浄土教美術の形成と展開

11月15日の授業への質問・感想



マトゥラーやガンダーラの像の銘文の話を聞いて、文献は重要な証拠にもなるが、やはり不確かなものでもあるのだと強く感じた。しかし、今日、神変の文章を読んだことによって、スライドを見るときにわかりやすくなったこともあり、少しはずれてしまうが、どんな分野でも文字というものの問題は難しいと思った。奇跡を起こす前に精神を統一することは、現代のいろいろなことに通じている気がする。これは仏教に限ったことではないのかもしれないが、知らないうちに当然の認識(?)になった仏教に関することがたくさんあるように思えて、おもしろかった。
たしかに文字という情報はいろいろな問題をはらみます。一般に美術史では文献よりも作品に重きを置きますが、仏教学では文献を中心にものごとを考える傾向があります。どちらの立場でもかまわないような気がしますが、実際に作品の解釈にあたって、決定的な違いを生むこともあります。モハマッド・ナリーの作品の解釈が分かれるのは、文献と作品のバランスの取り方に起因するところも大きいでしょう。「舎衛城の神変」や「阿弥陀変相図」とする立場は、どちらかというと、文献(広い意味でのテキスト)が先にあり、それを作品としてイメージ化したと言えるでしょうし、神変のような光景を、さまざまなモチーフで表現しているいう立場は、図像の伝統を重視した立場のように思われます。仏像の銘文は、テキストでありながら作品の一部にもなっているので、ふたつの立場の接点のようなところにあります。銘文には制作年代や寄進者の名前のほかにも、寄進者の出身地、身分、寄進の動機などが書かれることもあります。これらの情報から、経典などのテキストが伝える仏教とは異なる、現実の仏教のすがたが浮かび上がることもあります。銘文の研究にはいろいろな可能性があるのですが、仏教学でもまだまだ未開拓な分野です。神変の前に精神統一をする点は、インドにおける宗教的な神秘体験や瞑想方法が背景にあります。精神統一のことを「三昧」と呼ぶのですが、これはインドから古くから伝わる瞑想のための身体技法、すなわちヨーガの専門用語でもあります。仏教とヨーガとの間には密接な関係がありますし、仏教に限らず、ヨーガはインドの宗教の実践方法の基礎でもあります。大乗経典では、このような三昧、すなわち身体と精神を統御することとが、神変を起こすことの前提となっています。ついでにいえば、大乗経典に説かれている内容は、このような三昧の状態での出来事であり、およそ通常の人間の思考や感覚からかけ離れています。経典の内容が荒唐無稽に思えるのはそのせいです。

仏には釈迦の他にもたくさんの仏たちがいますが、結局一番偉い(上にいる)のは誰なんですか?釈迦が中心にかかれていることが多いのを見ると、釈迦が一番偉いのかと思うのですが、釈迦が仏になる以前にも仏たちはいたんですよね。そうなると、釈迦よりも前にいた仏たちの方が上ですか。
仏とは誰か、仏はひとりかたくさんかという問題は「仏陀論」とも呼ばれ、仏教とは何であるかという問題に直結する重要な問題です。われわれは仏教の開祖が釈迦であり、仏陀と呼ばれていることを当たり前のように信じていますが、時代や立場では必ずしもそうではないのです。たとえば、密教では大日如来(毘盧遮那如来)が仏の世界の中心に位置し、釈迦は歴史的に現れた無数の仏たちのひとりにすぎないという立場から、仏の体系を構築しました。授業で取り上げている浄土教も、釈迦より重要な仏として阿弥陀を前面に出し、阿弥陀への絶対的な帰依こそが、われわれが救済にあずかる唯一の手段であると説いています。このような、釈迦以外の仏への信仰は、大乗仏教以降のものがよく知られています。しかし、実際は初期の仏教経典の中にも、釈迦が自分よりも前に現れた仏に対して言及し、自らの説く教えが、それらの過去の仏たちの教えを再発見したにすぎないという記述が見られます(お釈迦さんはずいぶん謙虚ですね)。これらの過去の仏たちが過去仏として定着し、さらに未来の仏である弥勒も信仰されます。また、われわれの世界以外にも仏国土を立て(阿弥陀の極楽浄土はその代表です)、それぞれに仏がいると説くことで、無数の仏が仏教の中に登場します。その中で誰が一番偉いのかとか、仏相互の関係などは、立場や時代によって異なります。その一方で、さまざまな仏たちが大乗経典や密教経典に登場するにもかかわらず、一般の人たちの信奉する仏は、結局、釈迦が一番重要であったということも推測されています。たとえば、密教の経典には大日如来を頂点とする無数の仏たちが説かれていますが、これと同じ時代の作例を調べてみると、仏像として刻まれるのは圧倒的に釈迦であることがわかっています。ガンダーラの神変図を阿弥陀浄土図とすることに躊躇するのは、このような経典と実作例とのあいだの乖離もあるのです。

神変にあった「すべて」が見えたというのは非常に危険ですね。今の時代で、あらゆることを悟ってしまうと、社会のシステムから何からを疑ってしまい、とても危ない状態にいってしまいそうで・・・。でも仏教というのは、そういう境地を示して、勘のいい人を導き続けているのかもしれません。でも、オウムみたいに行くとこまで行っていまうという危険性もありそうです。
宗教が危険であるというのはたしかです。このことはオウム以降、日本でよく言われることです。しかし、その発想は依然として宗教を甘く見ているような気が私はします。つまり、宗教を危険視する人たちは、その一方で「宗教とは本来、人を幸福にするべきものなのに」という前提があるからです。簡単にいえば、宗教はいいものなのに、悪い宗教にだまされて、不幸になるのはおかしいという考え方です。これは、きわめて安易な日本人的な宗教観であり、オウムの事件があっても、何も変わっていないと思うのです。本来、宗教は危険であり、それだからこそ、人々を救済するような力を持っていると見るべきでしょう。もちろん、宗教には人々の心に安らぎを与え、生きる上での指針を与える力を持っています。しかし、その一方で、現代社会で起きているさまざまな事件や紛争が宗教に関わりを持っているのも事実です。人間は状況次第で、宗教(もっと広く言えば思想や信条も含む)のためなら何でもできますし、それは道徳や倫理、あるいは経済性などと矛盾することも珍しくないからです。「すべてが見えた」という状態が危険であるというのは、私もおおいに共感するところです。しかし、その危険性は、「すべてが見える」ことそのものよりも、「すべてが見える」ような存在があると信じることに、もっと強く感じます。このような存在に対して絶対的な帰依をすることこそが宗教の本質だからです。


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