インド仏教美術の諸相

第10回 カトマンドゥ:ヒマラヤにすむ神々


シヴァやヴィシュヌといったヒンドゥー教の神々が多く出てきていたから、写真を見るときに、もう少しヒンドゥー教の神の種類や上下の位置関係などを知っていた方がわかりやすいように思えた。
たしかにそうです。これまでの授業ではヒンドゥー教の神はほとんど登場しなかったのですが、実際はインドの博物館や遺跡で展示されている像は、ほとんどがヒンドゥー教の神です。シヴァとヴィシュヌはその中でも最も重要な神ですが、授業でも少し紹介したように、彼らはさまざまな姿をとり、さらにそれぞれに名称が付けられています。ヴィシュヌの化身のナラシンハやヴァラーハはその一部です。ヒンドゥー教の神々の世界や図像学は、それ自体が壮大な体系を持っているため、仏教の「ついでに」扱うことはほとんど不可能です。日本語でも次のようなよい概説書がありますので、関心のある方はお読み下さい。
上村勝彦 1981 『インド神話』 東京書籍。
立川武蔵、石黒 淳、菱田邦男、島 岩 1980 『ヒンドゥーの神々』 せりか書房。

図8の雲に乗った人の方に羽根が生えているのがびっくりした。天人の一部なんだろうけど、中国の羽人のようだと思った。いつの時代の絵画か聞きそびれてしまったので教えて下さい。ナラシンハははらわたを引きずり出しているように見えた。神話を一度読んでみたい。マヒシャースラマルディニーの像では水牛がきれいに首を切り落とされている。両方ともとても残酷な像だと思い。けれど、人々の信仰の一部として、罰ということは恐ろしくなければならなかったのだろうと改めて思った。どんな宗教でも罰はとてもリアルに、残酷に描写されているのではないだろうか。それはよいことをしてよい世界の場合も同じだろうけど、恐ろしい世界の方が印象に残る。
 図8の羽のついた人には気が付きませんでした。今、改めてみると、たしかに空中の雲の上に乗っている男性の背中に、羽がついています。出典を調べると、この作品は19世紀のものだそうです。中心に描かれているのは仏教のほとけのひとつで、文殊の一種(法界語自在といいます)ですが、まわりにはヒンドゥー教の神々がたくさんいます。羽のついた人を見ますと、ずいぶんモダンな姿をしているようで、19世紀という成立年代を考慮に入れると、天使のような西洋的なイメージを混入させているようです。神々の中でも、ヴィシュヌの乗物であるガルダなどには羽がついていますが、形態がこれとは異なります。雲の上に人々を置いて、中央の仏に花の雨を降らせるというモティーフは、古くからネパールの絵画にも見られるのですが、これはそれを新しくしたような感じです。
 ナラシンハの神話は上記の文献にありますので、読んでみて下さい。インドの神話の多くは勧善懲悪の単純な筋書きで、悪魔であるアスラを神々が退治するというパターンが多いです。マヒシャースラマルディニーの神話は、平凡社の東洋文庫から和訳が出ています。また、この神話を紙芝居風にしたてた絵画集がネパールに残されています。以前、私が全編カラーで出しましたので、こちらもどうぞ(比較文化の研究室にあります)。宗教と罰の関係はたしかに重要です。また、宗教芸術と宗教の持つ残虐性も密接な関係があります。日本の地獄図などはその典型でしょう。この場合、単に「地獄は恐ろしいところだ」という教訓的な役割を果たしただけではなく、もっとリアルな印象を見る人にいだかせたと思います。以前にも書きましたが、グロテスクなものや怖いものを見たいというのが、人間の持つ基本的な欲求であることも、このような宗教芸術を生み出す要因のひとつです。
小倉 泰・横地優子 2000 『ヒンドゥー教の聖典二編』東洋文庫 平凡社。
Mori, M & Y. Mori 1995 The Devエm敬荊mya Paintings Preserved at the National Archives, Kathmandu. Bibliotheca Codicum Asiaticorum No. 9, Tokyo: The Centre for East Asian Cultural Studies for Unesco.

文献の源流はネパールなのですか。ネパールは仏教美術においてインドほど発展していない気がするのですが、何か理由があるのですか。また、仏塔に目が描かれているのはネパールに独特のものですか。
*仏塔の目については多くの方が印象深かったことを記入していました。
文献の説明は不十分だったようです。前回配付の資料も参照していただきたいのですが、近代的仏教学がヨーロッパではじめられたとき、重要な貢献をしたのが、ネパールで発見されたサンスクリット文献だったのです。仏教学の基本は文献学、つまり、仏教徒が残した文献にもとづく研究ですが、すでにインドにはほとんど仏教文献は残されていませんでした。ところが、インドで成立したさまざまな仏教文献が、カトマンドゥの寺院や僧侶の家に、写本の形で残されていたのです。生きた化石が発見されたようなものです。その中には法華経や般若経のように、われわれ日本人にもなじみの深い大乗経典もあります。ネパールの仏教徒が数百年にわたって、これらを大事に伝えてくれたおかげで、インドの仏教がどのような教えを伝え、どのように発展したかが明らかになったということです。
 ネパールの仏教美術はたしかにインドにくらべると、様式の変化などはあまり顕著ではありません。これは、カトマンドゥ盆地という限られた地域で伝えられたことにもよるでしょう。しかし、授業で紹介した絵画などのあいだでも、作風は明らかに異なります。ヒンドゥー教の図像との交渉も、インド以上にはげしかったようです。また、14世紀頃からは、チベットの仏教美術にネパールの仏教美術は大きな影響を与え、仏師などの人的交流も盛んだったようです。
 仏塔に目を描くのはネパールに限られています。写真からもわかるように、見る人に強い印象を与えるので、ネパールのガイドブックなどでもよく紹介されています。仏塔全体がひとつの仏とみなされ、この仏が世界を視野に治めているというのが一般的な理解です。「法身」という超越的、根源的な仏が仏塔としてあらわされています。また、仏塔以外にも、大きな家などの建造物に両目を描くことは、インドやネパールでしばしば見られます。これは「邪視」(じゃし)を避けるためといわれます。敵意や妬みを持った人々の視線が持つ「力」を、それよりも強力な目によってはねかえすということです。

シヴァ神は舞踏の神様ともいわれているけれども、踊ることというのは何か大切な意味があるのだろうか。「踊るシヴァ神」というのを高校の時、図説で見たことがあるけれど。
踊るシヴァは「ナタラージャ」と呼ばれ、シヴァの造型表現の代表的なもののひとつです。ブロンズ像がインドの入門書などにもよく掲載されています。図像とは少し離れますが、インドにおいて、世界がなぜ存在するのかとか、世界が生み出され、維持されているのはなぜかという質問に対して、「遊戯」(リーラー)という説明が与えられます。世界の根本原理であるブラフマン(後世は人格神になります)が、「たわむれ」に作ったのが世界(宇宙といった方がわかりやすいかもしれません)なのです。シヴァが舞踏をしているのは、絶対者のこの「遊戯」を受け継いだものです。

ネパールの絵画は赤が鮮やかでおどろきました。写真の写りぐあいのせいかもしれませんが・・・。信仰と色の関係について考えるのもおもしろいと思います。日本でも紫は貴い色として、天皇が身に付けていたように、ネパールやインドなどでも色についてのこだわりとかはあるのでしょうか。
仏像や神像に赤い色が付けられているのも印象的であったという方が多かったようです。この赤い色は「シンドゥール」と呼ばれ、インドやネパールの成人の女性も、よく額に付けています。仏像に直接ふれるというのは、インド世界の礼拝方法として広く見られ、その時に、さまざまな供物もそなえます。シンドゥールもそのような供物のひとつです。現在の日本のお寺では「仏像にお手をふれないで下さい」と書いてあったりして、拝むだけしか礼拝の方法はないようですが、昔は直接触れることがもっと多かったでしょう。「聖なるもの」に触れることは、聖なるものの力を受け取るための基本的な方法です。今でも、病気の治癒に霊験のある仏像などは、患部などを直接触れて、祈ることができたりします。色については、たしかにさまざまなシンボリズムや歴史的な背景がありそうなのですが、具体的な例が思いつきません。民族学などで色彩研究があると思うのですが・・・。

冬休みに京都に行きました。国立博物館にレンブラント展を見に行ったんですが、常設展でたくさん仏像を見ました。インドのものもたくさんありました。博物館に展示されてる仏像は、展示品のひとつという感じであまり仏像らしい感じがしませんでした。そのあと広隆寺に行ってそのことに気づきました。やっぱり仏像はお寺でお供え物を前にしている姿が一番しっくりしますね。広隆寺の千手観音、すごくかっこよかったです。もともと、千手観音は大好きなんですが、今まで見た中で一番素敵でした。ところで守門神というのは、東大寺の金剛力士像とか神社の狛犬とかと同じように、入口に付き物なんですか。いつも同じ神様ですか。
いろいろ経験されてよかったですね。レンブラント展は私も12月に見に行きました。なかでも「目を潰されるサムソン」は、画集などでは見たことがありましたが、実見ははじめてで、迫力がありました。仏像を博物館で見ることと、本来の寺院の中で見ることの違いは、おっしゃるとおりです。まわりの雰囲気が違うといってしまえばそれまでですが、宗教芸術がつねに「場」と密接なつながりを持った存在であるということなのでしょう。そのような「場」から切り離された仏像は、本来持っている「気」のようなものまで、失われてしまうようです。守門神はたしかにいろいろなところで見られますが、名称や形態は様々です。次回のインドネシアでもユニークな守門神を紹介します。このように内部を守る神格が入口に置かれるのは、宗教施設が「結界」を必要とするためでしょう。前とのつながりからすれば「場」のもつ「気」を保つための重要な存在だからです。

チャング・ナラヤンはとてもきれいだなと思いました。中には入れないということでしたが、どのような感じになっているのですか。ヒンドゥー教はよくわかりませんが、中には本尊があって、僧が修行をするんでしょうか。また、ジャナバハ本堂とありましたが、本堂ってことは、講堂とか金堂とかもあって、伽藍配置みたいなのがあるのですか。賢劫十六尊に月光はいましたが、日光はいなかったのが気になりました。別の名であらわされていたのでしょうか。二つは対でいうことが多いのでは。
チャング・ナラヤンの中は私も見ていないので、よくわかりません。おそらくヴィシュヌの神像が祀られているのでしょう。ラクシュミーなどのヴィシュヌの眷属の像もあるかもしれません。ヒンドゥー教のこのような寺院は、基本的に礼拝や儀礼の空間であるので、修行はしなかったででしょう。ジャナバハについては、伽藍というほどではありませんが、複数の建造物のコンプレックスとなっているので、本堂と呼んでいます。回廊状の建造物(ムシュヤバハで見たような)の中庭に、3層の寺院(これが本堂)が建っていて、そのまわりに祠堂や仏塔が建てられています。賢劫十六尊は金剛界マンダラなどにあらわれる16の菩薩で、月光はいますが、たしかに日光はいません。よく似た名前で甘露光(あるいは無量光)という菩薩がいます。日光と月光は不空羂索観音の脇侍として、日本では作例が多くありますが、インドやネパールではこの組合せはないようです。賢劫十六尊については昔書いた論文があります。
森 雅秀 1993 「賢劫十六尊の構成と表現」『宮坂宥勝博士古稀記念論文集インド学密教学研究』 法蔵館、pp. 909-937。

前前回のプリントで、仏教を含むタントリズムが持っている四つの要素があげられていましたが、そのまま密教の持つ要素と考えてもよろしいでしょうか。一般向けの仏教書などを読みますと、「密教的」という語がときどき出ていたりして、何となくイメージとしてわかったように思っていますが、どのように解釈したらよろしいでしょうか。たとえば、日本の曹洞宗が室町時代に地方に教線を拡大したときに、「密教的な要素を取り入れて布教した」というように記述されています。
密教を含む独特の宗教形態を、タントリズムという名称で呼んでいます。四つの要素は密教に含まれていると理解していただいてけっこうです。インド的な文脈でいえば、密教は仏教でありながら、いろいろな面でヒンドゥー教と共通する点があります。図像の体系や儀礼もそうですが、哲学的にも、古代インド以来のウパニシャッド的な考え方が濃厚です。私の先生の一人は「密教はヴェーダーンタです」とおっしゃっていました。ヴェーダーンタとはウパニシャッドの梵我一如の思想を継承した、インドの正統的な哲学の学派の名前です。例としてあげておられる「密教的」というのは、おそらく日本仏教の流れの中での用例で、現世利益的で、加持祈祷をもっぱらとするということで使われているのではないかと思います。

前回のプリントでチベットのマンダラの一番外側に当たる円の部分(外周部)は、日本のマンダラには含まれていないとのことですが、完全に消失してしまったのでしょうか。それとも胎蔵界マンダラを見ますと、最外縁部に廊下のような帯の部分がありますが、そこに何らかの形で残ってはいないのでしょうか。外周部は火炎輪、金剛杵輪、蓮華の花弁と呼ばれる仏教の説く宇宙観を反映しているということですので、完全に消えてしまうのは、なんだか惜しいような残念なような気がするのですが。
外周部は日本のマンダラでは、やはり表現されていないようです。金剛界も胎蔵も、チベットのマンダラでは楼閣にあたる部分のみが表現されています。四方に門があることなどから、それは確認できます。外周部そのものは、インドの文献を見ると、インドでも描いていたようですが、そこをマンダラの一部とみなしていたかはよくわかりません。というのは、文献を網羅的に見ていると、楼閣のみをマンダラと呼び、その外側は結界のような扱いだったようです。マンダラの一部が落ちて日本に伝えられたと見るより、インドやチベットではマンダラの周囲の部分までマンダラに含めて伝えたということのようです。もっとも、この部分を理解するためには、仏教の宇宙観や、そもそもマンダラが仏たちの世界図であることを知る必要があることにはかわりがありません。マンダラの形態については私の『マンダラの密教儀礼』でも説明していますが、以下の論文でも変遷を詳しく見ています。
森 雅秀 1996 「マンダラの形態の歴史的変遷」立川武蔵編『マンダラ宇宙論』法蔵館、pp. 101-124。


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