浄土教美術の形成と展開

11月29日の授業への質問・感想



暁烏文庫は日本文学の勉強をするときによく利用している。ボタンを押して本棚を開くのはだいたい900番あたりなのだが、いわれてみれば仏教系の本の分類番号の棚が多いような・・・今日も行くので見てみようと思う。使っているのに暁烏文庫についてよく知らなかったなぁと思った。続けて、あまり関係ないが、空海には化け物退治などの伝説が数多く残っているような気がして少し調べてみたいと思った。「御伽草子」などで庶民によく知られたのはだいたい弘法大師、それから法然上人・・・文学と仏教は切り離せず、末法思想が出た後には「よくよく後生肝要なるべきなり」などと結ぶ物語も多くなるし、法然上人の説法もいろいろな文学のあちらこちらで行われている。そういった面から仏教にアプローチすることが多いので、密教とそこから来ている浄土教の動きなどに注目して文学を見るとことはやはりおもしろそうだと思う。それにしても法然上人はよく出るのだが(僧といえば・・・という感じで)、何か意味があるのかと不思議。
前回ははじめに暁烏文庫の紹介をしました。この文庫は金沢大学が誇る一大コレクションです。金大に着任してしばらくしたときに、この文庫をはじめて見たときには誇張ではなく感動しました。職業柄、仏教関係の文献のコレクションはいろいろ見てきましたが、個人でこれだけ集めているのは驚きです。日本文学関係の方がよくお使いになるというのは、むしろ意外でしたが、それだけこの文庫がもつバランスの良さのあらわれでしょう(もちろん、ご指摘のように仏教と文学との関係の深さもありますが)。弘法大師や法然上人などの高僧の説話はおもしろいですね。弘法大師については、一般に「大師信仰」と呼ばれています。弘法大師(空海)はもちろん歴史上の人物ですが、それを越えて神格化されて、密教、弥勒信仰、高野山信仰などともからみあって、絶大な信仰を集めました。四国や高野山を訪れると、弘法大師がいまでも「生きている」かのようです。『大師信仰』というタイトルの本もいくつかあります。法然上人については私はあまり知識がありません。授業では平安時代までの浄土教美術を中心とする予定なので、法然や親鸞以降の浄土教はあまり取り上げませんが、ぜひご自分でもいろいろ調べてください。「法然上人絵伝」のような作品などもあります。法然の弟子のひとりの證空という人物は、当麻曼荼羅の流布に功績があった人物なので、鎌倉期の人物ですが、少しくわしく紹介するつもりです。それにしても、平安期の説話文学は日本における仏教の受容のあり方を示すものとして、とても興味深いものです。『今昔』や『日本霊異記』などをじっくり読んでみたいと、私もかねがね思っています。

私はおみくじがけっこう好きなので、見かけると引きたくなるのですが、おみくじは神社に置いてあるイメージがあるので、発明者が天台の僧というのが意外だと思いました。おまりお寺と神社の区別がなかったためでしょうか・・・。私がたまたまお寺でおみくじを引いた記憶がないだけなのかもしれないですが。
おみくじの発明者が元三大師(良源)であると紹介しましたが、正確には、おみくじの起源は元三大師までさかのぼると言うべきところでした。いささか安易ですが、インターネットの検索で「おみくじ 元三大師」でひくとかなり出てきました(Googleで1,580件)。比較的よくまとまっているものとして、ひとつだけ紹介しておきます。

 実は元三慈恵大師良源上人(912〜985)が仏教各宗の寺院や神社で行われている「おみくじ」の創始者であることは案外知られていない。慈恵大師が観音菩薩に祈念して偈文(げもん)を授かった観音籤(くじ)が起源と言われる。また、元三大師が如意輪観世音菩薩の化身であると言われているところから、「観音籤」の名があるともいわれる。
 江戸時代初期、東京上野の寛永寺に黒衣の宰相といわれた天海大僧正(1536〜1643)という方がおられた。天海大僧正は常々慈恵大師に深く帰依されていたが、夢枕の中に慈恵大師が現れて、「信州戸隠山明神の御宝前に観音百籤あり。これは、後世複雑な社会において人々の困難を救うために観音菩薩に祈念していただいた、いわば処方箋ともいうべきである。これを私の影像の前に置いて信心をこらして吉凶禍福を占えば、願いに応じて禍福を知ることができるであろう。そうして衆生を利益せよ」というお告げをいただいた。早速に人を戸隠に派遣して確かめると、偈文百枚が納められていたという。
 『観音経』には「浄聖なる観世音菩薩を念じ、念ぜよ。疑いを生ずることなかれ。観世音菩薩は苦悩や死や厄災において、頼みとして最高の救世主である」と説かれている。
番号を付けた百本の籤を小さな穴のあいた箱に納め、至心に祈りながらそのうちの一本の籤を得て、引いた番号に相応した偈文によって、願う事柄の吉凶を判断すると、的確な指示が得られたのであった。
 現今の神社仏閣で気軽に引けるおみくじは、この「元三大師百籤」から発展したもので、人間の運勢、吉凶を五言四句の偈文(漢詩百首)や和歌(=神社に多い)にまとめ、一番から百番まで連番をふり、引いた番号に書かれた文面で占うものである。(http://www.niji.or.jp/home/myoho/ganzan/omikuji-1.html

お寺と神社の区別をわれわれは当たり前のように行っていますが、日本の宗教史を眺めた場合、これはかなり特殊なことで、明治初期まで千年以上にわたって両者は密接な関係を有していました。

慶滋保胤の二十五三昧会がホスピス的だと聞いて、単なる宗教ではない一面を感じた。言い過ぎかもしれないが、老人介護や心のケアという側面もあるかと思いながら聞いた。
現代的な意味でのホスピスとはもちろん違いますが、死を迎えるために、日頃から緊密なネットワークを持った集団がいて、その準備を怠らず、実際の臨終においても、その前後の一連の手続きをこの集団が遂行するという点では、通じるものもあるようです。実際、ホスピスの活動をする人の中には、中世の「臨終行儀」に関心を寄せる人もいらっしゃるようですし、僧侶の立場からもこれらを結びつける人もいます。臨終行儀は[死の儀礼]ですが、実際は死にゆく人ばかりではなく、残された人々が、それを乗り越えて生きていくための儀礼でもあります。これはホスピスでも重要なことのようです。

来迎図を見たかどうかをどうにかして伝えるよう、死にそうな人に頼むのは、今の感覚からするとひどいように思いました。夢の仲ででもいいから伝えてほしいというのは、昔の人が夢に現実とつながりがある、現実のことが反映されると考えていたからなのかなと思いました。
すぐ上にも書きましたが、それほどひどいことではないと思います。でも芥川の「六の宮の姫君」などでは、臨終にあたっても来迎を見られない人の悲惨な姿が描写されていて、それはまた別の意味でひどいことなのかもしれません。夢については、当時の人々にとってはむしろ、現実よりも重視されていたと思います。仏や菩薩などが現れるのも夢の中ですし、そこでの「お告げ」は真実をつたえます。現実のことが反映されているというよりも、現実では知ることのできない真実が姿を現すのが夢なのでしょう。現代人の感覚では現実こそ真実と当たり前のように信じていますが、けっしてそれほど単純ではないのです。

オペラのような念仏をぜひ聞いてみたいです。話を聞いたとき、教会での賛美歌が思い浮かんだので、これをお坊さんがあの雰囲気でアカペラでやるのかと思うと笑えました。
CDやDVDも出ていますので、ぜひ見たり聞いたりしてください。おそらく「笑える」という感想ではなく、崇高とか神秘的とか粛然という印象を持つことになるのではないかと思います。宗教と音楽は本来、密接な関係があり、西洋でもいわゆるクラシックは教会音楽が基礎にあります。グレゴリオ聖歌などはそのひとつですし、バッハの作品でも、そのおそらく9割以上は宗教音楽です。日本の仏教でも、儀礼や儀式では音楽的要素が大きな位置を占めます。たとえば、真言宗では「声明」(しょうみょう)が有名ですし、一般の信者も含むものとしては「御詠歌」(ごえいか)があります。多くの宗派はその伝統を伝えるために、節回しや発声法を表すためのさまざまな記号や表記法を工夫してきました。音楽的な要素が最も希薄である浄土真宗でもそれはあります。なお、仏教寺院でも楽器はいくつもあり、アカペラで唱われるるものもありますが、これらの楽器を伴奏にして行うパフォーマンスもあります。

暁烏文庫ははじめ何もわからないときに見て単純に感嘆しました(最近では「地下2階」と聞くだけでゲップが出る傾向にあります・・・)。パソコン嫌いの私はよく「本棚を読む」というのをやりますが、Opacと違ってインスピレーションがわきます(ネタ探しには最適だと思います)。暁烏文庫も敬遠せずに、とりあえず「本棚読み」からはじめて「本読み」に向かうべきなのでしょうが・・・。地下二階の照明がとりあえず暗すぎます。
前回のQ&Aに「日本や朝鮮半島に石窟が少ない理由」とありましたが、やはり内陸部と比べて、とくに日本においては火山活動が関係していると思います。何もないまっさらな石を彫ったのではなく、むしろ、もとからある自然の洞窟を拡大する方向で石窟が作られたと思うのですが、そうした洞窟が(風や水で削られたのではなく)火山活動によるものなら、壁に彫ったものはつぎの火山活動により壊れてしまう。つまり保存性が低いわけです。だから仏菩薩らは壁に直接彫るのではなく、彫像を安置するものだったのではないでしょうか。(江ノ島大明神=弁財天は、そもそも密教僧が洞窟内で感得し、その像が洞窟内に祀られたと、S先生の演習の授業で使う英文で読みました)。

暁烏文庫の照明が暗いことは、私はあまり気がつきませんでした(もっと暗い図書館をたくさん知っているので)。図書館の方に伝えておきます。暁烏文庫のとなりにある「四高文庫」もなかなかおもしろいです。ちなみに、暁烏文庫は目録が出ていて、図書館のカウンターの反対側の、冊子体の目録の中にあるので、全体像を知ることができるのですが、四高文庫には目録はないようで、Opacで検索する以外は、やはり直接、本棚を読む必要があるようです。石窟と火山についてはよくわかりません。たしかに日本には火山が多いですが、それ以外の山もありますし、50年、100年という間であれば、火山活動がない山もたくさんあります。石窟の問題は少し横に置いて、仏像を作るときの素材に何が選ばれるかを考えると、日本とインドではかなり違いがあります。日本では仏像といえば、木造彫刻が第一にあげられますが、インドでは圧倒的に多いのが石造です。仏像のような聖なるものの像は、その表現が美しいとか崇高であるということとともに、できるだけ長く形態が保てる(できれば永遠に)ことが期待されます。その点、木は石に比べるとかなり保存には難があります。しかし、それにもかかわらず木が選ばれたということは、日本人にとって木が石や岩以上に特別な存在であったからでしょう(霊木などが古くからありますし、神社にはしばしば御神木があります)。江ノ島の弁天と感得についてはわかりませんが、もともと弁天が水とつながりが深い神であることや、洞窟という空間がもつ宗教的な意味(死と再生のための胎内として機能する)なども考慮に入れなければならないと思います。


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