インドと日本の仏教儀礼

第1回の授業への質問・感想



日本は儀礼が多い気がするんですが、実際、他の国々とくらべてどうなんですか。
儀礼の多寡は何を儀礼ととらえるかで変わってくるでしょう。伝統的な社会であるほど、儀礼が多いような感じもしますが、都市化や近代化であらたに生み出される儀礼も数多くあります。宗教や儀礼と無縁のように感じられる社会主義の国々でも、国家儀礼によってイデオロギーの浸透を図っています。

儀礼の歴史の中で何千年という時を経れば、変化することも当然であるが、古来からまったく意味の変化のないものはあるのでしょうか。あるとすれば、変化の有無はどうして起こるのでしょうか。
何千年というタイムスパンで考えると、社会、生活様式、環境、生産技術などが変化しないことはあり得ないので、儀礼にまったく変化がないことは考えにくいでしょう。その中で、伝統的な儀礼が良く保存されている場合と、そうでない場合があります。インドでは三千年以上前に成立したヴェーダの祭式の伝統が、驚くほど良く残っています。日本の仏教儀礼でも、奈良時代や平安時代初期にまでさかのぼることができるものもあります。その一方で、多くの国々で、この数十年の間に、多くの伝統的な儀礼が消滅しています(動物や植物の絶滅にも似ています)。日本の場合もその例外ではないでしょう。また、外見的には同じ儀礼であっても、儀礼の持つ意味も刻々と変化していることに注意が必要です。儀礼の要素のさまざまな変化の背景に何があるのかは、授業の中で、これから考えていきたいと思います。

儀礼に意味を求めすぎては行けないようですが、それは意味があった頃の儀礼と、現在の儀礼を分けて考えなければならないということですか。
儀礼が本来の意味を失うことは、儀礼の形骸化、形式化でもあり、多くの儀礼に見られる現象です。しかし、あらたな意味が与えられ、儀礼の刷新が行われることもしばしば起こります。いかなる儀礼も何らかの意味を有しているととらえる方が、考えやすいでしょう。ただし、儀礼が有する意味を考えるのは、さまざまな困難を伴います。儀礼研究者が儀礼に対して、何らかの意味を読みとったとしても、それを実際に儀礼を行うものが意識していなかったり、あるいは、否定することさえあります。その場合、研究者と行為者のどちらの意見が正しいのかを、だれが判断できるでしょう。歴史的な儀礼についても同様です。文献やその他の資料から再構築した儀礼が、どのような意味を有しているかは、直接観察できないために、なおさら困難です。人類学ではフィールド調査のデータの解釈をするときに、「エティック」と「エミィック」という二つのレベルをたてることがありますが、これに似た状況が起こるのです(関心のある方は『文化人類学事典』などを参照して下さい)。授業でも少しふれたインドの伝統的な儀礼については、膨大な文献資料があることで、さらに複雑な状況が生じます。しばしば、これらの文献は儀礼の意味を説明していますが、研究者の観察がつねにそれに一致しているとは限りません。儀礼の意味の解釈には恣意性がつきまといますが、それが文献によってさらに不確かなものにされるのです。これは日本の仏教儀礼についても言えることです。

「儀礼」と聞くと、似たような意味の言葉として「しきたり」という言葉が思い浮かぶのですが、この二つはどう違うのですか。
「儀礼」と「しきたり」はもちろん同じ意味ではありませんが、重なる部分も多いでしょう。あいさつやマナー、タブーなどはしきたりと理解されますが、儀礼の研究対象としても取り上げられます。多くの儀礼がしきたり(慣習と言うこともできます)によって規定され、儀礼そのものが、しばしばしきたりと理解されます。しかし、しきたりの持つ保守的、守旧的な性格は、儀礼には必ずしも必要とされません。儀礼を遂行するときには、しばしば新たな要素が加えられたり、状況や参加者に応じた即興的な要素も見られます。新しく儀礼を作り出すことで、社会に変革をもたらしたり、伝統そのものを改変したりすることもあります。身近な例でいろいろ考えてみて下さい。

資料の14頁の左側にある「私たちの関心が、・・・彼の呼ぶ象徴へ向かうことを求めている」とありますが、「彼の呼ぶ象徴」とは何ですか?そして、その「象徴」は何の特徴ですか。
直前のターナーからの引用文中の「象徴」です。文中の「(儀礼の社会的機能を考察する方法では)儀礼は社会活動の単なる一部分とされ、宗教的慣習と世俗的慣習との間にある差異が消えていってしまうことを、私は理解した。儀礼象徴はそれ自身の原則をもっているのだと言うことを、私は理解したのだ」とあるあたりを指しています。儀礼を構成する要素に、儀礼を行う人、参加者、道具をはじめとするさまざまもの、宗教儀礼であれば礼拝などの対象、儀礼行う空間や時間、儀礼を取り巻く人間関係などをあげることができますが、これらはすべて象徴として扱うことができ、それは一般の社会的な行為とは、明らかに異なる象徴体系を有しているということだと思います。このような儀礼の構成要素を象徴としてとらえる立場を紹介しているので、「何かの象徴」という具体的なことではありません。竹沢氏の「序文」は全文をあげてありますので、通して読めば理解できると思います。

儀礼とはなぜ存在するのですか。それは日常性との乖離があり、一種の神秘性をも含んでいるように私には思われますが、なぜそのようなものが、われわれの日常生活に必要なのでしょうか。
ご質問の通り、なぜ人間に儀礼が必要とされるのかは、難しい問題です。それは、なぜ宗教が存在するのか、あるいは「聖なるもの」が存在するのかという質問と同じような問いです。この授業では「儀礼とは何か」にはこれ以上立ち入らずに、「人々はこれまでも儀礼を行ってきたし、今でも行っている」という立場で、その内容と変化を考えて行くつもりですが、その中で「なぜ儀礼は必要なのか」という問いについて、自分自身で何らかの答えを探してみて下さい。

儀礼について「なぜするのか」とか、「その行動にどのような意味があるのか」という質問をされたとしたら、答えるのはむずかしいそうだ。私は儀礼というものは、行為そのものに意味があるのではなく、その行為によって何らかの意味をなすことが重要なのではと思った。
それも儀礼に対するひとつのとらえ方だと思います。儀礼の持つ効果や機能は、儀礼を考える上で、重要なポイントになります。儀礼をどのようにとらえるかは、研究者によってさまざまです。以前、『マンダラの密教儀礼』の中で、私も次のように書きました。

 そもそも「儀礼を知る」あるいは「儀礼を理解する」とはどういうことであろうか。おそらくそれは実際に儀礼を行う人と儀礼を観察する人とのあいだには大きなへだたりがある。儀礼行為者の多くは儀礼の全体の流れや具体的な方法などがわかれば、その儀礼は理解できたと思うであろう。しかし、儀礼を観察し、それを分析するものはそれでは満足できない。たとえば、動作、ことば、装置、道具といった儀礼を構成するさまざまな要素がそれぞれ何を意味し、何を象徴しているかがわからなければ、儀礼が理解できたとは思えないはずである。そして、これらの意味をふまえて儀礼全体の階梯や構造を解きあかそうとする。あるいは儀礼の起源や歴史的な変遷の解明こそ、儀礼の理解には不可欠であると主張する立場もある。一方、社会における儀礼の果たす役割から儀礼を理解することもある。政治学的、経済学的な立場からの儀礼へのアプローチも不可能ではない。もちろん、普通の人々が儀礼に寄せる関心は実際はもっと現実的、かつ主観的なものである。たとえば、おはらいや厄除けのようにその儀礼がいかなる効力をもつかが重要なのであって、儀礼の方法や内容すら問題ではない。「儀礼とは何か」という問いは、一般的には「儀礼によって何がもたらされるか」という関心を超えるものではない。儀礼の何がわかれば「儀礼が理解できた」と実感しうるかは、その人の立場や考え方で大きく異なるのである。(pp. iii-iv)

ついでながら、実際に儀礼をする人に儀礼を研究する人はあまりいないようです。儀礼がおもしろくないことを、身をもって経験しているからでしょうか。

(儀礼研究が)流行遅れになるというのは、研究され尽くされてしまったということだと思いますが、新しい儀礼は誕生していないのですか。変化・進化があるということを授業でおっしゃっていましたが、研究を続ける価値があるような重要なものなのですか。
流行遅れになるのは、研究され尽くされてしまったということではなく、多くの研究者が関心を失ったということです。その背景には、社会の要請が少ないとか、研究そのものが袋小路に入ってしまったとか、他の学問領域に刺激を与えるような理論が生まれないとかがあるのでしょう。ただし、儀礼の研究はまだまださまざまな可能性をもっていると私は考えています。

象徴的なものが儀礼とされる。その象徴の具体物は万人に認識されなくても良いのですか。
儀礼の構成要素の象徴性は、必ずしも万人に認識(あるいは理解)されなくてもいいようです。場合によっては、理解されないことが最も重要と考えられることもあります(秘儀と呼ばれるように)。儀礼をコミュニケーションのアナロジーで解釈するのは、かつて記号論の人々やその影響を受けた人類学の研究者が好んだ方法ですが、今からふりかえると、あまり実りある議論ではなかったようです。

文化人類学の授業でも聞いた話をもっとわかりやすく具体例などを入れながら話してくれたので、とても役に立った。今まであいまいだった文化人類学から見た儀礼というものを知ることができた。比較文化でも文化人類学と同じようなテーマで研究しているのですか。
比較文化はよく言えば学際的(悪く言えば寄り合い所帯)なので、いろいろな専門分野やテーマが交錯しています。儀礼は宗教学でも文化人類学でも、あるいは私の専門の仏教学やインド学でも重要なテーマですが、その方法や関心は、それぞれ違います。ありきたりのたとえですが、同じ材料を使っても、料理の仕方が違うようなものです。比較文化の場合、というより私の場合は、宗教的な文献資料(とくに古典的な文献)を使って、儀礼研究をすることが多いです。「歴史人類学」という分野もありますが、文化人類学の主たる関心の対象は「現在」ではないでしょうか?

儀式を研究する学問もあるのだなとはじめて知った。
そうなんです。あるんです。それはともかく、あらゆるものは研究の対象となります。ただし、その研究が意味を持つかどうかは、ひとえに研究する側の力量にかかっています。

「(インドでは「儀式」に相当する)名前がないのは当たり前のこと」だから、とおっしゃっていましたが、では、さまざまなものに名前が付いている今は、昔より物事が客観化してしまったということなのでしょうか。よくわかりませんが。
インドで「儀礼」や「儀式」に相当する言葉が見あたらないというのは、少し、簡略化しすぎた説明だったかもしれません。伝統的なヴェーダの宗教やヒンドゥー教の場合、個々の儀礼の名称はあっても、それを統合するような言葉がないということで、それは、宗教そのものが儀礼を中心にできあがっているためではないかと思うからです。これに対して、たとえば、日本の密教では、「教相」と「事相」という二つが、密教を支える「車の両輪」と喩えられます。教相とは教理すなわち哲学や思想で、事相が儀礼や儀式に相当します。密教が上位概念で、その下位概念として、教相と事相の二つが相互補完的にたてられていることになります。上記のインドの宗教では、宗教イコール儀礼なので、両者を区別して表現する必要がないということです。少々、乱暴な説明ですが。


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