人々の間に浸透してからのことでしょう。

先生の話にもあったが、平安前期の阿弥陀像が金沢日にあることが、たいへん不思議だと思った。近世以前の金沢は今日のように核となる土地ではなかったと思うのだが・・・。また、今日の授業には関係ないことなのだが、さっきふと「あみだくじ」のことを思い出して、この阿弥陀は阿弥陀なのだろうかと疑問に思った。もし、そうだとしたら「あみだくじ」にはどのような意味や由来があるのだろうか。
伏見寺は現在では金沢の中心である寺町5丁目あたりにありますが、もともとは野々市にあったそうで、江戸時代に寺町が前田家によって整備されたときに移転したと聞いています。その本来の場所からもわかるように、伏見寺はむしろ北陸修験と関係があるようで、とくに白山信仰との結びつきが顕著なようです。伏見寺の開基は、東大寺建立に功績のあったことで有名な行基と伝えられ、その歴史の深さも相当なものです(ただし、日本中に行基や空海の開基のお寺は無数にあります)。平安前期の阿弥陀像があるのも、このような由緒からすれば当然かもしれません。また、この阿弥陀像が金銅仏であることも注目されます。白山の本地仏として伝わる仏像の多くは金銅仏で、この地域に独特の金銅仏文化圏があったのかもしれません。白峰村の林西寺にある白山下山仏(明治初期の神仏分離令で白山頂からおろされた仏像)の多くも金銅仏です。伏見寺の阿弥陀如来坐像は機会があれば、住職にお願いして拝観したいと思っています。あみだくじについては断片的な情報ですが、阿弥陀如来像の後光から来ているそうです。現在ではあみだくじは縦と横の線で作りますが、もともとは賞品や賞金を中心にかいて、そこから放射状に線を引いて作ったそうで、その形が阿弥陀の後光に似ているとのことです。いつ頃からあるのかはわかりませんでしたが、授業で扱っている平安や鎌倉の阿弥陀像ではなく、浄土宗、浄土真宗が民衆に広まった結果、本尊仏としての阿弥陀像のイメージが、人々の間に浸透してからのことでしょう。

源信が往生要集の根拠として仏典を持ってきたところなど、他の宗派の人たちがその反論者に対処するためだったのだろうかと感じた。
源信が他の宗派からの論争を挑まれたということは、あまり聞いたことがないので、おそらくそうではないと思います。仏教の文献、とくに経典ではなく論書と言って、高僧などが著した著作の場合、何かを論ずるときに経典からの引用を行うことは、きわめて一般的なことです。仏教というのは学問や科学ではなく宗教なので、信仰つまり信じることが中心にあります。その場合、何を信じるかというと、第一にあげられるのは仏の教えです。逆に、どんなにすばらしいことや正しいことを述べたとしても、それが経典に根拠を持たなければ、それは仏教の教えにはならないのです。仏教の経典にしばしば見られる冒頭の定型句「如是我聞」(かくのごとく我聞けり)というのは、私は釈迦(あるいは別の仏)から以下のことをたしかに聞いたのだということを示しています。これによって仏の教えであることが確認されることになります。もちろん、すべての経典が釈迦一人によって説かれたことは、おそらく歴史的にはあり得ないでしょう。しかし、仏教である限り、それを前提としなければ、宗教として成り立たないのです。別の次元の話になりますが、仏教の研究方法として、このように引用される経典を明らかにし、その本来の意味と、引用された意図との異同などを比較するという方法があります。その場合、研究者自身にも、仏教の思想を知るためには、仏の教えと言われるものがどのように説かれ、さらにどのように理解されたかを文献を通して知ることができるという共通の認識があるからです。

法隆寺の阿弥陀三尊像の蓮が蓮池から生えていると聞いて、はっとしました。この像の写真は今までに何回も見ているはずなのに・・・。すでに外からの影響を受けていることがわかって、気を付けてみるといろいろわかるなぁと思いました。伏見寺にはもうだいぶ前になりますが行ったことがあります。このような像は見なかったと思うので、今にしてみるととても残念です。仏像を作る人は、それまでの作品や文献に影響を受けて、自分の作品を完成するのだと思いますが、何をどれだけ見たか、そしてどんなところを大切にとらえて表現したか、いろいろ気になるところです。宋代絵画の影響のことも・・・。当時の作者に話を聞いてみたい。
作品を注意深く見ることが大切であることはそのとおりです。美術史の人たちは本当に作品を見ることに絶大なエネルギーを注ぎます。そういう人たちと一緒に作品を見る機会があると、同じように見ていながら、いろいろなことにまったく気がつかないで見ていることがあることがよくわかります。私の分野ではインドなどの海外に調査に行くことがあるのですが、何日もかけて出かけていくのも、写真ではなく実物を自分の目で見るためです。後半の仏像制作者に関するコメントもそうですね。歴史的な作品を残すような芸術家は一種の天才ですが、まったく何もないところからそのような作品を生み出すことはあり得ないでしょう。とくに仏像制作というのはむしろ職人の仕事なのですから、独創性よりも伝統に忠実であることの方が好まれたはずです。しかし、従来の作品の全くの模倣では、見る人の心を打つような作品とはなりえません。新たな様式、新たなスタイルを生み出したような傑作とは、その時代の人々の嗜好を満足させると同時に、時代を超越した完全性のようなものもそなえたものなのでしょう。一般論としていうのは簡単なのですが・・・。鎌倉時代の仏教美術に中国の宋代や元代の仏教美術が与えた影響はとても大きいのですが、高校の日本史などではほとんどふれられていません。仏教美術史の分野でもこの領域は、どちらかというと本流からはずれたような扱いをされてきましたが、近年、注目を集めつつあります。至文堂から出ている『日本の美術』でも3年ほど前に「宋元絵画」という特集を組み、研究の全体像と最新の成果が、まとまった形で読めるようになりました。日本の仏教美術がアジアの美術の一部であることがよくわかります。

阿弥陀の光は白毫から発されるというのは何となくありがたみにかけてしまうような気がします。私の貧困な想像力では、工事現場に使われるようなヘルメットにライトが付いたものの光のようなものしか想像できないので・・・。
工事現場のヘルメットというのはなかなか斬新なイメージです。炭坑などでも見られるものですよね。白毫というのは仏の三十二相のひとつで、その中でもよく目に付く基本的な特徴であるため、仏像が誕生した頃からすでに表現されています。ここから光を発するのは阿弥陀に限らず、大乗仏教の経典では釈迦などのあらゆる仏に見られます。『法華経』などの大乗経典の冒頭では、釈迦が宇宙全体を照らすときに、やはり白毫から光を発するという記述が見られます。単にサーチライトのように、ある方向に光を当てるのではなく、そこを核として、宇宙全体が明るくなるというイメージのようです。それによって、あらゆる生類は、宇宙全体を見渡すことができるという、とても不思議な光なのです。白毫というのは白い毛の房のことで、のばすと1メートルだかの長さがあるのですが、いつもは丸く渦を巻いて眉間に収まっています。基本的には毛が生えているだけのことなのですが、眉間にあることも重要で、ここがエネルギー照射の源泉となっているようです。なお、阿弥陀の白毫から光が出ることは、来迎の場合、重要な意味を持ちます。白毫の光から阿弥陀の来迎を確認することができるからです。阿弥陀というのは「無量光」という意味を持ち、光のかたまりのような仏です。阿弥陀来迎図の中でも山越えの阿弥陀では、わざわざ白毫のところに穴をあけ、そこから光を照らしたという演出も、臨終行儀で行われたようです。

「親鸞は密教です」をもっと詳しく教えてください。たまたま昨日、NHKで兵庫の浄土寺をやっていました。阿弥陀三尊像の背後にある窓を開けると、光が射し込み、いかにも浄土からやって来ました!という神々しさでした。TVを見ていておもわずスゲーと叫んだほどでした。いい演出するなぁと感心しました。
「親鸞は密教です」は少し誤解を招く表現かと思いますが、親鸞の説く絶対他力というのは、究極の自力ということです。詳しい話は前回お話しした程度のことしかできないので、繰り返しませんが、すべてを「阿弥陀のはからい」にゆだねることができるような境地に至るのは、いかなる修行よりもたいへんなことなのです。一般的なテーゼですが「正反対のものや両極端を突き詰めると、一致する」ということです(これも理解困難かもしれませんが)。兵庫の浄土寺の放送は私は見ていませんでしたが、授業の理解のためにもタイムリーでしたね。浄土寺は平安末から鎌倉にかけて、奈良の仏教界の最重要人物で、東大寺の復興に貢献した俊乗房重源によってたてられた別所のひとつです。その地名から「播磨の別所」とも呼ばれました。別所にはこのほかにも周防や高野、伊勢などにあり、彼の全国的な活動の拠点として重要な役割を果たします。重源は慶派との結びつきも深く、浄土寺の阿弥陀像のほかにも、東大寺南大門の仁王像や重源自身の坐像などの制作も、重源との関わりから慶派が行っています。かれらを結びつけたのは単に仏師と依頼者という関係だけではなく、阿弥陀信仰も重要でした。浄土寺にみられる設計による演出効果には、快慶も関わっているようですが、浄土教の美術は、これから取り上げる来迎図や練り供養(迎講)のように、演劇的な要素やパフォーマンスとの関連が顕著です。単なる造形作品ではなく総合的な芸術としての性格をそなえているところが、浄土教美術の興味深いところでしょう。


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