インド仏教美術の諸相

第9回 ベンガル:密教美術の精華


「熊野本地仏曼荼羅」や「立山曼荼羅」などの日本の曼荼羅が興味深かった。叙景型がなぜ密教以外の仏教と関連するのかいまいちわからなかった。
叙景型がなぜ密教以外の仏教と関連するかについては、授業では説明しませんでした。歴史的に見て、日本で「曼荼羅」と呼ばれるものが、インドやチベットのマンダラとずいぶん異なるものであることはたしかで、なかでも参詣曼荼羅や神道曼荼羅はその代表的なものでしょう。参詣曼荼羅では説話的な要素が主要なモティーフとなりますが、このような要素は本来マンダラとは相容れないものです。インドやチベットのマンダラには、説話的な要素や情景はまったく含まれません。むしろ、サーンチーのトーラナに描かれた仏伝図や、アジャンタの壁画に見られたジャータカ図と、これらの参詣曼荼羅とは共通するような印象を受けます。神道曼荼羅が日本的なものであるのは当然ですが、その背景には「本地垂迹説」のような、ことなる宗教の神々の体系を結びつける独自の思想があります。一方、マンダラが本来有していた「宇宙図」的な原理は、日本人にとってほとんど理解不能であったものです。日本人の宗教観や他界観は、このようなマンダラの世界観とはずいぶん異なります。最も決定的なのは、日本の仏教は「世界」とわれわれの関係を問題にしなかったことです。そのような状況でマンダラを取り入れても、それは単なる仏の集合図でしかありません。マンダラとは複雑な構図の仏画という程度の理解であったのでしょう。いずれにせよ、日本におけるマンダラの受容と変容は、日本の宗教や世界観と密着に関係する重要な問題です。

パハルプール遺跡は形的に山のようだと思ったけれど、わざわざあのような形で作ったのか、それとも山(岩?)をくりぬいて作ったのだろうか。
パハルプールの僧院は平地にあるので、人工的な建造物です。もともとはかなり高い塔がそびえて、その四方に大規模な祠堂のようなものがあったようです。現在の遺跡は発掘が進められ、整備されたもので、それ以前は中央部以外はほとんど土に埋もれていたでしょう。パハルプールはバングラデシュの代表的な遺跡で、世界遺産にも登録されています。ラジシャヒという町から車で3時間ほどのところにあり、観光客も訪れます。インドではナーランダーやヴィクラマシーラなどがこれと同時代の仏教僧院跡です。いずれも大規模な建造物で、実際に間近に見ると圧倒されます。

「密教」とは「秘密仏教」のことだと聞いたことがあります。「秘密」ということばに不思議な魅力と怖さを感じます。「秘密」というのは何がどのように「秘密」なのでしょうか。
「密教」は「顕教」と対になる言葉です。大乗仏教までの仏教を顕教と呼び、これよりもすぐれた教えであることを「密教」という言葉で表現しました。ややこしいのは、インドでは「密教」に相当する言葉はなく、「真言乗」(mantray系a)や「金剛乗」(vajray系a)という呼び名があっただけのようです。つまり、密教とは日本仏教に固有の名称なのですが、逆にこれを用いて「インド密教」や「チベット密教」という言葉をわれわれは用いています。それはともかく「密教とは何か」「密教とは何を秘密とするのか」というのは難しい問題です。その言葉の通り、「教え」が秘密であるということもできますが、思想史的に見て、密教は大乗仏教、とくに中観と如来蔵とに大きく依拠して、それを越えるものではありません。実践や儀礼、儀式が秘密という見方もできます。ただし、宗教というものは程度の差こそあれ、かならず「秘密」を持つものです。キリスト教でも「秘儀」や「秘義」という言葉があります。密教については最近入門的なシリーズが出ましたので、参照して下さい(比較文化の研究室にそろっています)。
立川武蔵・頼富本宏編 1999〜2000 『シリーズ密教』全4巻 春秋社。

高校生がいっぱいいて緊張した。
わたしも制服を着た学生がいると緊張します。どういうわけか、この木曜3限というのは高校生の大学見学によくあたる時間帯で、10月にもありました。文学部の場合、演習以外の授業は原則として公開することになっていて、どの授業を選ぶかは高校生の希望です。来ているのは1年生や2年生なのですが(3年生は今頃そんなことをしているわけはないので)、いったい授業の内容をどの程度理解できているかは、やっている方にとってもはなはだ心もとないところです。

だんだん女尊が増えてきて、しかも重要な地位を占めるようになってきたと思います。このことは、現実の社会でも女性の地位が向上したり、とかはあったのでしょうか。僧の修行の場に女性も現れるようになったのでしょうか。そうだったらおもしろいと思いました。
はじめの質問については前期の教養の授業でも同じような質問があったので、その時の答えを転載します。
「密教の時代はインド全体で女神信仰が興隆してきた時代です。ヒンドゥー教でもドゥルガーやカーリーという「大女神」が登場し、人気を集めています。女神信仰はインドの基層文化のひとつと考えられ、たとえばインダス文明でも、多くの女神が信仰されていたようです。これに対し、紀元前1500年頃に北西インドから侵入し、インドにおいて支配的な勢力となったアーリヤ人たちは、男神を中心とした神々の体系を有していました。中世インドの女神信仰の興隆は、インド本来の女神信仰の復活でもあったのです。当時の社会的な背景がこのような復活と関係があったかはわかりませんが、当時の女性の社会的な地位は決して高くはなかったでしょう。また、女神崇拝がさかんな文化で、必ずしも女性の地位が高いわけではありませんし、女神信仰を支えていたのが女性であったわけでもありません。むしろ母系社会であるなどの別の社会的要因を考える必要もあるでしょう。」
後半の質問はその通りで、密教の修行法の中でパートナーとして女性を必要とするものがあらわれます。その場合の女性はいわば「道具」として用いられたようで、これもけっして女性の地位が向上したからではありません。ただし、その中でも男性と対等の立場で実践を行った女性の修行者の名前がわずかですが知られています。その伝統はチベットのカギュ派などでも受け継がれています。

曼荼羅図の絵解きをすることがあるという話を聞いたことがある気がするのですが(勘違いかもしれません)、曼荼羅図は説明がないと何をどのように表現しているのかわかりづらい複雑なものだという印象を受けました。
ご質問の通り、日本の曼荼羅は絵解きとしばしば結びつきます。たとえば和歌山県の「那智参詣曼荼羅」や富山県の「立山曼荼羅」は、勧進の聖が日本の各地で絵解きをして、参詣者を募ったそうです。今ならば、観光地のPRをするためのビデオなどの映像資料にあたるでしょう。宗教図像と絵解きなどのパフォーマンスの関係は、日本以外でも一般に見られます。ただし、インドの場合、マンダラが一般の参拝者に絵解きされることはありませんでした。マンダラの持つ機能が日本とはまったく異なることや(これについては先回の配付資料を参照)、絵解きに必要な説話の要素がインドのマンダラにはまったく含まれないことが、その大きな理由でしょう。日本を中心とした絵解きについては「絵解き研究会」というのがあり、『絵解き研究』という学術誌も出しています(本部は奈良女子大学)。

叙景型曼荼羅というものは曼荼羅のカテゴリーの中に入れてしまっていいのですか。ただ仏のいる景色を描いた絵と、どう区別していいのでしょうか。「曼荼羅」はもっと記号的要素の強いシンボリックなものだと思っていましたが。たしかに宇宙図型にせよ、叙景型にせよ、仏の世界をイメージさせるものなのでしょうが。叙景型はなんだか混じりものでも入ってしまったような、宇宙を表す記号としての曼荼羅の純粋さが失われてしまった気がします(だいたい、終南山なんか道教の話ではないのか)。世界をああした象徴的な形で表せる「曼荼羅」というものはすごいと思っていただけに、曼荼羅は曼荼羅、絵は絵として区別して欲しいです。
おっしゃることはわかりますが、歴史的に見て日本の仏教が独特の「曼荼羅」のカテゴリーを作ったのはたしかです。そして、それがどれだけインド本来の「マンダラ」からかけ離れたものになったにせよ、現在の日本の「曼荼羅」や「マンダラ」という言葉の使われ方を見ていると、それがむしろ一般的であることを感じないわけにはいきません。(テレビのタイトルや週刊誌の見出しに見られる「マンダラ」は、たいてい「雑多なもの」というニュアンスで使われています)。われわれが対象としている宗教は、歴史的な背景を有するものなのですから、「こうあるべきだ」と考えるよりも「こんなこともあったんだ」と見る方が妥当だと思いますし、その方がおもしろいのではないでしょうか。例としてあげている星曼荼羅も、インド、中国、日本の宗教が一堂に会しているようで、興味深いものです。以下のような研究もあります。
武田和昭 1995 『星曼荼羅の研究』法蔵館。

マンダラと一口にいってもたくさんの種類があるものだなと思った。自分は富山出身なので立山マンダラはかなり興味を引かれた。たしかに立山の中の地名には地獄谷や弥陀ヶ原など、仏教に関するものが多いので、昔の人は立山を聖なるものとしてとらえていた証拠だと思う。寺社をモチーフにしたものもあったので、やはりそのような土地が題材になりやすいのだなと思った。
立山曼荼羅は日本の参詣曼荼羅の代表的なもののひとつです。私も一昨年の秋に富山県[立山]博物館にはじめて行き、立山を中心とした信仰世界にとても興味を覚えました。なかでも「姥堂」の不気味な姥像群には強い印象を受けました。また、布橋灌頂という儀礼が行われていたことを知り、密教儀礼の灌頂が人生儀礼として受容されていることにも驚かされました。富山県[立山]博物館は金沢からそれほど遠くないので、一度足を運ばれるといいでしょう。展示の内容も高レベルです。

インドの仏像は地面に埋まっているものなんですか?仏像って発掘するものではなくお寺に普通に置いてあるものだと思いっていました。今やっている仏像などは何世紀くらいに成立したものなんですか?ヒンドゥー教と対立しなかったんですか?ヒンドゥー教の神様を踏んづけている作品がありましたよね。
インドでは仏教そのものが13世紀頃で滅んでしまったので、寺院も崩壊してしまいました。そのため、その中にあった仏像も多くは土中に埋もれてしまうことになります。現在、博物館などに展示されている仏像は、ほとんどが発掘品です。パーラ朝期(7世紀〜12世紀頃)の仏像は黒玄武岩という固い素材が用いられることが多いので、土中にあってもよく保存されていました。また一部の像にヒンドゥー教の寺院にまつられていたものがあります。仏教とヒンドゥー教との関係ですが、当時の仏教の勢力は、ヒンドゥー教にくらべて微々たるもので、対抗手とはなりえなかったようです。仏教側が一方的にヒンドゥー教を「仮想敵国」にしていたようですが、実際には仏像の図像の特徴は、ヒンドゥー教のイコンに大きな影響を受けています。ヒンドゥー教徒が仏像をヒンドゥー教の神の像として祀るのも、理由がないわけではないのです。

立体的なマンダラ、とくに金剛ターラー・マンダラがとても素敵でした。こういう風にも宇宙を表しているなんて、絵のマンダラも神秘的ですが、それとは違った意味で壮大な感じがします。とても気に入りました。
金剛ターラー・マンダラのような立体マンダラがインドでいくつか残っています。絵画としてのマンダラがほとんど残っていないインドでは、貴重なマンダラの作例です。また、チベットでも類似の作品が制作されています。なかの仏たちにはいろいろな種類がありますが、全体がハスの蕾をかたどっていることが共通です。マンダラ全体がハスの花であることが強く意識されていることがわかります。花弁の数は8枚で、それぞれに1尊ずつ仏像が取り付けられているので、中尊とあわせて9尊で構成されることになります。実際のマンダラにはさらに多くの仏が含まれることが多いので、その一部を取り出して作っていることになります。立体マンダラはチベットでは実際にマンダラの楼閣を木材や金属で作って、その中に小さな彫像を安置したものがよく知られています。日本では東寺の講堂がしばしば立体マンダラと呼ばれますが、これはマンダラそのものを立体的に表現したものではなく、マンダラに登場する仏の像を、幾何学的に配置した尊像群と言った方が適切です。空海自身はこれを「立体マンダラ」やそれと同じ意味の「羯磨マンダラ」とは呼んでいません。立体マンダラというのは後世の人々の解釈にすぎないようです。

叙景マンダラははじめて知りました。聖なるものとの関係ですが、ひょっとして自分を中心に置くものはありますか。たとえば数枚のパネルにマンダラを描き、見る人がその中心に立つとか。
インドではマンダラは装飾モチーフのようには扱われなかったので、寺院の壁画などとしては描かれなかったのですが、チベットでははやい時代から壁画のマンダラがあらわれます。ラダックのアルチ寺三層堂のものなどが有名です。中央チベットでもギャンツェのペンコルチューデ仏塔という建物では、内部が複数のマンダラで荘厳されています。これについては次回取り上げる予定です。日本でも類似の展開があります。日本では胎蔵と金剛界の2種のマンダラが圧倒的に重視されたため、この二つが対になるように用いられました。密教寺院の内陣には、左右の壁にこの2種のマンダラが向かい合わせになるようにかけられています。これは空海が中国で学んできたことのようですが、本来マンダラとはそれひとつで「全体」を表すので、二つが一組で完全というのは矛盾するはずです。しかし、日本密教は金剛界と胎蔵をあわせて「金胎不二」と呼び、教理体系の根幹におきます。そのため、さまざまな現象が二項対立的に扱われることになります。


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