ヒマラヤと東南アジアの仏教美術

4月25日の授業への質問・感想


チベットの歴史や文化について、それ自体をテーマとして語られるのを聞くのははじめてだったので、中国史の一部などとして知っていたことの関連がはっきりわかった。ところで、ポン教の泥で作られた仏像というのは焼き物ではないのだろうか。また、焼き物ではないとすれば、どのような製作法が用いられているのだろうかと思った。
チベットの歴史は高校までの世界史の中でも、ほとんど扱われることがないので、はじめて知る方がほとんどだと思います。ソンツェンガンポとツォンカパ、そしてダライラマ程度は登場するようですが、それが中国やインドの歴史とどのように関連しているかについても、あまり詳しくはないようです。しかし、前回配布した小野田先生の資料にもあるように、アジアの歴史、とくに中国やモンゴルの歴史は、チベット抜きには語れないようです。1950年代に中国がチベットを事実上、占領し、現在に至るまで過酷な弾圧を加えていることも、このような背景があってのことです。千年の怨念の歴史がその背景にはあるのです。チベットの歴史については、前回と今回で大まかな枠組みをお話ししますが、くわしくは前回の参考文献にあげた山口瑞鳳先生の著書などを参照してください。ポン教の仏像はおそらく粘土で作った塑像で、表面に金などを塗ったものだと思います。日本でも奈良時代を中心に塑像の作例がたくさんあります。ひょっとしたらテラコッタかもしれませんが、その場合、焼き物になります。

いきなり聞き慣れない名前の響きばかりで戸惑いましたが、ソンツェンガンポだけは知っていたので(世界史で・・・何をしたかは覚えてませんでしたが)少しうれしかったです。
他にもソンツェンガンポの名前を知っているという方が何人かいらっしゃいました。一度聞いたら忘れない名前なのかもしれません。でも、チベット人の名前は日本人にとっては変わった響きのものが多い上に、なかなか覚えにくいものです。同姓同名もたくさんいます。

ダライラマが来日されていたのは知りませんでした。講演に行けなくて残念です。チベット仏教が雲南まで広がっていることに驚きました。モンゴル帝国が征服したことに関係があるのでしょうか。
ダライラマが金沢に来たことは、チベット関係者のあいだでは有名だったようで、4月に上記の小野田先生にお会いしたときにも、そのお話をされていました。私が気が付いたのは3月頃に県立音楽堂のスケジュール表を見たときだったのですが、その時点ですでにチケットは完売でした。雲南にチベットの文化が広がっていたのは、この地に南紹国と大理国という国があった時代です。そのころの中原は唐の王朝でしたから、モンゴルや元の時代よりかなり前です。チベット本土は吐蕃の時代です。この時代の中国は密教が流行していたのですが、雲南の地で信仰されていた仏教は、唐代の密教とは異なる密教で、チベットのものとも一致しないようです。このあたりはいわゆる照葉樹林文化に属する地域で、ネパールやビルマと関連があるのではないかと思っていますが、まだよくわかっていません。以前、雲南には調査に行ったことがあり、そのときの短い報告を発表したことがあります。これは私のホームページでも見ることができます(「仕事」→「その他」→「広報誌」→「中国・雲南省の密教美術」)。

美術は原色が使われていて美しく、とくに赤が多用されているように思われた。何か民族的、宗教的な理由があるのか、それとも物理的(染色等の)理由からなのか気になった。
たしかにチベットの絵画には赤が多く使われているものがしばしば見られます。その場合の赤は、すこし暗い感じの色のものが多く、どちらかといえば、えんじ色に近いものもあります。赤い色が塗られている作品には、主題となっている仏そのものが赤いもの(阿弥陀やヴァジュラヴァーラーヒーなど)、高僧を描いたもの(一般に法衣の色がえんじ色)、光背が火炎の形をとることが多い忿怒尊を描いたもの(火炎なので当然、赤が基本)、全体に赤い色を好む様式のもの(たとえばサキャ派の作品)などをあげることができます。チベットのタンカの素材と形式については、今回、くわしく取り上げます。なお、タンカで用いられる色の種類は、16色といわれることが多いそうで、このうち、赤やそれに近い色としては、深みのある赤、鮮やかな赤、深みのある橙、鮮やかな橙の4種類です。

チベットの地理関係や、大まかなチベット仏教の歴史が、何も知らなかったので、たいへん参考になりました。これからの授業で教えていただけるのかもしれませんが、後伝期の前伝期に対する評価がどのようなものだったのかが気になりました。リンチェンサンポが新たに訳経したのは、前伝期に対する不信からなのでしょうか。それともインドが最新の研究成果をあげていたことによるもので、前伝期に翻訳された経典に対してどうかということではなかったのでしょうか。
チベットの吐蕃王朝の時代は、後世の人々にとって、ひとつの理想の時代だったようです。仏教伝来や当時の王たちと仏教との結びつきが、一種の神話として、とらえられています。ダライラマ政権がみずからの権威を吐蕃王朝と結びつけるという、政治的な戦略も見られます。自分たちの政権が黄金時代の再来であるとして、支配の正当化を示したのです。ダライラマ自身がソンツェンガンポの生まれ変わりであるという、チベット仏教ならではの解釈も見られます。このような「いにしえの時代」への復古を政治的なイデオロギーとするのは、チベットに限らず、日本でも中国でもあるいは他の国でも見られるのではないでしょうか。チベットにおける翻訳については、すでに前伝期の半ばである824年に制作された「デンカルマ」とよばれる翻訳経典の目録によれば、主要な経典や論書はほとんど翻訳が終わっていたことがわかります。ただし、性的な実践を多く含む後期密教の経典は翻訳が禁止されていました。その後、チベットではこれらの翻訳を校訂したり、改訳したりする作業が何度も繰り返されます。中には、漢訳、つまり中国語に翻訳されたものを、チベット語に重訳することもありました。また、前伝期には禁止されていた後期密教の経典も、後伝期にはほとんどが翻訳されます。その中には、リンチェンサンポが翻訳したものも含まれます。

ソンツェンガンポによる仏教導入が6世紀後半とは意外でした。実際はもっと早くから伝わったのでしょうが、日本でも聖徳太子が6世紀に仏教を信仰していたことが伝えられています。地理的には圧倒的にチベットは発祥地に近いのに、日本もチベットも本格的な伝来が似たような時期というのは思っていませんでした。
たしかに地理的な条件からすれば、もっと早くから仏教が伝わっていてもおかしくはないですね。しかし、吐蕃王朝以前に仏教が伝わっていたという痕跡は、今のところないようです。その時代の仏像なども発見されていません。中国への仏教伝来が紀元1世紀頃ですから、チベットへの伝来はかなり遅れるようですが、これはチベットがいわゆるシルクロードの一部には含まれないことにもよるでしょう。また、仏教を受け入れるためには、受け入れ側が文化的に一定のレベルに達している必要がありますが、チベットではまだそのレベルに達していなかったのかもしれません。たとえば経典を翻訳するということは、単に、言葉を置き換えるだけではなく、その意味を理解し、それが自国の文化や社会、さらに政治にとって重要であるという認識や必然性が求められるからです。吐蕃王朝以前のチベットはまだそのレベルに達しておらず、それは日本も同様だったのかもしれません。

アティーシャやパドマサンバヴァの絵は、一見、仏のように見えるのですが、僧侶(ですか?)をこのように描くのはふつうなのですか。
チベットの歴史上の高僧は、タンカ(チベットの仏画の名称)の重要な主題で、さまざまな人物の肖像画が残されています。そこでは歴史上の人物も、仏と変わらない扱いを受けます。日本の場合、高僧図は仏像や仏画とは明らかに異なる描かれ方をしますが、チベットでは高僧と仏たちの境界はきわめて曖昧なのです。これはチベット仏教における高僧の位置づけにもよります。チベット仏教では、教えの伝統が連綿と伝えられたことがきわめて重視されます。具体的には自分の師には、さらにその師がいますし、それをさかのぼっていくと、教団の開祖、インドからチベットに仏教を伝えた者たち、インドの祖師、そして、最終的には釈迦へとつながっていくのです。かれらはすべて仏とおなじ尊い存在です。チベット仏教をラマ教と呼ぶのは、師へのこのような崇敬からきています(ラマとは師のことです)。また、チベット仏教に特有な転生ラマ制度、つまり高僧は仏や菩薩の生まれ変わりとして、われわれの世界に現れ、輪廻を繰り返すという信仰も、このような高僧の地位の高さに関連するでしょう。なお、高僧図の中でもパドマサンバヴァを描いたものは特別な位置を占めています。パドマサンバヴァはニンマ派の開祖ですが、それ以上に神話的な行者で、ニンマ派以外の人たちからも広く信仰を集めています。さまざまな神話的な出来事がこの人物に結びつけられていて、それがタンカの主題にもなっています。日本でいえば、役行者や弘法大師のような存在でしょう。

ソンツェンガンポやティソンデツェン王の周りに小さく描かれている人々は何者なのですか。また、マルパやミラレパは頭に髪があるようですが、チベット仏教は剃髪しないんですか。
タンカの形式については、これから少しずつ紹介していきますが、中心に大きく描かれた仏や歴史上の人物ばかりではなく、そのまわりの人物や景観も重要な意味を持っています。たとえば、前回紹介した作品では、これらの王にまつわる故事や物語が描かれていました。上記のような教えの伝統を重視することから、その伝統を伝えた人々が描かれることもあります。また、中心の仏や人物に関わりの深い仏たちを、規則的に配置する場合もあります。マルパやミラレパが髪を伸ばしていたのは、かれらが行者だったからです。仏教の僧侶が剃髪することは、インドでもチベットでも守られていましたが、それは僧院に属する正統的な僧侶たちです。マルパもミラレパも、このような僧院には属せず、いわゆる在野の修行者だったから、剃髪していません。インドではいまでも「サドゥー」とよばれるような修行者がたくさんいますが、かれらの多くは髪を伸ばしています。それは単に「無精」ということではなく、伸びた髪に特別な力が宿るという観念があるからでしょう。なお、マルパやミラレパを開祖とするカギュ派も、僧団を組織し、正統的な仏教教団となってからは、剃髪したようで、高僧たちも剃髪した姿で描かれます。

チベット自治区やネパール、ブータンなのではチベットが話されているのですか。
チベット文化圏では基本的にチベット系の言語が話されています。チベット文化圏の大きさを考えれば、チベット語が話されている範囲もきわめて広大であることがわかります。チベット語はアジアの大言語のひとつなのです。質問中のネパールは民族的に複雑な国で、首都のカトマンドゥとその周辺は、インド系のネパール民族が多く、彼らの言葉もインド系のネパール語ですが、それ以外の地域、とくに山岳地帯はチベット系の言葉を話す民族が多数を占めています。ブータンはほぼ全域でチベット系の言葉が話されています。チベット語は方言の種類がきわめて多く、チベット自治区の中でも標準語的な位置にあるラサ方言の他に、カム方言、アムド方言などさまざまなものがあります。ネパールやブータンを含むその周辺地域では、方言の数は無数にあるといってもいいほどです。方言間では語彙、発音、文法規則などが大きく異なります。なお、さらに大きなグループとしては、チベット語はビルマ語とも共通点が多く、チベット・ビルマ語族を形成します。


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