ヒマラヤと東南アジアの仏教美術

5月16日の授業への質問・感想


背景が紺色だと、とくにマンダラでは宇宙っぽいイメージかと思いました。ウェストが異常に細いのや、かなり無理にくねった体勢がおもしろかったです。
たしかにラダックのアルチ寺三層堂のマンダラは、「宇宙の何とか」といったイメージと、しばしば結びつけて説明されます。これを紹介した展覧会や写真集でも、宇宙という言葉がよく登場します。ラダックに限らず、もともとマンダラは宇宙を表していると一般に説明されるため、背景の紺色が宇宙の漆黒の闇と重ね合わされるのも自然な感じがします。しかし、注意しなければならないのは、マンダラの背景色は、けっしてこのような宇宙を表すわけではないことです。マンダラは仏たちの世界を「上から下に向かって」見た図なので、むしろここは地面を表しています。そもそも、マンダラを生み出したインド人の発想では、宇宙はけっしてわれわれのように銀河系や太陽系のような、暗闇の中に星が明滅する状態ではイメージされていませんでした。このような宇宙像は、近代的な学問の所産なのです。宇宙や世界をどのように表現するかは、その文化や思想に深く依存しています。ついでに言えば、われわれが持っている宇宙像であっても、それは宇宙物理学や天文学という「文化や思想」に依存したひとつのイメージであり、「正しい宇宙の姿」ではありえません。そもそも、宇宙とか世界とかは「全体」を意味するのであり、それを絵や模型のような「部分」によって表現することは、矛盾しています。余談ですが、今年の1月にインドのマドラス博物館に行ったとき、有名な「踊るシヴァ神像」(ナタラージャ)の後ろの壁に、銀河系か何かの写真が背景になるように飾ってありました。シヴァ神も宇宙を支配する神で、その踊りは宇宙の生成や消滅のリズムに合わせると説明されるのですが、それを現代風の「宇宙のイメージ」に結びつけているのは、ミスマッチングで、むしろ滑稽でした。

身体の表現がかなり細かくて弱々しいが、たとえばキリスト教の宗教画などでは、だいたいみなボリューム感のある体つきをしているので、その違いが理念の違いを表しているように感じた。
宗教画という点で、キリスト教の絵画とチベットの仏教絵画を比較するのはとてもいいことです。チベットのものばかり見ていると、次第にそれに慣れてしまいますが、他の地域の作品を視野に入れることで、その独自性や民族性が浮かび上がることがしばしばあります。また、作品の表現に、宗教の持つ理念や教義が結びついていることも多いので、この点もぜひ注意していただきたいと思います。キリスト教の宗教画も時代や地域でさまざまです。日本人のもつ一般的なイメージとしては、ダヴィンチやラファエロ、ミケランジェロなどのイタリア・ルネッサンスがあげられますが、北方ルネッサンスのクラナッハやスペインのアルグレコなどは、独特の身体表現を持ち、どちらかといえば「細い」イメージです。その一方で、ルーベンスのように「だぶついた肉」の身体を、好んで描く画家もいます。チベットでも今回から取り上げる中央チベットの作品は、インドやネパールの影響を受けているので、また違った身体表現が見られます。

中尊の台座の脇にいるライオンが、マカラのように見えた(ライオンのようには見えなかった)。獅子舞に近い感じがした。朱と紺のコントラストがきれいだと思った。
ライオンは、マカラやナーガなどとは違い、もちろん実在する動物ですが、チベットには生息していないので、想像上の動物となります。インドの獅子も、古代にできたアショーカ王柱などのようにとてもリアルな作品もあるのですが、中世の仏教やヒンドゥー教の彫刻では、たいてい「不思議な動物」といった感じになってしまいます。これは日本の仏教美術でも同様で、文殊などが獅子にのって表されるのですが、これも本物のライオンとは似ても似つかない姿です。そのどこかで獅子舞の獅子も誕生したのでしょう。「インドとその周辺地域におけるライオンの表現」というようなテーマで研究すると、けっこうおもしろいのではないかと思います(すでに誰かやっているかもしれませんが)。

チベットのお寺は壁すべてに何かしら描かれているそうで、すごく圧倒されそうだなぁと思います。天井マンダラも、スライドからだけでも迫力ありますし・・・。ただ、赤や青が多い気がするので、落ち着けなさそうだと思いますが。
たしかに日本の寺院の感覚からではずいぶんかけ離れたイメージで、およそお寺とは思えないでしょうし、落ち着いて修行とかもできないような気がします。しかし、日本でも奈良時代や平安時代につくられた寺院は、多くは朱をはじめとする極彩色で内部が荘厳されていて、おそらく現代人にとってはけばけばしすぎる印象を与えたでしょう。寺院とは「仏の住む聖なる空間」なのですから、そこがこの世のものとは思われない色彩で満たされているのは、むしろ一般的なのです。たとえば、宇治の平等院鳳凰堂は、今でこそ、くすんだ落ち着いた建物ですが、もともとは極楽浄土とそこから来迎する仏たちが内部を満たしていました。見る人を「圧倒する」のが当然だったはずです。

女性の大日如来もいるということに驚きました。大日如来は仏の分野にいる神というのは授業で知りましたが、具体的にどのような神なのですか。
アルチ寺三層堂の「女性形の大日如来」は、よくわからない仏です。仏(如来)は基本的には男性で、密教では多くの女性の尊格はいますが、仏(如来)と呼ばれることはありません。女性形の大日如来を中尊とするマンダラは、金剛界マンダラというマンダラを基本として、そこに含まれる尊格すべてを女性の姿で表したものです。このようなマンダラは金剛界マンダラの典拠である『金剛頂経』にも説かれていないので、何らかの特別な教えにもとづくかもしれませんが、それも不明です。大日如来そのものは、代表的な法身仏(ほっしんぶつ)で、すべての仏の根元的な存在と見なされます。逆に言えば、われわれの知っている仏は、釈迦でも阿弥陀でも薬師でも、すべて大日如来が姿を変えて現れているにすぎないと考えられました。もちろん、このような考え方は、すべての仏教で認められていたわけではなく、たとえば、阿弥陀を最も重要と見る浄土教系の仏教では、大日如来は登場しません。大日如来が重要な役割を持つのは、たとえば大乗仏教の『華厳経』や、密教の『大日経』『金剛頂経』などです。ただし、仏教では時代が下るほど多くの仏が登場し、それを法身仏のような考え方(「仏身論」といいます)で整理するのも一般的です。大日如来の歴史と、他の仏や神々との関係については、私の『インド密教の仏たち』の第2章でくわしく述べていますので、参照して下さい。

トリン寺のドゥカン壁画の色合い、鮮やかな青が差すように入っているところ、そして、つる草などの線が洗練されてきて美しいと思いました。A. M. ミュシャのポスターデザインを彷彿とさせます。青という色ひとつとっても、時代や地域によって違いがあり、配色も特徴がそれぞれあっておもしろいですね。
つる草(ヴィニェット)の装飾デザインは西洋でもよく見られますが、たしかにミュシャは好んで絵に描き込んでいますね。ほかの授業では、アジャンタの蓮華蔓草の表現と、イギリスのウィリアム・モリスのデザインを並べて紹介したりしますが、この時期のアールヌーヴォーやラファエル前派の作品には、オリエンタリズムのモチーフが頻繁に現れ、どこか懐かしさを感じます。植民地支配の時代ですが、芸術家たちは東洋の文化や芸術からさまざまなインスピレーションを得たのでしょう。印象派の画家たちと浮世絵との関係なども有名です。このような問題を扱った研究に、たしか稲賀繁美の『絵画の東方』というのがあります。なお、つる草はインドやネパール、中央チベットの装飾デザインとして好まれ、今回からの授業で、さらに変化に富んだ美しい装飾が見られるはずです。

スライドを見て気づいたのですが、大日如来などにおへそがありました。ということは、誰かの子どもってことではないでしょうか。神や仏にも血縁関係はあるのでしょうか。
たしか、キリスト教でも神やイエス、あるいはアダムやイヴにへそがあるかどうかについての論争があったと思います。くわしいことは忘れましたが、神が無駄なものを作るはずがないということや、神は自分の姿に似せて人間を作ったということなどが問題になったような気がします。それはともかく、仏にも一般的にへそはありますね。仏の身体的な特徴である三十二相のひとつにもあげられています。仏の血縁関係は密教では「菩薩は仏の子息」とか、「大日如来の后は仏眼仏母」といった具合に、いくつかの尊格の間では認められています。これは血縁関係というよりも、同族集団というとらえ方で、他にも「眷属」(けんぞく)と言って、郎党のような位置づけの尊格もいます。


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