ヒマラヤと東南アジアの仏教美術
6月13日の授業への質問・感想
「八層からなる巨大なパンテオン」と言われるとおり、ペンコルチョルテン仏塔は、層ごとに別の意味合いを持つ美術があって、とてもすてきなミュージアムのような建造物だと思いました。
作った人にはミュージアムという意識はないでしょうが、たしかにチベット仏教のありとあらゆる仏たちが勢揃いしています。しかも、授業で紹介したように、それが密教の発展段階に従って、整然と配置されているところも、どこか博物館風です。先週配付した資料の著者である奥山氏は、ペンコルチョルテン仏塔を「マンダラのマンダラ」と呼んでいましたが、マンダラというものがもともと「仏の世界の全体図」を表したものですから、それをさらにいくつも組み合わせて、全体を作っていることになります。仏塔というのはインド以来の宇宙論的な建物なので、このような「世界図」を表すためにはぴったりなのです。宇宙というのは整然とした秩序だった形をしているので、丸や正方形が基本となります。ただし、このようなシンメトリカルな建物は、宗教的な建造物にはしばしば見られますが、あまり実用的ではありません。すべての面が同じ形態を示すので、方角が混乱するからです。われわれが住む家や学校などが正方形や丸で構成されていないのも、そのためです。
忿怒尊が多かったせいか、今までとはずいぶん違った印象を受けました。たしかに暗闇の中でああいう壁画を見たら、薄気味悪いような気がしました。
チベットの忿怒尊はこれまであまり紹介してこなかったので、仏と言われても違和感を感じたり、異様さばかりが印象に残った方が多かったようです。チベット仏教の写真集などでは、このような忿怒尊のイメージの方が強烈なので、しばしば取り上げられるのですが、この授業ではインドの仏像との関係から始めたので、インドには作例のほとんどない忿怒尊が登場する機会が、あまりありませんでした。忿怒形をとる仏には、サンヴァラ、ヘーヴァジュラ、カーラチャクラのように、すらりとした肢体を持ち、八頭身で多面多臂のタイプのものと、マハーカーラやヤマーリのように、ずんぐりむっくりした短?で鼓腹のタイプのものの二種があります。前者を守護尊、後者を護法尊と呼んで区別することもあります。守護尊は仏教のパンテオン(仏の世界)の中で最上位に位置づけられ、寺院の中でも本堂の壁画などに描かれます。これに対し、後者の護法尊は、「ゴンカン」と呼ばれる特殊なお堂の壁画や彫像として表されます。ここでは僧侶がこれらの護法尊の力を借りながら、瞑想や修法を行います。たいていは真っ暗な部屋で、あやしい雰囲気がします。「薄気味悪い」というレベルではなく、本能的な恐怖を覚えます。「怖いもの見たさ」という関心をお持ちの方にはおすすめですが。
忿怒尊は仏と思えないほど怖い顔をしていると思いました。何も知らずに見たら、仏とは思わないと思います。秘密集会の仏も、別の意味で怖い(冷たい)顔でしたが。ところで、男女ペアになっているのは何か意味があるんでしょうか。
秘密集会をはじめ、ペンコルの仏の顔は、私にもとても冷たく感じます。しかし、このような顔がこの後のチベットの絵画のひとつの規範となっていきます。そういうものを見てから、前回までに見てきたインドやネパールの影響を受けた絵画を見ると、ずいぶんほっとします。ペンコル以降の仏の顔の冷たさは、たとえば、ヨーロッパのキリスト教絵画を見たときの近寄りがたさに似たものがあります。日本人にもなじみの深いルネッサンスの絵画などは別にして、一般のキリスト教の絵画は、日本人にとっては美しいというよりも、不気味に思えるようです(ヨーロッパの美術館などに行くとよくわかります)。男女がペアになっていることも、多くの方が「いったい、あれは何?」といった質問や感想を寄せました。およそ仏教らしくないでしょうが、後期密教の仏たち、とくに守護尊のグループの仏たちの大半は、このような男女のカップルが抱き合った姿で描かれます。仏教的な説明では男性は方便、女性は般若を象徴し、その両者が合一することで、悟りの境地を表すといわれます。しかし、実際には、このような性的な行為を含む特異な実践方法が、後期密教ではさかんにおこなわれたたことも知られています。以前に紹介した成就者たちも、そのような世界に生きていました。
短躯で鼓腹の赤ヤマーリとのことでしたが、思わずドラえもんを想像してしまいました。
子ども向けのキャラクターには、「短躯で鼓腹」型のものが多いようです。ミッフィー(うさこちゃん)やキティちゃんもそうですし、ミッキーマウスやくまのプーさん、いずれもこのタイプです。子どもというのが、頭が比較的大きく、おなかが出ていて、手足が短いという体格をしていますので、自分に似たものを好むということでしょうか。あるいは、大人も含めて、人間というのは、このような体格のものに親しみを覚えるのかもしれません。しかし、欧米ではこのようなキャラクターはそれほど多くはありませんから、人類に普遍的に「かわいい」というわけではないのかもしれません。文化的背景や民族性、あるいは心性と結びついた問題なのでしょう。
なぜ仏の位がそれほど高くない忿怒尊が、6,7,8層に描かれているのでしょうか。(大日経、金剛頂経では中心的仏のはずの大日如来は3層)。
6層から上は無上瑜伽タントラに配当されるので、ここでは守護尊が描かれます。上にも説明したように、守護尊は位が高く、それまでの大日如来などよりも上位に位置づけられることもあります。仏の世界というのは安定したものではなく、時代によって誰が上位に来るかが変わってきます。たとえば、大日如来は日本密教では、まちがいなくナンバーワンの仏ですが、インド後期密教では、東の方角に位置する「並の仏」となることが一般的です。そして、もともと東にいた阿◎(あしゅく、しゅくの◎はもんがまえに人を三つ書く字)が中心に移ります。阿◎は金剛部という仏のグループの首領でしたが、このグループはどちらかというと、力にあふれた仏たちで構成されています。大日如来を中心としたそれまでのおとなしい仏から、腕力に自信のある仏に主役が交代したのです。守護尊たちはいずれも金剛部につながりを持つ仏たちなので、恐ろしいすがたをするのは自然の成り行きでした。日本の密教で信仰される降三世明王も、このようなグループのメンバーの一人です。
第8層のダーキニー像に描かれていたどくろの写実的な表現に驚きました。やっぱり今の人よりも、骸骨を目にする機会が多かったのでしょうか。
まちがいなく多かったでしょう。チベットの絵画には、仏たちの姿ばかりではなく、このようなグロテスクなものも登場します。守護尊の周りに墓場の情景が描かれることもありますし、護法尊と一緒にさまざまな死体も現れます。中には、切り刻まれたり、引き裂かれたりした死体のすがたもあります。それほどリアルではありませんが、あまり気持ちのよいものでもありません。チベットは独自の医学を発達させた国でもありますが、医学書の中に人体解剖図のようなものもしばしば登場します。また、鳥葬といって、ハゲワシに死体を食べさせて処理する風習があり、その解体をする人たちは、人体の構造をよく知っていたはずです。
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