ヒマラヤと東南アジアの仏教美術

6月27日の授業への質問・感想


金色堂は藤原家三代のミイラ(と4代目の首)が収まっていると聞きましたが、それでもマンダラなのですね。
金色堂の話は、授業とはあまり関係がなかったのですが、前回の授業の前日と前々日に、岩手県の社寺を回る見学会に参加していて、印象深かったため、言及しました。もちろん、藤原家三代のミイラが収まっていることと、マンダラは無関係です。また、基本的に金色堂は浄土教の美術ということで解釈されます。中央に阿弥陀をおき、そのまわりを観音、勢至の二菩薩をはじめ、六地蔵、四天王のうちの持国天、増長天が取り囲みます。これらの下に藤原三代の遺体がおさめられていたのは、金色堂が葬堂や墓堂として機能していたからですが、当然、極楽浄土への往生を願う浄土教思想がその根底にあります。しかし、最近の中尊寺研究によれば、金色堂には密教的な要素を多分に含んでいるそうです。たとえば、柱に描かれた諸尊は胎蔵マンダラの仏たちを表していたり、建物全体を金色にし、そこに舎利としての遺体をまつることに、それが認められるそうです。これらについては、奈良博の内藤栄氏による「金色堂と舎利法」『仏教芸術』277: 96-118(2004年)に詳しく論じられています。それにしても、金色堂を見た印象として心に残ったのは、その驚くほどの繊細優美さでした。中尊寺の宝物館には、丈六の阿弥陀像や薬師像が三体あり、これも、当時の最先端の作風と水準をそなえています。また、五台山文殊の五尊像(完全なセットとしては日本最古)も展示されています。こちらは、最近修復を終えたようで、いささか修復しすぎたような感じもしました。中尊寺の仏教美術については、内藤氏の論文を含む『仏教芸術』の277号で特集を組んでいましたので、最新の情報を知りたい方は、参照して下さい。

雍正帝(康煕帝と乾隆帝の間の皇帝)は、山荘の造営はおこなっていたんですか。
たしかに、康煕帝と乾隆帝の間には雍正帝がいますね。在位は13年間という短さなのですが、重要な皇帝なので、忘れてはいけませんでした。康煕帝と乾隆帝がいずれも避暑山荘の造営をすすめたので、当然、雍正帝も行ったような気がするので、そのように答えようと思ったのですが、念のため、調べてみると、そうではなかったようです。手許にあった『紫禁城史話』(寺田隆信、中公新書)によると、雍正帝は緊縮財政をしいて、自身も皇帝としての責務を全うするために、ほとんど北京から離れることはなかったそうです。中国の皇帝の中でも独裁者としてのイメージの強い雍正帝ですが、その一方で「あらゆる奢侈と快楽を退け、ひたむきな努力を国務の一点に集中して悔いなかった」と寺田氏は同書の中で書いています。熱河まで行って山荘で過ごすような時間は、雍正帝にはなかったようです。13年という短い在位で崩御したのも、その激務によると言われています。雍正帝の前後の康煕帝と乾隆帝は、いずれも60年以上もの治世を誇るのですが、その間にはかなり放漫な財政支出を行い、熱河の避暑山荘の造営もその一部だったこととは、対照的です。なお、乾隆帝は康煕帝の孫に当たり、その幼少のときには、祖父の康煕帝に連れられて、夏は避暑山荘で過ごすことも多かったそうです。

金剛手は菩薩でもあるのですね。釈迦のお供としている金剛手と関係はあるのですか。
あります。金剛手は古い仏典にも登場し、そこではヤクシャのひとりだったようです。ヤクシャとはインドの民間信仰で重要な位置を占める神格で、樹木信仰や財宝神などとも関係があります。金剛手が造型表現されるようになったのは、質問にもある釈迦の従者としての金剛手(金剛力士)で、ガンダーラの仏伝図には数多く見られます。その後、金剛手は大乗経典で菩薩のひとりとして登場し、さらに密教の時代には菩薩の中でも有力なメンバーとなります。密教では菩薩の中でもとくに重要な金剛薩☆という尊格が現れますが、この菩薩の前身は金剛手です。金剛手はヤクシャという出自から、ガンダーラではヘラクレスのような荒くれ男のイメージで表され、インド内部でも、たとえば、アフロのような奔放な髪型をそなえていましたが、密教の時代には他の菩薩とも同じような柔和な姿で表されます。しかし、ヤクシャとしての金剛手の伝統も失われなかったようで、チベットやネパールでは、先回紹介したような忿怒形のイメージで表された金剛手も多く作られました。

やっぱり中国になると、なじみのある感じがしました。庭園の写真とかを見てると、本当に美しいなぁと感じました。北京でも、その近くでも、あれだけたくさんのチベット美術が見られることを考えると、あらためてチベット仏教の広がりのすごさを思い知りました。
中国でも承徳のあたりは、山水画などを通じて日本人にもなじみのある中国の景観が、そのまま見られるところのようです。私が行ったのは真冬の12月でしたが、さすがに皇帝の避暑地だけあって、極めつけの寒さでした。避暑山荘の庭園の巨大な池が一面、氷に覆われ、現地の人々がスケートやそりで遊んでいたのが印象的でした。チベット仏教の広がりはおっしゃるとおりで、元、明、清という中国の各王朝は、いずれもチベットと深い関係を持っています。とくに清朝の歴代の皇帝のなかには、チベット仏教に深く傾倒するものも多く、単なる皇帝の趣味とか信仰というレベルではなく、国家のイデオロギーとしても機能することがありました。中国史におけるチベット仏教については、最近、つぎのような研究書も出ています。
石濱裕美子 2001 『チベット仏教世界の歴史的研究』東方書店。
平野 聡 2004 『清帝国とチベット問題:多民族統合の成立と瓦解』名古屋大学出版会。

仏典を求めて命を懸けてチベットへ入った方々の情熱がすごいと思いました。場所が変われば表現の仕方(ものに対する意識)も変わるのですね。承徳の景色がとてもきれいでした。
明治、大正、昭和期の日本人の入蔵者については、本人たちの著作はもちろん、さまざまな人たちによる本がたくさん出ています。河口慧海、多田等観、青木文教などがとくに重要です。河口慧海は自身でも『西蔵探検記』という本を残していますが、これは手に汗握る大冒険記で、当時のベストセラーとなりました。Three Years in Tibetというタイトルで英訳され、これの真似をしたのが、数年前に映画にもなったハラーのSeven Years in Tibetです。河口慧海については奥山直司『評伝 河口慧海』(中央公論社)という伝記も最近刊行されました。当時の日本の仏教界についても詳しく、なかなか読み応えがあります。比較文化研究室に1部入れてありますので、関心のある人は読んでみてください。また、次の書は入蔵者に魅せられたジャーナリストによるノンフィクションです。これもおもしろいです。
江本嘉伸 1993, 1994 『西蔵漂泊』(上)(下)  山と渓谷社。



(c) MORI Masahide, All rights reserved.