浄土教美術の形成と展開
11月8日の授業への質問・感想
観経はサンスクリット語による原典が存在しないのに浄土教の主要経典のひとつになっていますが、なぜそのようなことが起こりうるのでしょうか。インド発祥であるか否かは特別重視されていないとも考えられるのでしょうか。
もちろん、仏教はインド起源であり、経典は釈迦が説いたことになっているのですから、インドで成立したことは重要です(密教経典などでは釈迦以外の仏が経典を説くこともあります)。ですから、観経も形式としては釈迦が説き、きょう良耶舎が「翻訳」したことになっています。当時の人々も、それを信じてこの経典を受け容れたでしょう。現代の仏教学者が経典の成立をいろいろな面から研究すると、インドよりも中国(中央アジア)で成立した可能性が高いということです。インドではなく中国で成立(制作)された経典はこのほかにもたくさんあり、中国や日本の仏教の歴史の中でも、そのことはしばしば問題になっていました。そのような経典を「中国撰述」の経典と呼んだり、まとめて「擬経」と呼んだりします。宗教文献の中にこのような「偽作」や「創作」にあたるようなものが現れるのはよくあることで、たとえばキリスト教でも「外典」(apocrypha)があります。また、チベット仏教も偽作の経典の宝庫で、地中から掘り出したとか、霊感で伝えられたという経典もあります。なお、浄土教の場合、インドでは教団や宗派のような形で浄土教が存在したわけではないことも考慮する必要があります。インドから特定の教団の僧侶が中国にやってきて、布教をしたわけではないのです。
写経というと、どうも平安時代のイメージがありましたが、奈良時代にもはやっていたんですね。奈良時代だと紙ではなく木簡や木の薄い板に写していたんでしょうか。
写経、つまり経典を書写することは仏教が伝来した段階から必要だったでしょう。中国では木簡の写経も残っていますが、日本では当初から紙に書写していたようです。記録に残る写経は『日本書紀』の天武天皇に関する部分にあるそうですが、奈良時代よりも前の写経の遺例が2点残っています。奈良時代になると写経は国家規模で行われるようになり、とくに天平年間(729-749)にはおびただしい数の写経が行われたようです。大乗経典の多くはその経典を読誦し、大事に保管し、さらに書写することで、大きな功徳が得られることを繰り返して説いています。経典の作者たちは、その経典ができるだけ人々のあいだに広まることを願ったのでしょう。本の中に複製を作ることがプログラムされているようなものです。日本の写経も、本来はこのような「作善」のための宗教的な行為でした。平安時代以降も写経は続けられますが、次第に「装飾経」のような美麗なものも出現し、単なる書写や作善にとどまらない展開が見られます。現在、京都国立博物館で「古写経:聖なる文字の世界」という特別展覧会が行われていて、私も見てきました(この回答もこのときに仕入れた知識です)。仏像や仏画などと違って地味な展覧会ですが、仏教のことを勉強しているものには、とてもおもしろい展覧会でした。書道をやっている人にも魅力的なようです。11月28日まで開催されていますので、機会があればぜひ行ってみて下さい。
序分義(未生怨因縁)の絵は、日本の絵巻物を思わせるようできれいでした。描かれている建物は中国のような雰囲気で、服装もインドのようではなく、中国風な感じがしたので、絵だけ見たら、インドの物語には思えないようでした。
たしかに、絵だけ見ていると中国の物語に見えます。この物語に限らず、インドの仏教に関する説話図は、中国に入ると背景も人物もすべて中国風に変えられてしまうので、同じ物語のインドの作例と比較すると、それぞれの国にみられる表現方法の違いがわかりおもしろいです。さらに日本では異なる表現となりなす。序分義に説かれる阿闍世王の物語は、観経が典拠なのでインドでの作例はありませんが、阿闍世王の物語は他にもいろいろあり、ガンダーラや中央アジアのキジルなどで、見ることができます。
仏教では誰でも往生できるということでしたが、生前の行いによって往生の仕方が違うということは知りませんでした。死んだ時、迎え方が九つに分かれたとしても、その後、極楽で同じように過ごすならば、悪人にとってはいいだろうなと思ってしまいました。
無量寿経の三輩往生、つまり人間を三種類に分けて、それぞれ異なる方法で往生するという思想はインドで確立しているのですが、それをさらに3種類ずつに分けて九品往生に拡大するのは、観経独自の教えなので、中国的な展開と考えられています。その背景に、中国における官僚制などを指摘する研究者もいます(九品官人制と呼ばれる制度などがあげられます)。日本の往生思想では、この九品往生が基本となり、ここから来迎図などの浄土教美術が現れますので、たとえ中国での創作であったとしても、文化的にとても重要な考え方になります。たしかに往生しさえすれば、その方法は阿弥陀や菩薩に囲まれたにぎやかなものであろうと、蓮台だけの寂しいものでもどちらでもいいと、私も思いますが、日本では臨終行儀などではなやかな来迎を見ることがとても重視されます。結果よりもプロセスを大事にするということでしょうか。このことは、日本の来迎図のところで考えてみたいと思います。
いつも思うのですが、仏教はキリスト教や儒教(儒学)、イスラム教などと比べて、ものすごくスケールが大きくて、現実的には起こり得ないことばかりであるように思います。異教徒の人はおかしいと思うでしょうが、昔の仏教徒の人たちはやはりすべて信じていたのでしょうか。信じられるものですか。私は特別宗教を信じているわけではないので、よくわかりません。
宗教というものは基本的に「聖なるもの」や「超越的な存在」を中心に持っています。そのようなものは、われわれの日常的な思考や合理的な存在とは別のレベルにあるのが普通です。それが仏教では世界や物語のスケールの大きさや、荒唐無稽さとして表されるのではないでしょうか。そのような存在を前にして、人間の無力さを痛感することで、はじめて信仰や敬虔な気持ちが生まれるというのが、宗教の一般的なメカニズムだと思います。これとは別のレベルの話になりますが、経典を生み出した人々は、われわれとはまったく異なる世界に住んでいたということも重要でしょう。現代人の多くは神話や経典の中の、非現実的な物語をまったくのフィクションとしてとらえがちですが、そのような文献が成立した時代の人々にとっては、むしろ本当にあった物語だったはずです。日本でも50年前や100年前までは同じようなものだったはずですし、見方によっては現代でもそれほど変わっていないかもしれません(星占いや血液型による性格判断は、一種の宗教でしょう)。このようなことを含め、宗教を信じる、信じないは個人の自由ですし、プライベートなことです。授業ではそのようなことに立ち入りませんし、むしろ、客観的な立場から宗教を見るようにしています。
浄土教とは関係ないのですが、エディプス・コンプレックスで考えたこと。ヒンドゥー教で、ガネーシャの首が象である理由を、去年、ネパールを旅行したときに聞いたのですが。ある時、パールヴァティーがお風呂(?)に入っていて、ガネーシャに前で見張らせていて、「誰も通してはならない」ということを言われたらしく、そこにシヴァがやってきて、中に入れないのでガネーシャの首を切り落としたそうですが、それって、思いっきりエディプス・コンプレックスですよね。父シヴァの男根がこわくて、象の首になってガネーシャはシヴァに対抗したのだと思ったんですが・・・。
象の頭を持つガネーシャは、その特異な姿からいろいろな物語があるようです。お聞きになったのも、その通俗版のひとつだと思います。たしかにエディプス・コンプレックスですね。このように神話を精神分析の立場から解釈する研究は、海外でよく見られます。先週、口走った阿闍世コンプレックスについて書かれた本は、小此木啓吾『阿闍世コンプレックス』や『阿闍世とエディプス』でした。小此木氏は「モラトリアム人間」で一世を風靡した精神分析家ですが、この本についての評価は私はよく知りません。阿闍世そのものについては、東海大学の定方晟氏が『阿闍世のさとり』『阿闍世の救い』(いずれも人文書院)という本を出しています。
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