インド仏教美術の諸相
特集・仏たちの世界:日本の仏教美術から
女性について少し触れられましたが、日本において女尊はあまり知られてないように思います。鬼子母神などは違ったと思うのですが、女尊についてもう少し知りたいと思いました。仏教に限らず、多くの宗教で、女性はあまり地位が高いとは言えないと思います。しかし、神話の中では女性はけっこう多くいるように思います。そのあたりを少し知りたいと思いました。
たしかに、日本の仏教では、明らかに女尊である尊格はそれほどいないようです。日本の場合、女尊のグループというのは伝統的にたてられず、インドで女尊として崇拝されていた仏たちも、観音や天などの中に組み込まれています。たとえば、准提観音や摩里支天などです。天部の有名な弁財天や吉祥天は、ヒンドゥー教起源の神で、仏教に取り入れられたものです。インドの女尊については、私の『インド密教の仏たち』の中のいろいろなところでふれています。とくに変化観音の章では、観音と陀羅尼起源の女尊を取り上げています。神話における女性(女神)の扱いや機能は興味深いテーマです。地母神崇拝は世界的に見られますし、ヨーロッパのヴィーナス、日本のアマテラス、インドのドゥルガーやカーリーなど、有力な女神をあげれば、きりがありません。文献もいろいろあります。仏教が女性をどのようにとらえてきたかは、また別の問題になります。近年のフェミニズム研究の隆盛や、歴史における差別の問題などとも関係するため、これもいろいろ論じられています。
エリアーデ、ミルチャ 1968 『大地・農耕・女性 比較宗教類型論』堀一郎訳 未来社。
大隅和雄・西口順子編 1989 『シリーズ 女性と仏教』平凡社。
立川武蔵 1990 『女神たちのインド』 せりか書房。
西口順子 1987 『女の力 古代の女性と仏教』平凡社。
今年、大英博物館に行ったのですが、その朝日アマラヴァティー・ギャラリーもあったんですが、公開時間が合わず、見れなくて、今思うとすごく残念だったと思います。弥勒如来というのが存在するなんて驚きでした。五十六億七千万年後、この世に現れると言うことはよく聞きますが、このような話があるとは思いませんでした。他の菩薩たちも如来になるような話はあるのでしょうか。それともまだ五十六億七千万年経ってないからわからないのでしょうか。菩薩は悟りを開く前の修行中の身であることはわかったのですが、明王や天、雑神も同様に悟りを開くことを目標にしているのでしょうか。
大英博物館は機会があれば、また行ってみて下さい(行くまでがたいへんですが)。インドやシルクロード、日本のコレクションも、とても充実しています。やはり、かつてのインドの宗主国だっただけはあります。観光のツアーでは大英博物館には2,3時間しかとってないことが多いのですが、しっかり見るなら、1週間ぐらい必要でしょう。日本の博物館とは規模が違います。弥勒仏の作例はスライドで準備してあるので、今回お見せします。五十六億七千万年は弥勒に固有の時間です。インドの文献では五億七千六百万年だったそうですが、これを中国に翻訳するときに、間違えたそうです。一桁違うだけですが、もともとが天文学的数字ですから、待っている方としてはひどい話です(弥勒は救済者ですから)。それでも、悟りを開くときが決まっているのはまだよい方です。他の菩薩(大乗の菩薩)は、すべての衆生が悟るまでは、自分の悟りはおあずけになっています。明王と天・雑神は分けて考える必要があります。天や雑神はもともと、仏教を守る立場にあるので、彼らが悟りを開くことは強調されません。輪廻思想では、神も輪廻するのですから、悟りをもとめることもあるはずですが。これに対し、明王は仏が忿怒相つまり怒りの姿をとったものと、日本仏教では理解されています。たとえば、不動は大日如来の変身したものです。すでに悟ったものということになります。
講義を聞いていて、密教がよく出てきていたのだが、密教という宗教は仏教(大乗仏教など)とどういう点で異なっているのか、もし、仏教から分離したものならば、どうして分かれたのか疑問に思った。
密教については次回かその次ぐらいから入っていきます。以下の文章は、前期の教養の授業の時に使った密教の簡単な説明です。
インド仏教の歴史を簡単にまとめれば、釈迦の時代を含む初期仏教(あるいは原始仏教)、部派仏教、大乗仏教、密教ということになります。インド仏教の最終的な形態が密教です。ただし、その時代も大乗仏教やいわゆる小乗仏教もありますので、段階的に変化したというわけではありません。また、密教の修行をすることが許されたのは、大乗仏教の修行階梯を終え、特別な能力(とくに実践における能力)をそなえたものだけといわれています。ある研究者は密教の特徴として次の5点をあげています。?現世拒否的態度の緩和 ?儀礼中心主義の復活 ?シンボルとその意味機能の重視 ?究極的なもの、あるいは「聖なるもの」に関する教説 ?究極的なものを直証する実践(立川武蔵 1992 『はじめてのインド哲学』講談社、p.173-4)。よくわからないと思いますが、同書や次のような文献を、まず手始めに読んでみて下さい。
松長有慶 1991 『密教』(岩波新書) 岩波書店。
立川武蔵・頼富本宏編「シリーズ密教」 春秋社。
森 雅秀 1997 『マンダラの密教儀礼』春秋社。
仏教の宇宙観=増殖する宇宙という話が出てましたが、どのようなことを意味しているのでしょうか。
仏教のコスモロジー(宇宙論)は、時代によっていろいろ変化しますが、須弥山という山を中心にしていることはほぼ一貫しています。大乗仏教ではこのような世界をひとつの単位にして、それを無数に増やしたものが、宇宙全体であると考えます。そのひとつひとつの世界に仏が現れるため、宇宙には無数の仏が含まれることになります。仏教のコスモロジーはよく取り上げるのですが、今回の授業ではまだ詳しく説明していません。以下のような文献がありますので、読んでみて下さい。
定方 晟 1973 『須弥山と極楽』(講談社現代新書) 講談社。
定方 晟 1985 『インド宇宙誌』 春秋社。
杉浦康平・岩田慶治 1982 『アジアのコスモス+マンダラ』 講談社。
ブラッカー、C.、M.ローウェ 1976 『古代の宇宙論』矢島祐利・矢島文夫訳 海鳴社。
ナーガ=蛇、龍、象、釈迦ということから、中国の皇帝がシンボルとして龍を使っていることや、エジプトで蛇が王の装飾に表現されていることを思い出した。エジプトはともかく、やはり仏教の影響も考えられるのだろうか。関係ないけど、いつかキリスト教のものも特集して下さるとうれしいです(でもありえませんよね・・・)。
ヘビは宗教学や神話学でしばしば取り上げられる「問題の」動物です。シンボル辞典などで「ヘビ」の項を引くと、たくさん説明があります。一度見てみて下さい(比較文化の研究室にその類の本はたくさんあります)。皇帝や王とヘビが結びつくことも、宗教学的な立場からもとらえられますが、王権と宗教の関係は、また別の問題となると思います。宗教はしばしばイデオロギーとして統治理念となったり、王権の正統化のために機能します。日本の天皇制もそのひとつでしょう。中国については知識がありませんが、皇帝の持つ絶対性や神聖性は、日本の比ではなかったと思います。キリスト教美術はやってみたいですが、専門外なので、むずかしいでしょう。比較ということで、時々、有名なものを紹介していきたいと思います。
仏陀が現れる以前には、仏教の考えはなったのですよね。だとすると、過去仏たちは存在していながらも、人々の思考の中には知られていなかったということですか。
仏教とは釈迦が開いたものですから、「歴史的」に見れば、釈迦以前には仏教はないことになります。しかし、「信仰」のレベルでは、釈迦が説いた教え=真理は、時間を超越して存在していたとも考えられます。過去仏はこのような絶対的な法の存在を前提として、釈迦以前にそれを見いだしたものということになります。授業で紹介した資料にあるように、かなり古い仏典にも、過去仏や永遠の法という考え方が出てきますし、釈迦自身もそのような意識を持っていたのかもしれません。ある仏教学者は、仏教は釈迦が開いたのではなく、釈迦族の有していた宗教で、釈迦はその改革者にすぎないといっています。極論のような気もしますが、ひょっとしたら、あっているのかもしれません。
仏像で口を開いている像などありますか。
如来像ではおそらくないと思いますが、明王では牙をむいたものや、威嚇のために口を開いたものもあります。菩薩像でも滅多にありませんが、たしか「歯吹き地蔵」という有名な作品があり、口を開いて歯を出していたと思います。
アマラヴァティーのストゥーパ図は、どれも装飾がびっしりと施されていて、ごてごてしているような印象を受けます。
たしかにそうですね。一般にインドの仏教美術や寺院装飾は余白を嫌います。今回取り上げるアジャンタなどは、「空間恐怖症」とでもいう感じで、壁や天井、柱や梁など、あらゆるところが荘厳されています。日本人にとっては「こてこて」「ごてごて」という印象かもしれませんが、現地で見るといたって自然です。
一世界一仏でいう「世界」の意味がよくわかりません。一世界とは時間的なものですか。空間的なものですか。
物理学や天文学の知識を有しなかった昔の人々も、自分たちが「何か」の中にあるとか、「何か」の一部であるということは、われわれと同じように持っていたはずです。われわれを取り巻くこのようなものを「宇宙」とか「世界」と呼んでいます。それは、空間的なものだけではなく、時間をも含みます。というより、時間と空間を分けて考えるのは、きわめて現代的な発想でしょう。昔の人にとって、時間と空間という区別はあまり意味を持たなかったと思います。ところで、われわれが「知識」として持っている宇宙のイメージは、スペースシャトルから見た地球とか、銀河系の星のかたまりなどでしょうが、これは、われわれ自身の経験によってとらえられたものではなく、映像や写真を通して知ったものです(宇宙飛行士は別にして)。そうすると、われわれの持つ宇宙のイメージは、ひょっとするときわめて貧困で、古代や中世の人々の方が豊潤であったのかもしれません。
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