インドと日本の仏教儀礼

第6回の授業への質問・感想


死に際の人が往生する様子を他の人に話すという儀式があったことにはおどろいた。死後の世界は死んだ人以外にはわからないので、昔の人も人がどのように死んでいくのか、また死んでからどうなるのかにとても関心を持っていたのだなと思った。それから、五色の糸は「五色」というのだから、色が使われていたのでしょうか。だとしたらどのような色が使われていたのでしょうか。
実際に死に直面した人が、自分の視覚体験をくわしく話をするのは困難だったでしょう。そのため、何か断片的な情報でも伝えてくれることを、周りの人は願ったようです。また、二十五三昧講の人々は、臨終においても取り乱さず、来迎を体験できるよう意識をしっかり持ち(意識がしっかりしていたら死なないような気もしますが)、しかもそこで見ることを周りの人にも伝えることを、たがいに日頃から課していたようです。浄土教の救済において、死の瞬間こそが、それまでの信仰生活の総決算だったわけで、それだからこそ「臨終行儀」のような「死の儀式」が重視されたのです。また、この場合「見ること」がきわめて重要な意味を持ちます。「見ること」ができれば「救済される」ことが保証されるからです。「五色の糸」の五色とは、白、青、黄、赤、緑です。これは五仏という主要な五尊のほとけの身体の色に対応しています。これらの色の糸を縒って、一本の細い綱を作ります。どうも、糸というイメージではありませんね。

悟りを得るための実践は個の行為で、集団でやっている儀礼と同じことをイメージの中でやると言われましたが、これをやれるのはやはり徳の高い人とかになるのでしょうか。一般的に集団で儀礼をしている人が個々で実践をすることもあるのでしょうか。臨終の人と仏を五色の糸でつなぐというのは源氏の中にありました。死が訪れると人から糸が離れる(持つ力が抜けて)ので、周囲の人は泣き始めるということのようでした。魂が離れる瞬間がわかるという現実的な面もあるなぁと思ったのを覚えています。死者が仏のもとに向かうのではなく、仏が迎えに来てくれるのが親切というか・・・。キリスト教とかは違いますよね。
はじめの質問は成就法のあたりのことかと思いますが、基本的に瞑想などの実践は個人個人で行われるもので、集団で行うものではないようです。仏教もインドの他の宗教と同じようにヨーガを修行の基本においていますが、ヨーガというのは身体と精神の活動を極力、低下(もしくは死滅)させる方法です。そのため、ひと気のない静かなところで行うことが重要でした。カルチャーセンターのヨーガ教室とは違います(そういうところでも、静かな音楽などを流したりしているかもしれませんが)。成就法はヨーガを基本としながらも、仏のイメージを創出することを基本とするため、伝統的なヨーガとは少し方法が違うのですが、成就法を説明した文献などを見ると、やはりひとりで静かな場所でやることを勧めています。すくなくとも集団で行うことは説いていません。このようなことができたのが、徳が高い人であったかはわかりません。むしろ、神の声を聞いたり、神の姿を見たりといった類の神秘体験をすることが、先天的にできるような人が、おこなったのではないかと思います。源氏物語の臨終行儀の例は知りませんでしたので、参考になりました。仏のような聖なるものが迎えに来てくれるのは、たしかに浄土教の特徴でしょう。とくに『観無量寿経』の九品往生の記述が決定的だったようです。キリスト教の場合、むしろわれわれが昇天するということで、こちらから「聖なるもの」の方に向かうことが多いようですが、天使が降りてきてお告げをする(受胎告知のように)ことや、神の力を受けることで、その印が身体に残る(聖痕といいます)こともあるので、少数ではあっても来迎に似たケースをあげることも可能かもしれません。いろいろ考えてみましょう。

仏教というのは涅槃、つまりあらゆる形や感情から解放され、無でも有でもない何ものでもなくなることを目指しているのに、結局、形にすがったり、形式にとらわれたりする。仏像だ念仏だといっているうちは涅槃できないだろうに、せっかく涅槃した仏の方はそのたびに私たちの次元にまで落とされていい迷惑だろう。形になった時点でもはやそれは仏ではない。たぶん、何もせず何も考えない状態が、一番涅槃に近いのではないかと思いが、思考こそ人間の証とまで言われるように、人間はそういうふうにはできていない。業が深いというのはこういうことかなと思った。
涅槃や仏についていろいろな考えを示していただいて興味深いです。「無でもない、有でもない」というのは、ウパニシャッドに登場する有名な哲学的な創造神話を思い出させます(「そのとき、有もなかりき、無もなかりき」ということばで始まります)。それはともかく、涅槃という語が本来、「火が完全に消えた状態」を指すと解釈されることからも、たしかに思考や感情を超越した状態であったことは、そのとおりでしょう。しかし、「何もせず、何も考えず」というのが悟りの状態であるというのは、インド仏教の正統的な考え方とは一致せず、むしろ、否定された考え方です。日本ではとくに禅で「無念無想」が称賛されますが、これは中国仏教と日本仏教に固有の考え方で、インドでは異端になります。インド仏教の正統的な考え方は、中観派の空の思想で、あらゆるものは無自性であるということです。一方、形にすがったり、形式にとらわれたりすることは、それとは別のレベルになりますが、実際に仏教が歴史的に行ってきたことです。宗教というものが長い時代、存続するためには、あるいは広く伝播するためには、すぐれた象徴体系やイメージをそなえていることが必要条件になるようです。宗教とは高度な哲学や教理体系だけではなく、たとえそれが理解できなくても、信奉し支える無数の人々いて、はじめて存在するものでしょう。

行者が絶対的な存在と一体になることを観想するときに、頭と喉と心臓にハスをおくイメージを持つと言っていたが、頭と心臓は何となくわかるが、喉にも置くというのは少し驚きだった。お経を唱えるために声を出したりするところから来るのでしょうか。それとも仏教では喉というものにもっと別の概念が含まれているのですか。
頭(頭頂)と喉と心臓は身体、ことば、意識という三つに対応します。これは仏教では身口意と言いますが、とくに密教では三密と呼び、瞑想の時などに重要な位置を占めます。これらの三つはいずれも体の部分ですが、実際は行者の身体活動、言語活動、精神活動という三つの領域をあらわし、これがそのまま仏の三つの領域に合致することで悟りを得ると考えます(「合致する」というより、「三密加持」といって、仏の力が及ぶということのようです)。喉は当然、言語活動をつかさどるものです。ちなみに、チベットの仏画では、キャンバスの裏側で、表に描かれた仏などのこれらの三つの部分に真言(聖なる文字)が記されます。画像を仏という聖なるものにするための手続きですが、これも同じ発想です。

今、この世の中に釈迦がいないということで、仏教信者たちが仏を見たいという観仏のために仏像などを作ったことはよいのだが、迎講といったように儀式的にしてしまったことによって、どうも格が下がったというか、仏の尊さが失われてしまっているのではないかと感じた。人が菩薩などを「演じ」てはならないのではないか。
宗教に対してずいぶん「禁欲的」な考えを持っていらっしゃる方が多いのに、いささかおどろきました。たしかに、悟ってもいない普通の人間が仏や菩薩のふりをすることは、仏教の教理からすれば誤りでしょうが、仏教が日本を含めアジア各地でさまざまな文化を生み出してきたことは事実ですし、それを評価することも必要だと思います。絵画や彫刻のような美術品だけではなく、文学や音楽、演劇などの領域でも、仏教は重要な役割を果たしたのではないでしょうか。また、迎講そのものも、当時の人々の来迎思想や往生観を示す具体例であるはずですし、さらに、その時代の「視覚体験」そのものも伝えてくれます。おそらく年に一度見ることのできる迎講は、われわれのいかなる視覚体験よりも、強烈で魂をゆさぶるものだったのではないかと思います。ところで、宗教学や人類学が対象とする多くの儀礼が、神話世界や始源の時を再現する、きわめて演劇的な性格が強いものであることは、ご存じですか。「演ずる」ことも儀礼の重要な要素なのです。

源信で思い出したんですけど、1052年から末法ですよね。たぶん。となると、もうすぐ末法も終わるということですよね。正法、像法、末法、このあとの1000年はどうなるんですかね。
正法、像法、末法の数え方はいろいろあるのですが、たしかに1052年が末法のはじまりであることが、平安期の浄土思想の基本だったようです。末法は1000年で終わりではなく、あとはずっとそのままということではなかったでしょうか。少なくとも弥勒が現れるまでは。

成就法で自分の心臓に三昧耶サッタがいて、これと本物の仏(智サッタ)とを同じくすることで、現前に絶対的な仏があらわれる・・・というのはわけがわからないのですが。そもそも、なぜ自分の心臓に仏がいるのでしょうか。仏は自分ではなく特別な存在ではないのでしょうか。
密教の実践や儀礼を説明していると、たしかに、荒唐無稽というかわけの分からないことがあります。まず、成就法という実践法そのものですが、たとえば、礼拝や供養を仏像にするのはわかると思いますが、それは目の前のある偶像にするのではなく、むしろそこに表されている「本物の仏」にすること考えるべきことでしょう。密教ではこのような「本物の仏」を実際に瞑想の中で、目の前に生み出すことを考えたようです。その背景には仏教が伝統的に持っていた「観仏」や「見仏」の考え方もあります。三昧耶サッタと智サッタですが、これはテクニックのようなもので、何もないところ仏を生み出すことはむずかしいので、あらかじめ自分の内部に仏のイメージを作っておくことを思いついたのでしょう。また、仏教の考え方のひとつに「如来蔵」というのがあり、これは文字どおり、あらゆるものには如来すなわち仏となる資質が備わっている(蔵されている)ということです。三昧耶サッタはあくまでも本物の仏を入れるための容器のようなものなので、そこに智サッタという、仏の智そのものがイメージ化されたものを導いてきて、合体させることで、仏が実際にそこに現れることになります。智が重要であるのは、仏とは悟ったものであり、言いかえれば智をそなえたものだからです。(やっぱり、荒唐無稽でよくわからないかな・・・)


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