浄土教美術の形成と展開
11月22日の授業への質問・感想
私の姉が敦煌に行ったことがあるのですが、とてもすばらしかったそうです。私も一度行ってみたいと思っていたのですが、敦煌の窟数はかなりあるのですよね・・・。いったい、どのくらいあるのですか。
私も正確な数は知らなかったので、敦煌の簡単な紹介をしているホームページからの引用をします。
敦煌の石窟は、莫高窟、西千仏洞、楡林窟がある。そのうち、莫高窟は千仏洞という俗称があり、敦煌石窟の代表で、甘粛省敦煌市の南東25kmに位置する。洞穴は鳴沙山東麓の絶壁の上にあり、上下5層で、南北の長さは1,600メートル余りある。
前秦の建元二年(366年)から掘り始めたもので、現在十六国、北魏、西魏、北周、隋、唐、五代、宋、西夏、元など16王朝の洞穴が492個残っており、壁画は45,000m2余り、彩色の塑像は2,415体、飛天は4,000余体、唐・宋時期の木構造建築は5棟、文書と文物は5万点余りある。敦煌石窟は建築、絵画、彫塑、文書、文物からなる総合的な文化芸術宝庫であり、1987年「世界文化遺産目録」に登録された。
敦煌莫高窟の各時代の壁画は、当時の生産と労働の場面、社会生活の情景、衣冠と服飾制度、古代建築の造形および音楽、舞踊、曲芸の画面を表してもいれば、中国と外国の文化交流の史実をも記録しており、4世紀から14世紀までの中国の古代社会の研究に形象的資料を提供している。 敦煌莫高窟の壁画は、非常に大きな歴史的価値と芸術的価値がある。各時代の壁画のうち、唐朝が盛んだった時期の壁画の水準が最も高く、人物の体の比例が適切で、豊満、健康であり、芸術生命に富む人物の形象および見る人を佳境に引き込む芸術的境地を大量に創り出した。
敦煌の彩色塑像は、塑像を作ることと彩色を塗ることの密接な関係を重視し、塑像を作る時は彩色を塗ることに適度の余地を残し、造形上の細かいところは一々作り上げることをせず、線描と色彩で補充している。色を用いる面では、よく色彩上の誇張を運用して人物の性格を表している。
莫高窟は、一般に開放されている石窟が合計27ヵ所ある。この他に、特別窟問といって、別途料金を支払って見学できる石窟も13ヵ所ある。(http://jp.cytsonline.com/static/5bottoms/guanguang/shijieyichan/dunhuang.jsp)
形成期→完成期→固定期と移るにつれて、物語も詳細化、具体化していく様子が絵画に現れているのがおもしろかったです。
阿弥陀の極楽浄土図が変相図の主題であることは一貫しているのですが、その表現方法の変化と、周囲に描かれる未生怨因縁と十三観が加えられることが、敦煌においては重要です。それとともに、絵画そのものの質の変化も認められます。第2期を完成期とし、第3期を固定期とするのは、絵画としての変化が、いわば右肩上がりではないことを示しています。第2期において一種の頂点に達した後は、図柄の固定や表現の形式化が進み、絵画としての力を失っていきます。これは敦煌の阿弥陀浄土変に限ることではなく、芸術作品の持つ宿命のようなものかもしれません。同じ形式を固持することは、作品にとってはマイナスに働くことが多いようです。むしろ、形式をうち破るような刷新や変革を行うことで、あらたな芸術が生まれるのでしょう。
石窟が日本にはないのにはどのような理由があるんですか。朝鮮半島にも多くは存在しないのなら、なぜ、朝鮮半島には伝播しなかったのでしょうか。
石窟が生み出されるにはさまざまな条件が考えられます。石窟として用いるような洞窟が存在するか、あるいは穿窟が容易な山が存在すること、石窟の内部が居住空間として使用可能であること(場合によっては、一般の住居よりも快適であること)、石窟のような構造物を宗教的な意味をもつ空間と見なしうること、などがあげられます。歴史的に見れば、実際に石窟の僧院や寺院を作り出すことのできる技術が伝播していることも必要でしょう。日本にはこれらのいくつかが欠けているために、石窟寺院がほとんど造られなかったことになります。ただし、洞窟のような構造の空間を宗教的な施設として用いることはしばしば見られます。空海が虚空蔵求聞持法という修行を行い、大日如来との合一という神秘体験を経験したのも、海辺の洞窟といわれています。また、加賀市にある那谷寺には、洞窟が特定の修行の場として用いられた跡がたくさん残っています。朝鮮半島に石窟寺院があるかどうかはよくわかりません。調べてみてください。
「池と花樹観想図」のスライドを見たときに、森先生の「砂漠である中央アジアでは、水や植物が無く、そのためにそれらは壁画の瞑想の対象となりました」(これはおそらく森先生のことばそのままではないと思いますが、私はそのように記憶しています)というコメントを聞いて、この壁画が描かれた当時の人々の心境が想像されました。きっと、壁画の制作者はのどの渇きを感じながら、自分が緑豊かな大地におり、泉がわき出ているような、一種のオアシスを想像しながら作業を実行していたのでしょうね。
のどの渇きを感じながら極楽浄土図を描いたかどうかはわかりませんが、極楽浄土のイメージが、水と緑が豊富な楽園ということと、その観法が流行した中央アジアの風土との落差は、たしかに大きいのではないかと思います。阿弥陀経(大経も小経も)がインドで成立したことは、両者のサンスクリットテキストが現存していることから明らかですが、中央アジアでその流行が見られたことや、観経ではその成立までも中央アジアが有力視されていることは、たしかです。この地域に住み、浄土を夢見た人々の希求したものが何であったかが、ここに示されているような気がします。もちろん、浄土教は中国の緑豊かな地域、あるいは朝鮮半島や日本でも流行しました。しかし、日本の浄土教美術を見てみると、そこでは極楽浄土を豊かな自然として描くことにはそれほど熱意は見られず、むしろ、そこにどのように往生するか(具体的には来迎と蓮華化生)が重要な問題になるようです。同じ浄土教美術であっても、日本は浄土そのものよりも、そこにいたるプロセスや方法に関心が寄せられたと見ることが可能かもしれません。
トヨク石窟の壁画の顔の部分が削られているのを見て、宗教の違いから文化財を傷つけられるのを残念に感じました。無常感を表した九相詩絵巻の絵や、死体が腐ってゆくのを観察する修行の話で、気持ちが悪くなりました。昼食前でなくてよかったと思います。
トヨクの壁画の顔については、何人かの方が同じような指摘をしていました。人物を描いたときに顔やとくに目が持つ力は独特なものがあります。仏像や人体像のどの部分が傷つけられても、被害は物理的には同じかもしれませんが、顔とそれ以外の部分ではその影響力はまったく異なるでしょう。あまり関係のない話ですが、赤ちゃんが母親などの顔のどこを見ているかを調べた実験があって、顔の中の目を中心に視点を移動させていることがわかるそうです。相手の目から情報を得ることは一種の本能なのでしょう。逆に、インドでは目だけを大きく家の前に描くことがあります。とくに新築直後の玄関の左右などに描かれます。これは他人が妬みをもって眺めることに対して、それに対抗するような力をはじめから描いておくと説明されます。目や視線は一種のエネルギーを持っていると考えられているようです。不浄観が気持ち悪いという指摘も複数ありました。もちろんそのとおりですが、九相詩絵巻の場合、このような写実的な表現がこの時代可能であったことや、その後、六道絵と呼ばれる絵画において、九相詩絵巻に描かれたモチーフがそのまま現れることになり、さまざまな展開を示すことが注目されます。ちなみに、死者や骸骨を描くことによってこの世のはかなさを表すことは、西洋においても見られ、石棺の蓋のところに死体を浮彫にしたり、骸骨が「死の舞踊」を演じている姿などが、中世社会では広く制作されたそうです。小池寿子さんというキリスト教絵画のすぐれた研究者が、これについては精力的に研究されています(『死者たちの回廊』『死を見つめる美術史』など)。
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