浄土教美術の形成と展開

10月18日の授業への質問・感想


特殊系の阿弥陀はどれも印象深かったです。中でもあれが・・・(五劫思惟阿弥陀)。今日夢に出てきそうです。「変相図」と「観想図」が出てきましたが、どのように違うのでしょうか。

授業でも紹介したように、五劫思惟阿弥陀はとても強烈な印象を与える像で、前期の教養の授業でも、一番驚いた作品だという感想がありました。中国の宋代の浄土教に現れたもので、日本ではもっとも古いものでも鎌倉初期ですが、何例かあります。髪が長いだけではなく、全体にぽっちゃりした童子の雰囲気になるのも特徴的です。やせた顔にあの髪型はあまり似合わないのかもしれません。五劫もたっているのにあれぐらいしか髪が伸びないというのは、やはり如来は普通ではないという気もします。「変相図」と「観想図」の違いですが、変相図は経典(とくに大乗経典)の中の特定の場面をあらわした造型作品で、絵画が多いのですが、彫像や演劇的所作も含むことがあります。代表的なものが授業でも扱う阿弥陀経変ですが、それ以外にも法華経、維摩経、華厳経などがあげられます。伝統的な仏教美術が釈迦の生涯の特定の場面を描いた仏伝図や、その前世をあらわしたジャータカ図であるのに対し、大乗仏教の時代に人気を博した主題です。ただし、授業で取り上げるガンダーラのもの以外にインドには作例はなく、中央アジア、中国、そして日本で流行しました。これに対し、観想図は僧侶や俗人が瞑想をしている姿を描いたもので、瞑想の対象も同時に描かれます。日本の当麻曼荼羅やその源流である敦煌の浄土図は、変相図と観想図を合体させたものです。

 

阿弥陀如来立像の見返り阿弥陀にはとても驚いた。仏像はすべて前をきちんと見ているものだと考えていただけに意外だった。拝むために作られたのではなくて、物語(説話)の一部を表しているように見える。

礼拝像であるか説話図であるかは仏教美術のような宗教美術を考える場合、重要なポイントになります。同じ釈迦を表しても、周囲に何を描くかとか、釈迦自身をどのように描くかなどの要素でこれが変わってきます。時代の流れで、説話図が礼拝像に変化することも、その逆も起こります。日本の来迎図はこのような問題の格好の題材になります。さらに来迎図の場合、迎講や臨終行儀のような儀礼や儀式とも関係を持ち、浄土教美術の特質や、宗教と美術を考える上でいろいろな示唆を与えてくれます。

 

印を見て、小学生のころ、輪を作った手と、平らにした手を「お金をくれ」というような意味でとらえていたことを思い出しました。今思うと相当罰当たりですね。印にもいろいろあることをはじめて知りました。

たしかに印にはいろいろ種類がありますが、仏像に現れる代表的なものは限られていますので、少しずつ慣れていくと思います。印の意味するところはたしかに見ただけではよくわかりません。大日如来の智拳印は忍者が術を見せるときの姿に似ているとかも言われます。授業とは直接関係ありませんが、密教の時代には印は仏だけではなく、僧侶も結びます。これは儀礼の中で行われますが、それぞれ象徴的な意味や機能があり(たとえば何かをお供えするとか)、こちらの方が種類が多いでしょう。これを覚えるのがけっこう大変だそうです。

 

ヒンドゥー教と浄土教は何らかのつながりがあるのですか。アンコールワットの回りに池があり、ハスの花があって、敦煌の阿弥陀浄土変と、アンコールを正面から見た景色がちょっとかぶりました。

ヒンドゥー教の中にバクティ(信愛)という信仰形態があり、神への祈りや愛をもっとも重視し、神の恩寵によってのみ救済されるという考え方を基本とします。浄土教に見られる他力信仰、とくに親鸞の教えとの共通性を指摘する研究者もいます(歴史的には直接、影響があったと考えるのは無理ですが)。インド内部で浄土教がどのような広がりを持っていたかはよくわかっていないようで、ヒンドゥー教との影響関係も不明です。アンコールワットはたしかに周囲の大きな堀をめぐらし、水がたたえられていますが、本来はヴィシュヌの巨大な寺院で、浄土世界を表しているのではないようです。

 

伏見寺の仏像はぜひ一度金沢にいるあいだにみたいと思った。五劫思惟阿弥陀如来像は不格好で美しいとは言い難かったので、あれを神々しく感じ拝んでいたなんて変な感じがした。阿弥陀は太陽の沈む西方にいるから日と強いつながりがありそうと思っていたので、月輪を背負っているのが意外だった。

伏見寺は11月28日(日)に予定されている密教図像学会の見学会で見学する予定です。前日にある研究発表は学会のメンバーが中心ですが、見学会は一般の参加も可能なので、授業でも紹介するつもりです。伏見寺の他に、鶴来町の白山比め(くちへんに羊)神社、白峰村の白山本地堂、加賀市の那谷寺などを回る予定です。紅玻璃阿弥陀が月輪の中に描かれるのは、密教の仏だからです。この阿弥陀は密教の瞑想法の中に登場するもので、月輪を背景に赤い阿弥陀を観想します。月輪は密教の瞑想で重要な役割を果たし、月輪のみを瞑想する月輪観や、そこに阿字(梵字のA)を瞑想する阿字観などがあります。

 

私の実家も一応浄土真宗だが、私は「正信偈」という経典を全然知らなかった。一般市民でもお経を唱えることができる地域があるということに驚いた。輪王寺にある阿弥陀如来五尊像は、孔雀に乗っかっている姿がとてもユーモラスだと思った。何を表現しているのだろう。

正信偈は親鸞の著作なので経典ではないのですが、浄土真宗の門徒にとっては聖典であり、最も重要な読誦のテキストです。そのほかに和讃やお文(これは蓮如作)も唱えます。地域によって異なるのでしょうが、私の出身のあたりは年輩の人であれば、正信偈はたいてい覚えていますし、子どもにも覚えている子がいます。日本仏教全体から見れば般若心経がもっとも重要な読誦経典なのですが、浄土宗、浄土真宗は例外です。かつて日本仏教の宗派をこえて共通の基本経典を定めようという動きがあり、般若心経が候補になったのですが、浄土系の宗派の反対で失敗に終わったという話もあるそうです。輪王寺の孔雀にのった阿弥陀は金剛界曼荼羅の西の阿弥陀に由来します。その周囲にいる菩薩も、曼荼羅の中で阿弥陀の回りにおかれている4人の菩薩たちです。仏教に限らず、インドの神々で乗り物の孔雀が意味することについては、以前『インド密教の仏たち』で書いたことがありますので、読んでみて下さい。

 

二十五菩薩お練り供養はおもしろいと思います。仏像(菩薩像)や画はお寺の奥の方に安置されていることが多いのに、屋外に出てしまってよいものか!?つまり、姿をあらわにするにはあまりにもおそれ多いのではないか?と思うわけです。江戸中期と言えば、大衆文化がうなぎ登りにさかんになる時期ですが、民衆のパワー(請求)が菩薩までも陽光の下に引きずり出したということでしょうか。お寺としても「仏」ではなく「菩薩」なら、ぎりぎり許容範囲なのでしょうか。

お練り供養や迎講は当麻曼荼羅のところでくわしく見るつもりです。たしかに、本来お堂の奥に(つまりもっとも神聖な場所に)安置されているべき仏や菩薩が人々の前に姿を現すというのは「非日常」的なことですが、儀礼や祭りというのはそのような非日常の時間や世界が出現する時とも言えます。お面をかぶり衣装を身につけることも、そのような世界を再現するのに必要な手続きなのでしょう。即成院のお練りは江戸にはじまったとありましたが、当麻寺などの迎講はもっと古い歴史をもっています。とくに江戸にこのような儀礼が好まれたというわけではないようです。ただし、この時代の民衆が仏教に求めていたのは、たしかにこのような即物的なものだったかもしれません。このころに江戸で流行したのが有名寺院の仏像や絵画を運んできて、参拝客を集めるという「出開帳」でした。もちろん、経済的効果があったから行われたようで、成田山の不動などがよく知られています。ちなみに、最近、国立の博物館や美術館で有名寺院の宝物展がよくありますが、これも法人化などで館の台所が苦しくなったという裏事情があるようです。「平成の出開帳」と自嘲を込めて呼ぶ学芸員もいます。なお、練り供養や迎講ではお練りをするのは菩薩たちですが、阿弥陀如来も姿を現すことがあります。その場合、阿弥陀如来像を運んでくることもあるのですが、中をがらんどうにして、人がすっぽりとはいることのできる阿弥陀像を造り、実際に歩いたりすることもあったようです(關信子氏の一連の研究があります)。テーマパークのかぶりものの元祖のようなものでしょう。



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