インドと日本の仏教儀礼

第3回の授業への質問・感想


ヴェーダと一口に言っても本当に多くの種類があることを知ってびっくりした。それだけ言葉というものが儀礼の中で重要視されていたのだなと思った。祭官には「神と人の間をつなぐ架け橋」みたいなイメージを抱いていたので、今日の図で出てきた祭官が一段高いところから見ているという図には、何となく違和感をおぼえた。
ヴェーダ文献の体系は、単なる聖典というイメージを越えて、壮大かつ整然としたものです。インドの文化とは、じつはこのようなものを基調にしています。言葉に対する態度も、日本人には理解できないほど精緻を極めています。古代インドにはパーニニという伝説的な文法学者が現れて、サンスクリットの文法体系を築きましたが、これは現代の言語学者もおどろくほどよくできています。祭官の位置づけは意外だったかもしれませんが、だからこそ、社会の身分制度においてもバラモン(ブラーマン)が最上位に位置することができたのでしょう。ヴェーダ祭式の質的変換は、祭式の絶対化とそれにともなう祭官の力の重視、他方では神々の地位の低下とまとめることができます。

授業とはあまり関係がないのですが、ブラーフマナはインドの三大神にシヴァ、ヴィシュヌと並んでいたブラフマーと関わりがあるのでしょうか。
ブラーフマナは「梵書」とも訳され、「ブラフマンに関するもの」という意味です。ブラーフマナそのものについては、先回の配付資料の辻直四郎『インド文明の曙』pp. 3-4に説明があります。ご指摘のように、ブラフマン(ブラフマー)は神の名としても知られていますが、ヴェーダの時代には世界の最高原理を示すもので、まだ神格化されていません。最高原理も神の名も同じ「ブラフマンbrahman」ですが、原理の方は中性名詞で、神の場合は男性名詞となります(男神なので)。シヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマーが三大神(トリ・ムールティtrim鑽ti)を構成するのは、ヴェーダの宗教からヒンドゥー教へと変わってからです。実際に信仰の対象となったのはシヴァとヴィシュヌだけです。仏教の場合、少し様子が異なり、釈迦の伝記などにブラフマン(梵天)はしばしば登場し、釈迦を助けたりします。帝釈天(インドラ)とペアを組み、重要な役割を果たすこともあります。インドラはヴェーダ文献において最も人気を集めた神です。

シュルティについて。「聖仙が神秘的霊感によって云々」と書かれていたが、その「聖仙」は誰にそれを伝えたのだろう。神の考えを「聖仙」がお告げとして受容したのだろうか。「聖仙」と「聖賢」の区別がいまいちよくわからない。「聖仙」=神と考えた方がよいのだろうか。
ヴェーダの宗教において、神は讃歌や供物を捧げられる対象で、ヴェーダのサンヒターの部分は、この讃歌や献供の言葉が中心で、それを人々に告げたのが「聖仙」となります。したがって、聖仙と神は別個の存在です。聖仙の名はいくつか伝わっていますが、実際の歴史上の人物であったかはわかりません。ヴェーダ文献は何百年もかけて成立したものなので、作者の数も相当にのぼるでしょう。このうち、最も古い層である『リグ・ヴェーダ』の「サンヒター」の部分は、アーリア人がまだインドに入る前にできたもので、イランの「アヴェスタ」と内容上の関連があります。

ヴェーダはお坊さんだけが学んだり覚えたりするものなのであろうか。こんなにたくさんの部類わけがなされていては、一般の人々は覚えたがらないような気がする。お坊さんが行う儀礼の形だけなら日常生活の中でもまねできそうだが・・・。
ヴェーダの宗教にかかわる祭官たちは分業体制がはっきりしていました。ヴェーダの基本となる4つ(リグ、サーマ、ヤジュル、アタルヴァ)も、それぞれ決まった名前の祭官の担当となっています。さらに、各ヴェーダにおける分派も、祭官が担当する職掌や依拠する文献にかかわってきます。実際に祭官が学習する文献は、全体から見ればごく一部だったでしょう(それでも膨大ですが)。その場合、ヴェーダ文献の全体像を知る必要はありませんが、自分が学ぶ文献相互の関係(たとえば根本的な文献とその注釈書)は、知っていなければなりません。ちなみに、ヴェーダ文献の内容は、長い間、文字では記されず、口伝によって継承されていきました。祭官の家に生まれた男子は、幼少の頃からヴェーダの学習が課せられますが、もっぱら暗記が中心だったようです。古代社会における「知のあり方」が、もっぱら記憶に支えられていたのは、インドばかりではなく、中国やヨーロッパでも同様でしょう。チベット仏教では今でも経典や論書の暗記が修行の大半を占めます。

ヴェーダの話で、アタルヴァ・ヴェーダが一番新しいと言うことでしたが、これからも新しく増えると言うことはあるのですか。
ヴェーダ文献のうち、シュルティは現在よりも多くなることはありません。アタルヴァ・ヴェーダも本来はシュルティとしての権威が認められていなかったようです。スムリティに属する文献はかなり後世のものもあります(ヴェーダ文献の表の中でも下の方の文献)。それでも4,5世紀ぐらいなので、十分古いですが。伝統的なバラモンは現在でもヴェーダの儀礼を行っていますが、新しく「聖典」を創作することはないでしょう。

インド、中国、日本と次第が伝わって、日本人は意味の分からない言葉をせっせと暗記していったとありましたが、はじめから「意味」(儀礼の)は失われていたということですか。たとえば、ある宗教を広めるには、教義の深いところまでを説くよりも、現世利益を説けば、一番の近道になるということはあると思いますが、このときにも本質が失われていた(意味を知らずに実行だけする)ということはありますか。長い年月のうちに、意味が失われることと、はじめから意味を知らないことがありうると思います。
授業で紹介した文献の中の「意味の分からないところ」というのは、密教儀礼の「真言」(マントラ)の部分で、本来はサンスクリットですが、これを中国の人々は翻訳しないで、音をそのまま写し取りました。これは、インド以来の「儀礼における言葉の重視」を受け継ぐもので、儀礼の言葉とは意味よりも音(発音、アクセント、韻律などのすべてを含む)が重要であったためです。ひらたくいえば呪文だったわけで、呪文とは一般にそのようなものです。儀礼の言葉と意味はさまざまな問題をともないますが、音が重要であることは、ほぼ一貫しています。意味の理解がどの範囲の人間にまで可能かは、さまざまな段階があります。参加者全員(見ているものも含め)理解できるものから、少数の専門家のみ理解可能、さらにはまったく意味の不明な言葉も、儀礼にはしばしば現れます。宗教の教理(教義)の理解と、このような儀礼の言葉の理解は、重なる部分もありますが、同じように扱うことはできないでしょう。仏教がアジア全域に広がり、現在に至るまで生き続けているのは、思想や教理がすぐれていただけではなく、そのようなものを理解できない人たちでも、積極的にかかわることができたためでしょう。仏教の用語を用いれば、「世間」(せけん)「出世間」(しゅっせけん)の二つのレベルが存在したためです。現世利益も「世間」レベルの事象ですが、ほかにもいろいろあります。最後のご指摘にあるように、儀礼と意味については、儀礼の構造ばかりではなく、歴史的な展開にもかかわる問題なので、注意していきたいと思います。

資料の4ページの護摩の展開に書いてある「心の状態」というのが、前回から非常に気になっています。「愛欲」が特に。性的なことを考えながら行うのでしょうか。
授業で説明するつもりですが、護摩が本来持っていた目的は、きわめて現実的かつ呪術的なものです。そのうち、敬愛・鉤召は異性を自分の方に引き寄せることを目的としますので、「愛欲」のような言葉が登場します。仏教の護摩はこのような本来の目的は一種のメタファーのようにとらえ、仏教の教理にふさわしい目的へとすり替えます。現実レベルと教理レベルの二重構造があると見てもいいでしょう。

日本のお経でも繰り返しが多い。主語だけが違う似たような文を何度も繰り返す経文はよくある。日本は伝統的に繰り返しを嫌う文化だと思うので、やはり仏教は外来文化だと感じた。
経典はたしかに繰り返しがたいへん多いです。これは、口誦伝承の文献に特有で、民話や神話でもよく見られます。般若経などを見ると、とてつもなく長い定型句が何度も何度も現れます。これをすべて省略したら、現在の何分の1かの量になるでしょう。日本文化が繰り返しを嫌うというのは、私自身は考えたことがなく、あまり具体例が思い浮かびません。よろしければ何かあげてみて下さい。

修法の中では息災と調伏の名しか知りませんでした。とくに調伏は今では失われた(道徳的に公にはできないこととなっているという意味で)ものだと思いますが、だからこそ興味深いです。ただ、使うもの(毒、血、死体関連)は、人が嫌がるものだと思いますが、それは相手(敵)をおとしめるためという意味があるのでしょうか。しかしそうだとしても、術者もまわりから遠ざけられるのではないかと思います。それは陰陽師たちは、はじめは物の怪を退治する側から、それらと同一視されていったという歴史を聞いたことがあるので、同じようなことが起こっていてもおかしくないという風に感じたからです。砂マンダラの横から見た図の門の部分の色の違いは何か意味があったのですか、白、黒、赤、橙、だったので、四修法の火炉の色と関係あるのかなと思ったので。キーラと丑の刻参りが関係するのは予想できました。やはりという感じで。それ以外に死人が生き返らないように心臓に杭を打ったりするのも、何か関係するのかなと思いました。でも、あれは土葬の地方じゃないと起こり得ませんよね。
調伏はたしかにおおっぴらには行われませんし、重複専用の護摩の火炉もほとんど存在しません。しかし、歴史的にはかなり頻繁に行われたようです。調伏で用いられるものが常識的には忌避されるものであることは、興味深いところです。相手をおとしめるというよりも、不浄なものが持つ呪術的な力を利用するという発想ではないかと思います。インドの伝統的なヴェーダの儀礼では、このような血や死体はけっして登場することはなかったのですが、民間信仰レベルでは、おそらく普通に用いられていたと考えられます。中世のインドは、このような呪術的な儀礼が、仏教やヒンドゥー教のような伝統的な宗教の中に少しずつすがたを現してきた時代です。本来、このような儀礼は社会の底辺や周辺に位置するような人々が行っていた場合も多いので、ご指摘のように、儀礼遂行者が差別と結びつくこともあったかもしれません。今はやりの陰陽師についてはほとんど私は知識を持っていませんが、その起源は中国だけではなく、このようなインドの宗教儀礼にも、かなり求められると思います。誰か本格的に比較研究してくれるとありがたいのですが・・・。マンダラの門の色は、たしかに塗り分けられていますが、修法の色とはおそらく関係ありません。四修法で色を区別する発想は、ヒンドゥー教でも見られるものですが、仏教では部族と呼ばれる仏のグループと結びつけられます。たとえば、息災の白は大日如来の体の色と同じであるので、その部族である仏部がつかさどる儀礼という具合です。キーラの儀礼はたしかに死者儀礼とも関係するかもしれません。インドの葬送儀礼も未知の領域ですが、火葬と土葬の両者があったと思います。釈迦などの高貴なものは火葬(荼毘)でした。

護摩の供物が護摩の種類によって異なってくるのは知っていたが、火炉やすわり方、容器などの配置までもが異なるとは思わなかった。「調伏」の時のみ、塗布物や供物がなんだかまがまがしい感じがする。護摩の体系の中に呪詛みたいなものが含まれていたけれど、もし偉い人を妬んで誰かが僧に呪殺を依頼すれば、政敵とか皆死んでしまうのでは?このころは人々は信心深いはずだし、いつも呪詛をおそれていたのではないだろうか。「人殺し」の犯罪になりそう。現代でも呪詛を依頼する人はいるだろうか。第二次世界大戦後はもうなくなっただろうか。あと「敬愛」のための火元が娼婦の家、というのは納得がいくけれど、商人の家も火元にあげられていたのはなぜ?敬愛と商人の関係がつかめない。
調伏のような呪殺の儀礼は、「怖いもの見たさ」という感じで興味がわきます。「まがまがしい」というのは的確なとらえ方で、吉凶という対比の中の凶がこの儀礼の基調となっています。われわれは呪術などとは無縁の生活を送っているように思いますが、西洋的な近代合理主義と、それにもとづく学校教育が一般に浸透するまでは、呪術はもっと身近な存在だったでしょう。柳田国男の『遠野物語』などを読むと、明治時代の日本人でさえ、われわれとはまったく違う世界に生きていたことが実感されます。というよりも、今でも占星術や心理テストのような形を取って、呪術はわれわれの生活にしっかりと生き続けていると見た方がいいのかもしれません。密教儀礼が日本に伝わったとき、これを受容したのは朝廷をはじめとする貴族層たちでした。国家儀礼が密教儀礼として行われたり、彼らの日常的な願望を成就するためにさまざまな儀礼が密教僧によって行われたようです。調伏や呪殺もきっとありふれたものだったでしょう。実際にそれで人が死ぬなどの効果があるかどうかは誰にもわかりません。何らかの霊的な「力」を持つ人は、いつの時代にもいるようなので、場合によっては効果があったでしょう。現在、伝統的な密教の宗派では、おそらく調伏は正規なカリキュラムとしては教えていないでしょう。儀軌の形で文献が伝わっているので、それを見ればある程度はわかるようですが、密教儀礼は口伝の要素も多いので、伝統が絶えているかもしれません。敬愛の火元が商人の家というのは、はっきりした理由はわかりませんが、いわゆるカーストに修法を対応させて、ヴァイシャを当てたのではないかと思います。あるいは「人を引き寄せる」という儀礼の目的が、商業活動と通じるのかもしれません。

平安時代はすべての病は物の怪の仕業であるとして、加持祈祷をしたようですが、これは護摩によるものですよね。この場合、病魔を治すための修法は「息災」ですか?「調伏」ですか?古文の中では「魔物を調伏して病を治す」という表現もあったのですが。
護摩もしたと思いますが、それ以外の儀礼もありました。護摩の場合は治病は息災に含まれるでしょう。息災という言葉そのものが「鎮め」という意味です。災いや混乱を鎮め、平安をもたらすもので、最も一般に行われました。護摩の代表的な修法で、おそらく、現在の日本の密教寺院で行われている護摩のほとんどが、息災護摩でしょう。平安時代の密教儀礼については授業でも1月に取り上げたいと思いますが、さまざまなものがあります。その中には病気治癒や懐妊、安産などもあります。摂関政治や平家の時代に、天皇の跡継ぎを産むことが至上命令であったことと、これらの儀礼は密接に関連します。このような儀礼は「別尊法」と呼ばれ、特定の尊格を本尊として、行われます。

マンダラについて無理かもしれないが、ユングについてちょっと紹介してほしい。
ユング心理学とマンダラというのは、よく言われることですが、私自身、くわしくは知りません。また、その理解もどの程度、実際の歴史的なマンダラにもとづくものであるかも疑問です。西洋の知識人がマンダラについて関心を持ったはじまりがユングで、精神疾患の患者が回復期にしばしば描く図形が、マンダラによく似ていることを指摘しているようです。ユングの関係で日本では河合隼雄氏がやはり密教やマンダラに関心を持っています。最近、私が翻訳した『曼荼羅大全』(東洋書林)の中でも、最後の章でユングとマンダラについての言及が見られます。その他、ユングの著作でマンダラや東洋思想に関係するものなどをあげておきます。
ユング、C.G. 1956 『人間心理と宗教』(ユング著作集 4)濱川祥枝訳 日本教文社。
ユング、C.G. 1976 『心理学と錬金術』池田紘一・鎌田道生訳 人文書院。
ユング、C.G.1982 『元型論 : 無意識の構造』林道義訳 紀伊國屋書店。
ユング、C.G. 1983 『東洋的瞑想の心理学』湯浅泰雄・黒木幹夫訳 創元社。
ユング, C. G.、M-L.フォン・フランツ 1990 『アイオーン』 野田倬訳 人文書院。
ユング, C. G.  1991 『個性化とマンダラ』林道義訳 みすず書房。
栂尾祥瑞 1975 「ユングのマンダラ・シンボル」『密教文化』111: 53-76。

四けつと五色線で結界を作っていたというのははじめて知った。今までそういうのは展示のために後から付けられた境界だと思っていた。呪殺の話はおもしろく感じたが、そういうことをやってもよいのかと思った。仏教の戒律の中には「不殺生」もあった気がするのだが。あと「マンダラの基本線」の「1ハスタ」というのは仏陀の体のどこかの部分の大きさだろうか。マンダラの大きさはこれ以外ではいけないのか。
呪殺と不殺生の関係はたしかにそうですが、いわゆる「ホンネとタテマエ」のような関係でしょう。宗教儀礼の世俗化という見方もできます。「ハスタ」は長さの単位で、中指の先から肘までを指します。およそ50センチ・メートルぐらいでしょう。この長さは絶対的なものではなく、家を建てる場合は、大工の棟梁の体の大きさが基準になります。マンダラも「家」ですから、これに準ずるわけです。

スライドに出てきた砂マンダラははじめてみました。直接、床の上に砂を落とすとしたら、その場所は結界のようなものができたりして、そこに宗教的な空間を作り上げるという意味があるのですか。
スライドではマンダラは台のようなものの上に作っていましたが、インドでは地面の上に直接、作ったようです。そのために念入りに整地をしたり、土地の選定にもいろいろな条件がありました。結界はその最終段階で行う手続きで、これは単にマンダラを描く土地を神聖にするというだけではなく、その後でマンダラを用いて行う灌頂などの儀礼も、邪魔されたり失敗しないようにするためです。彼らにとって儀礼の遂行が妨げられるということは、儀礼の失敗につながります。儀礼は成功することではじめて力を持つことができたのです。そのような意味で、宗教的な空間を作り上げるということが、必要になるのです。


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