インドと日本の仏教儀礼
第4回の授業への質問・感想
ヴァーストゥナーガみたいのをどこかで見たなーと思って思い出したら、2年ほど前、タイのラオスの国境の町、ノーンカーイに行ったときでした。立体のヴァーストゥナーガみたいのがドーンと立っていたような気がします。あれはいったい何だったんだろう・・・。他にも変な仏像?とかがあった。
タイでヴァーストゥナーガの儀礼が行われていたかはよくわかりません。ナーガ信仰は東南アジアでもさかんで、単独でも信仰されているようです。造型作品も多く見られますので、そのようなナーガ神だったかもしれません。でも、ヴァーストゥナーガだったらおもしろいですね。写真などがあったら一度見せて下さい。ヴァーストゥナーガはずいぶん前から関心があったので、以前に書いた『マンダラの密教儀礼』の中でも、少し詳しく取り上げています。建築儀礼とマンダラ儀礼に共通して登場することと、その目的が一様ではないことが注目されます。最近、ようやくその全体像をまとめて活字にしつつあります(『東京大学東洋文化研究所紀要』第134冊掲載予定)。他の研究者の論文も現れて(『木村清孝記念論集』所収の種村氏の論文)、密教儀礼のホットなテーマになりつつあります。
マンダラ、家、宇宙に対する概念が似ているのと同じように、灌頂と完成式のモデルも似ていて、俗なものを聖なるものにする儀礼だということを知った。たしかにただの木だったものを仏と認識する時には何らかの区切りを必要とするのだと思う。
ものや人をある状態から別の状態にすることは、儀礼のひとつの基本的な機能のようです。人類学の古典であるファン・ヘネップの『通過儀礼』は、このような儀礼に着目して、広く世界各地の儀礼の事例を集めて、考察しています。今回、久しぶりに見直して、その内容の斬新さにあらためて感心しました。今回のテーマである「サンスカーラと通過儀礼」は、仏教とヒンドゥー教のこのような儀礼を取り上げます。灌頂と完成式にも関連し、前回の授業の内容を受け継ぐ内容にもなる予定です。
プリントの<6>穴の位置・災厄が占いっぽい要素があるなぁと感じた。12目盛り、9目盛りというのは決まっているようなので、正しく掘ればよいようだが、5回掘った土のなかに・・・というくだりの部分は運まかせという感じがあったから。p.8のヴァーストゥナーガの背後にいる小さなヘビは、背中とか頭から出ているようですが、本来はどうなのでしょう。上の図では頭から出ているように見えたので、メドゥーサは違うし。ヘビ(龍?)のとらえ方の違いでしょうか。西洋ではヘビとかって、忌まれている感じがしますし(やっぱり聖書の「そそのかすヘビ(悪魔の使い?)」のイメージとか」)。
密教儀礼の文献の内容は、われわれの現実の生活とはほとんど無縁の内容なので、理解が困難であったり、ほとんど何のためにやっているのかわからなかったりします。そこから何らかの研究の対象を見つけ出し、それを研究することの意義や重要性を示すことは、なかなかむずかしいところです(勝手に選んだ研究分野だからしょうがないのですが)。しかし、占いなどは現代でも関心が高く、千年前のインドの人たちとあまりかわりがないような気もします。儀式やしきたりがわれわれを行動や思考を拘束したり、社会や人々に大きな影響力を持つこともあります(靖国参拝などはその典型)。ヴァーストゥナーガの頭のまわりのヘビは、インドのナーガの典型的な表現です。ヘビが傘のように頭の後ろに広がり、蛇蓋とか龍蓋とか呼ばれます。仏像にもこのようなものもありますが、それは釈迦が悟りを開く前にナーガが傘のように保護したことに由来します。もっとも、これもナーガの造型から生み出された説話かもしれませんが。ヘビや龍、西洋であればドラゴンは神話の動物の中でも、さまざまな機能を持っています。シンボル辞典などで「ヘビ」の項を引くと、たくさん説明がありますので、一度見てみて下さい(比較文化の研究室にその類の本はたくさんあります)。
ヴァーストゥナーガは神の一種ですか。また、ヴァーストゥナーガが動くというのはとても不思議ですが、その絵を描いているのは高位の人ですか。
ヴァーストゥナーガの正体は不明です。ナーガそのものはインドの民間信仰の対象で、巨大なヘビのようなイメージ、あるいは、人間の姿をして、龍蓋を付けているような姿を持っているようです。ヴァーストゥナーガを描いたものは、気を付けてみているのですが、授業で紹介したものが、私の知る限りすべてです。チベットにまだ残っているのではないかと期待していますが、よくわかりません。授業でふれたように、いくつかの文献にはその記述があるので、実際に敷地に描かれたと思いますが、その上に家などを建ててしまっていますし、実際の遺跡などには残っていることはないでしょう。ヴァーストゥナーガの儀礼は建築儀礼であれば、実際に建築に携わる大工の棟梁のような人が描いたと思います。マンダラ儀礼の場合は、僧侶だったでしょう。
ヴァーストゥナーガは大地の主ということですが、それはマンダラを作るときの地面だけではなく、どこにでも存在すると考えられていたのでしょうか。またヴァーストゥナーガの存在は、大地の守り神のような感じで、一般人の間にも広く知られていたのでしょうか。
ヴァーストゥナーガについては限られた情報しか残っていないなので、よくわかりませんが、大地の神というとらえ方ではないようです。大地の神としては、地母神的な女神が仏教ではよく登場します。大地を母なる女神ととらえるのは、世界的によく見られます(逆に天空は父なる神になります)。ちなみに、チベットの土着の宗教のポン教では、原初的な神として、sa bdag (地の神)と klu(ナーガ)という神格を文献の中であげていますが、サンスクリット語のヴァーストゥナーガをチベット語に翻訳するときに、チベットの翻訳家はこれらの言葉を使って、sa bdag kluとしました。ヴァーストゥナーガがインドでどの程度知られていたかもよくわかりません。中世のベンガル湾周辺では、知られていたはずですが、それ以外の地域では文献などには今のところ登場しません。授業でも紹介したように、ナーガではなく、人間を敷地に描く方が一般的だったようで、これは『ブリハット・サンヒター』という有名な占術書をはじめ、さまざまな文献に登場します。これについての研究も進んでいます。
「灌頂を受ける弟子が、仏と同じであることを確かめる・・・」という話があったが、それはその弟子が、ある仏の素質を持っているということなのだろうか。どう考えてもすぐに仏にはなれないだろうし。
灌頂を行っていた密教では、基本的にあらゆる人には仏となる素質が本来備わっていると考えていました。素質というよりも、われわれは仏そのものであるという考え方です。それが煩悩などによってわからなくなっているのです。これは如来蔵思想といって、大乗仏教の中のひとつの基本的な考え方で、中国の禅や日本の仏教のさまざまな宗派の考え方の基本となっています。本覚(ほんがく)思想ともいわれますが、インドやチベットで主流であった中観思想とは相容れないものです。灌頂については、若干、説明を省略したのですが、正確に言えば、弟子が「仏である」と自覚させるのではなく、「仏となることができる」と預言することが目的です(これを授記といいます)。菩薩の修行階梯の最終段階に到達し、将来、確実に仏となることを確認するのです。国家儀礼との関係でいえば、国王即位儀礼ではなく、その前段階の王位継承者の資格授与とでもいう儀礼になります。これについては次の概説書の中で説明していますので、参照して下さい。
森 雅秀 1999 「灌頂儀礼」立川武蔵・頼富本宏編『シリーズ密教 第1巻インド密教』春秋社、pp. 194-208。
仏像の魂の抜き方が知りたい。抜いた魂はいったん仏界に変えるのだろうか。それとも抜き取った人がどこかにしまっておくのだろうか。
日本のおみぬぐいや修理の時の魂の抜き方については知識がありません。ネパールでの儀礼については今回、ふれる予定ですが、壺に入れておくそうです。これもシンボリックな方法です。
ヴァーストゥナーガ儀礼について。占星術も関係していることをはじめて知った。占星術というと西洋のイメージが濃いのでおどろいた。ヴァーストゥナーガが一年かけて回るというのも星座が回るのと似た印象を受ける。
説明が不十分だったようですが、占星術そのものよりも、暦法が重要だったようです。暦からその日のヴァーストゥナーガの位置を知る必要があったからです。それはともかく、インドでは非常に古い時代から占星術や暦学、そして天文学も高度に発達しています。これも儀礼との関係で発達したものです。西洋の占星術はアラビアの科学に起源があるようですが、インドのものもこれに関係します。日本の古い時代の占星術もインド起源で、密教の経典とともに平安時代に伝わっています。インドの天文学、暦学については京都産業大学の矢野道雄先生が概説書をいくつも出しています。
矢野道雄 1986 『密教占星術』東京美術。
矢野道雄 1992 『占星術師たちのインド』(中公新書)中央公論社。
矢野道雄編 1980 『インド天文学・数学集』 朝日出版社。
林 隆夫 1993 『インドの数学:ゼロの発明』中公新書。
今回の授業で思い出しましたが、初回の授業で、「儀礼の特性」について私が考えていたのは、「その行為の前後で対象の性質や価値が変わる」ということでした。灌頂や完成式もあてはまりますね。ただ、プージャーのような儀礼やもっと日常的に行われる儀式(食事の前に神に感謝しますと手を合わせるような行為)には、ピンとこない感じがします。そこで、「その行為をしなければ、その状態が保たれないような行為」を加えると、少し近い気がしました。言葉による定義付けがあまり意味をなすとは思いませんが、自分なりの答えが出せず気になっていたので。
今回の回答のはじめの方でも書きましたが、儀礼行為の対象の質的な変化は、たしかに儀礼の持つ重要な機能のひとつだと思います。「状態が保たれないような行為」というのも的確な定義です。プージャーなどについては「<聖なるもの>の存在を意識した行為」と、私は以前、考えたことがあります。「言葉による定義付け」はあまり意味がないどころか、とても重要なことです。われわれは言葉を用いて、さまざまな現象の記述を行い、その解釈や理解を示すことがはじめて可能になるのですから。儀礼については機能や象徴的な意味からとらえることも重要ですが、それ以外のアプローチも可能ですから、いろいろ考えてみて下さい。正解はひとつではないし、要はどれだけ人に「なるほど」と思わせるかということです。極端ですが、つぎの論文のように「儀礼などに何の意味もない」とする研究者もいます。
Staal, F. 1979 The Meaninglessness of Ritual. Numen 26: 2-22.