インド仏教美術の諸相
第7回 アジャンタ:石窟寺院の荘厳
個人的に仏像の中でもさまざまな天のものが好きです。とくに四天王、十二神将が好きなのですが、武士のような格好はインドっぽくないように思うのですが、日本で発展した姿なのでしょうか。
四天王はインドの文献にも作品にもありますが、甲冑を付けた姿は、中央アジアと中国で成立したようです。とくに北方の毘沙門天(多聞天)は、本来財宝の神で、単独でも信仰されました。日本には兜跋毘沙門天の名でいくつも作例があり、なかでも東寺のものは有名です。これは唐から請来されたと伝えられています。十二神将はインド風の名前が付いていますが、インドまではさかのぼれないようです。十二神将は薬師如来の眷属ですが、薬師そのものもインドには作例がありません。病気平癒の仏なので、日本では人気が高い仏です。十二神将は奈良の新薬師寺のものが有名です。
田辺勝美 1999 『毘沙門天像の誕生 シルクロードの東西文化交流』吉川弘文館。
アジャンターの石窟寺院が川のまわりに存在するとは知らなかった。あと、なんで全部、僧坊窟タイプにしなかったんだろうと思った。チャイトヤ窟を作ったのは単に僧坊窟を作るのが面倒だったのだろうか。アール・ヌーヴォーの話があったが、たしかに似ているなと思った。
僧坊窟とチャイトヤ窟は仏教寺院の基本的な2種の建造物に対応しています。バールフットやサーンチーのように、最初期の寺院にもストゥーパがあります。現在は残されていませんが、僧院がそこにあったのであれば、僧房、つまり僧侶(比丘といいます)が寝泊まりする建造物が必要です。これまで取り上げたガンダーラやアマラヴァティーなどでも同様です。石窟寺院は山腹に窟を穿つという得意な制作方法を採りますが、その形態は、じつは通常の建築物を模しています。また、チャイトヤ窟が比丘のものだけではなく、一般の信徒の礼拝の場所であったことも、通常のストゥーパと同じでしょう。仏教教団とは基本的に社会に依存して生きていかなければなりませんので、一般の信徒との交流が僧団に不可欠でした。それは現在の東南アジアやチベットの仏教でも同様です。
孔雀明王は女尊だそうですが、明王の中にも女尊がいるのですか。孔雀明王も准提観音も女性には見えなかったのですが。「相」のためですか。
孔雀明王や准提観音は、インドでは明王や観音ではなく女尊として崇拝されていました。いずれも「陀羅尼」と呼ばれる呪文と関係する仏です。孔雀明王は毒蛇よけ、あるいは毒蛇の毒消し、准提は修行者を力づける働きのある呪文と関係があります。これらの呪文を唱えて、特定の儀式をするときの「本尊」のような役割を果たしていたと考えられます。日本には「女尊」という部類がなかったため、それぞれ既存の明王や観音のグループに配属されたようです。外見的にはいずれも日本では女性的ではありませんが、インドでは明瞭に女性の姿で表されます。もともとの明王のグループには女尊はいませんが、インドヤチベットの密教には、多面多臂や恐ろしい姿の女尊もいます。
何かの美術の本で青不動、赤不動、黄不動の絵を見たことがありますが、こういう色の違いの不動明王は、その色によって働きの上で特別の違いでもあるのでしょうか。石窟の奥にある仏塔の前に仏像が置かれていたのに興味があります。こういう形を経て、仏塔への礼拝が仏像への礼拝に変化していったと考えるのは、うがちすぎでしょうか。
前半のご質問の不動については、あげておられる3種の不動は日本の不動の絵画の代表的なものです。青不動は京都青蓮院、赤不動は和歌山高野山の明王院、黄不動は滋賀園城寺にそれぞれ伝わるものです。色についてはさまざまな説明がありますが、重要なことは、これらが「感得」という密教固有の宗教体験によって得られたイメージであることです。密教の図像は通常、経典や儀軌などに細かく規定されているのですが、感得像は高僧や行者が、宗教実践や夢の中で直接、目にした像を再現したものといわれます。いったん、このような像が成立すると、それが権威あるものとなるため、規範的な像となります。そして多くの「コピー」を生み出すことになります。不動にはとくにこの感得像が多く、日本における明王信仰の特異な点となっています。仏塔への礼拝と仏像への礼拝については、たしかに仏塔に仏像を組み合わせるかどうかが重要です。アマラヴァティーではストゥーパ図の荘厳として仏像が登場しましたが、実際に仏塔の周囲に仏像を安置したかはわかりません。アジャンターやエローラでのチャイトヤと仏塔の関係は、のちの密教の仏塔と四仏の関係にもつながり、注目されます。密教については次回以降に取り上げる予定です。
今日の日本史の特殊講義で、琵琶湖の北には観光ツァーができるくらい、立派な観音像がたくさんあって、多くが「村落」が伝えていたものだとか聞いたのですが、どんなものがあるのでしょうか。
滋賀県の北東部の伊香郡には、平安初期の観音像が数多く残されています。十一面観音が多いようです。授業で紹介した向源寺の十一面観音は、その中でも特に有名で、観光バスをしつらえて多くの参拝客が訪れます。このお寺は地元では「渡岸寺」(どうがんじ)と呼ばれています。二つの寺格があるようです。高月町という町が中心で、JR北陸線の高槻駅から行くことができますが、少し不便なところにあります。それ以外のお寺については私もよく知りませんので、調べてみて下さい。今ならインターネットなどでもわかると思います。次のものは写真集です。
石元泰博撮影 佐和隆研, 宮本忠雄解説 1982 『湖国の十一面観音』岩波書店。
アジャンタの装飾はあまり説話的なモティーフではありませんね。今までのものとは寺院の用途が異なるからでしょうか。
先回のスライドは装飾モティーフを中心に紹介したので、説話的なものはありませんでしたが、壁画は説話が中心です。これまでと同じように釈迦の仏伝やジャータカの壮大な絵が描かれています。第一窟、二窟、17窟などがとくに有名です。天井や石窟の入り口のあたりには説話的な要素がほとんどありません。石窟寺院の中でも、説話的なモティーフが現れる場所と、装飾的、あるいは礼拝像的な要素が見られる場所は、違ったようです。寺院内の装飾プラニングは、寺院の機能やシンボリズムを考える上で重要な要素となりますので、いろいろ考察してみて下さい。
菩薩の中でも観音が人気があるとおっしゃっていましたが、「人気がある」というのはいったいどういうことですか。というして人気があるのでしょう。
美術の面からいえば、作例数が多いとか、作例数が少なくても寺院の中で重要な位置に安置してあるということが考えられます。文献の場合は、実際に経典や物語の中ではなばなしく活躍するとか、各地に伝播しているなどの場合、人気があったといえるでしょう。時代によって人気が大きく代わることもあります。たとえば、ヴェーダの時代には、もともとミトラやヴァルナという神が高い地位を誇っていたようですが、かれらはヒンドゥー教の時代には凋落してしまいます。インドラやアグニの人気も同様で、ヒンドゥー教では護方神といって、方角を守る神(警備員のようなもの)になってしまいます。神話学でよく言われることですが、世界中の多くの神話ではじめに人気があるのは天空や太陽の神ですが、これらはすぐに別の神に人気の座を奪われて、「忘れられた神」になってしまいます。
仏像が理想の男性像だという話が意外でした。ギリシャ神話の神々を思い出して、納得するとともに、欲を捨てて修行する場に、容姿への欲求が入り込んでいいのかという気もしました。(しかし、東寺講堂の帝釈天のかっこよさを見て、それでもいい気がしました・・・)
崇高さはしばしば美と結びつきます。聖なるものをどのように表現するかは、時代や地域、民族でさまざまですが、完全無欠、美の極致として描こうとするのが、ひとつのあり方で、しかも普遍的なものでしょう。しかし、その一方で、グロテスクなものやいびつなもの、欠陥があるものなども、聖なるものの表現としてしばしば見られます。これらは矛盾する考えのようですが、普通なもの、ありふれたものの逆を求めるという点では、方向が違うだけで、同じようにとらえることができるかもしれません。東寺講堂の尊像群は、平安初期の密教美術の代表作というだけではなく、日本の仏教美術のひとつの精華ですので、一度、直接御覧になるといいと思います。その迫力に驚かされます。
アジャンターの石窟寺院の地形を見て、おもしろい場所に作られているなと思いました。川の流れがUの字で、石窟がきれいな弧を描いた感じで、石窟を作る場所を厳選して作ったようだ。天井の絵画がとても鮮やかで、仏教美術というより、キリスト教美術みたいなイメージを受けた。仏教美術は仏などの絵ばかりな印象を受けていたので。マンダラとかではなく天井に円形なデザインが多いのに、キリスト教の教会の天井を思い出した。
アジャンターは比較的行きやすいところにありますので、インドに行く機会があれば、訪れるといいでしょう。アジャンター、エローラで1週間ぐらい使うと、かなりゆっくり見られます。天井装飾や柱の装飾は、アジャンターの美術の魅力のひとつです。インドの仏教美術には絵画がきわめて少なく、その中でアジャンタは例外的に多くの作品に恵まれています。同じ西インドの石窟でも、この他ではピタルコーラーに少し残っている程度です。絵画も彫刻と同じように制作されたはずなのですが、保存が困難だったのでしょう。キリスト教も含め、宗教美術において装飾は、聖なる空間の創出という点で重要です。偶像崇拝を禁ずるイスラム教でも、イコンを作れない分、モスクなどの装飾は徹底して行われます。アジャンターの天井の円形装飾は、そのままではマンダラとは無関係のようですが、エローラには密教的な要素があるので、ひょっとすると何か影響を与えたのかもしれません。蔓草などの植物のモティーフは、チベットのマンダラではよく見られます。
石窟のうち、チャイトヤ窟は礼拝できる寺院、ヴィハーラ窟は実際に僧が住んで、修行ができる寺院という役割をそれぞれ持っていたと解釈してよいのでしょうか。たいへんな労力だっただろうに、なぜ岩などをくりぬいたのでしょうか。そういえば、インドの寺院といえば、石造りのイメージですが、たとえば、石窟→石造りの寺院という風に、建築様式が変化したということなのですか。それとも石窟寺院であるからこそのメリットがあるのでしょうか。薄暗い洞窟の中は、荘厳さを強調できる環境な気がしますが。
石窟の二つのタイプの機能はそういうことでいいと思います。石窟寺院の建築様式ですが、意外かもしれませんが、実際の寺院建築を石窟内で模倣しています。とくに、木造寺院建築がそのモデルだったようです。石窟寺院としては必要のない梁や柱があるのはこのためといわれます。洞窟というと陰鬱な印象を受けますが、アジャンターにしろ、エローラにしろ、内部は気温や湿度が一定で、むしろ快適な空間だったようです。光を採ることができれば、生活するのにまったく問題はなかったでしょう。また、瞑想や修行をするためには、むしろ石窟のような環境が優れていたと思います。そういう点では、石窟寺院は多くのメリットを持っていたようです。
地蔵が救済されるものの形であることをはじめて知った。地蔵は輪廻のイメージがあるといっていましたが、地蔵の役割は何ですか。地蔵も菩薩なのですか。
救済するものが救済されるものの姿をとることは、観音など他のほとけにも見られます。地蔵は菩薩の一人ですが、インドでそれほど信仰された形跡はありません。八大菩薩というグループのなかの一尊にあげられますが、単独の作例は見あたらないようです。地蔵信仰が発展したのは中国でしょう。現世利益と地獄抜苦が中国や日本の地蔵信仰の基本だったようです。日本では末法思想や十王信仰(これも中国起源)と結びついたり、今昔物語や日本霊異記などの霊験説話として民間に流布したようです。道祖神や童信仰などの民間信仰との関係もあるでしょう。地蔵は比較文化の清水先生のご専門なので、そちらの授業でみっちり勉強できると思います。
他の講義で宗教の発展段階説というものを聞きました。それによると、宗教はアニミズム、多神教、一神教というように発展していくということです。これに当てはめてみると、仏教は多神教に当たりますが、仏教は世界中に布教されている大宗教なので、一神教が必ずしも発展の最終形ではなくて、この発展段階説というのは、西洋的な偏った見方でしかないと思った。
ご指摘の通りで、「宗教発展論」は最近はあまりはやりません。仏教についていえば、基本的に無神論です。釈迦も神ではありませんし、一神教的な神を認めることもありませんでした。大乗仏教や密教の時代でも、無数の仏がいても、実際は一人の仏しかいないとか、それは仏ではなくて、真理なのだという説明をすることがあります。しかし、実際に仏教のパンテオンは存在しますし、人々の信仰の対象でもありました。同じようなことはキリスト教でもイスラム教でもあるでしょう。分類や進化論的な解釈は、対象を整理することには役に立ちますが、逆に固定した見方を生むことにもなります。
降三世明王に異教の神がふまれているスライドがありましたが、おそらくヒンドゥー教の神とのことでした。ヒンドゥー教の神は仏教において天という界の住人に組み込まれているんだと思っていましたが、そうじゃない神様もいたのでしょうか。また、平安時代の作品のようですが、そのころ、この足下の神はどのような神だと認識されていたのでしょうか。天竺の神様?いやそんな・・・
降三世明王が踏んでいるのは、マヘーシュラヴァラとその后ウマーです。マヘーシュヴァラは大自在天と訳されますが、シヴァと同体と考えられています。この降三世明王の姿は『真実摂経』という密教経典に説かれていて、その中では、降三世明王による大自在天降伏の物語も説かれています。インドにも降三世明王の浮彫が数点残っていて、その姿は東寺のものに驚くほどよく似ています(大自在天とウマーは、東寺のものは中国風ですが)。密教の仏像は経典などの文献にその姿が詳しく描写されていることが多いので、インドのイメージがかなり正確に伝わっています。詳しくは私の『インド密教の仏たち』の最後の章をお読み下さい。
弥勒は救済者であると同時に、とても恐ろしくもあると聞いたことがあるのですが、そのような弥勒の像は存在するのでしょうか。また、文殊=大威徳のように弥勒も明王の形をとるのでしょうか。今回の資料の質問の中に、仏教は釈迦族の有していた宗教で、釈迦はその改革者にすぎないという論もあるということをはじめて知りました。たしかに極論だと思いますが、その論者は何を根拠にしているのか興味があります。仏教も含め宗教というのはすごく体系だっていたり、細部までとてもよくできているなと思いました。教えというか、一番大切なことはその中の本の一部なのに、それをわかりやすく否定されないために、いろいろなことを説明づけていて、そのために矛盾が出たりもするけど、それも含めてとてもおもしろいなと思います。私は信仰は持っていないんですけど、信仰を持つ人が仏像などを見ると、私とは違うものが見えているのかなと疑問です。宗教ってよくわかりませんが、信仰心からいろいろな素晴らしい宗教美術が生まれたと思うと、すごいなと思います。
弥勒の畏怖相のようなものは私も知りません。文殊は魔を撃退するというはたらきも持っていたようで、忿怒相をとらなくても恐れられていたようですが。典拠などがわかりましたら教えて下さい。釈迦族の宗教としての仏教については、かつて宮坂宥勝先生から授業の中で聞きました。おそらく『仏教の起源』(初版は山喜房仏書林、法蔵館より改訂版)の中でそのようなことをお書きになっているのではないかと思います。パーリ語の文献をおもに用いていると思います。宗教についてはまったくその通りです。私の授業では哲学や思想にはほとんどふれていませんが、仏教の思想はとてもよくできていますし、現代でも十分通用するものだと思います。だからこそ、二千五百年以上も生き続けることができたのです。日本人には宗教はわからないとか、宗教はこわいという通念がありますが(とくにオウム真理教以来)、それは宗教について知らないことの裏返しでしょう。信仰は個人レベルの問題ですが、知識や文化として宗教を知ることは、現代を生きる上では重要だと思うのですが・・・。
アジャンター第一窟の守門神は法隆寺の観音菩薩立像の元になったそうですが、日本に伝わっていく中で、像の意味が変化していったのでしょうか。それとも型をまねただけなのでしょうか。
授業でもお話ししたように、アジャンターの守門神は法隆寺の観音とよく似ていることが、古くから指摘されてきました。法隆寺をはじめ飛鳥時代や天平時代の日本には、大陸の文化の影響が顕著です。インドの要素が入って来てもおかしくないのですが、様式上の関連があることを証明するためには、それをつなぐ作例や、伝播した積極的な理由などが必要です。似ているからといって簡単に「元になった」とは言えないところがむずかしいところです。また、仏像などが伝わるときには、本来の意味や名称がそのまま伝わるばかりではありません。イメージのみが伝わり、新たな意味が与えられることもしばしばあります。一般に、意味よりもイメージの法がインパクトがあったと思います。
アジャンター第19窟の入口に同じような仏像が何体も掘り出してあるのはどうしてなのだろうか。仏像は奥に1体かざるものというイメージがあったが、ここでは装飾のモティーフになっているようだった。
石窟の内部にも当然仏像があり、とくに中央のものはその石窟の本尊の役割を果たしています。それ以外にも仏像を刻むところに、大乗仏教特有の「多仏」信仰を見ることができるような気がします。19窟入口の装飾はアジャンターでもとくに有名ですが、他の窟にはこのような装飾がないのが普通です。仏像も含め、装飾全体に特定のプランがあったことも予想されますが、明確な解釈は与えられていません。上簿の左右に立つヤクシャ像などは、造形的にも優れています。
スライドを通して仏教美術において、あるモティーフがインドから中国を通って日本にまで伝わってきたということがよくわかり、おもしろかった。日本などには残っている地獄図が本家本元であるインドにはほとんど残っていないのが不思議だった。
地獄図は日本で好まれた仏教絵画の主題のひとつですが、これは「怖いもの見たさ」という感覚のような気がします。以前、授業でもお話ししましたが、静穏な浄土図などと違い、苦悶にあえぐ人々や屈強で残虐な獄卒(鬼)などは、画家の腕の見せ所だってのでしょう。インドに地獄図が残っていないのは、失われた可能性もありますが、それ以上に、芸術に対する感覚の違いといってもいいと思います。死体や血などはインドでは不浄なものとして、儀礼などの宗教的な場面で極力排除されます。仏像のような宗教図像でも同様で、ガンダーラなどにある釈迦苦行像のようなモティーフも、インド内部には見あたりません。釈迦のやせ衰えた姿でさえも、忌避されたのです。そのような中で、輪廻図や白骨図があるアジャンターの壁画の持つ意味は、とても重要なのです。
前回のプリントで「不浄観」の項を見て、無常を観ずるためとはいえ、こんな気持ちの悪い観法があり、しかもかなり重要なものらしいと知ってびっくりしました。今でも瞑想の一形態として不浄観が行われているのでしょうか。
意外に思われた型が多かったようですが、不浄観はインド仏教の最初期からある基本的な瞑想法です。おそらく今の日本の仏教では行われないと思います。日本の仏教で瞑想や観法を重視するのは、禅宗と密教系の真言宗や天台宗だと思いますが、前者は「無」を強調するため、瞑想の中でイメージを生み出すことは避けられます。密教の場合、瞑想の対象は仏菩薩などの「聖なる存在」です。不浄観とは対極にあるものが対象となるわけです。このような瞑想もインドに起源がありますが、それは「観仏」や「成就法」などと呼ばれます。ちなみに、仏教美術の形成にも、このような「聖なるもの」の瞑想は重要な役割を果たしたようです。
アジャンターの人物は浅黒く目が切れ長で、今まで見てきたものと系統が違うように思いました。
アジャンターの人物像は独特の表情を持っていて印象的です。インドにはもともと絵画がほとんど残っていないのですが、後世のパーラ朝の絵画にも同じような様式が見られますし、さらにカシミール地方のラダックに残るチベット系の壁画にも、通じるものがあります。立体的に表現する彫刻と異なり、平面的な絵画では、人物表現を含め、さまざまな工夫を凝らす必要があります。何が「写実的」であるかは、地域や時代で大きく異なります。たとえば、ピカソなどの20世紀絵画の人物表現は、一見「写実的」ではないような印象を与えますが、それを表現するものにとってはもっとも自然であったはずでしょう。それが人々に受容されたということは、その時代にとって意味のある表現方法だったことになります。
彫刻の身体表現は男性よりも女性の方が力が入っているのが感じられる。(やや誇張気味だけれど)胸とか腰とか・・・お腹がポコッとしているのは妊娠の表現なんだろうか。
女性像は仏像にはこれまであまりなかったので新鮮な感じですが、アマラヴァティーの礼拝者の中には、オーランガバードの浮彫に通じるような肉感的な表現が見られました。インドの女性像はとくに胸や腰の部分を強調する傾向があります。これは日本人の持つ伝統的な理想の女性像とはずいぶん異なるようです。たとえば、江戸時代の浮世絵では、裸体の女性の胸は、驚くほど小さいものです。お腹が出ているのもインド的な表現で、妊娠しているわけではないと思います。その分、腰がくびれているので、強調されているようです。
九相詩絵巻がとてもリアルでした。昔の人も人がどのように死んでいくか、死んだらどのようになるのかに関心を持っていたのかなと思いました。でも、人が亡くなって腐っていってしまう様子を、道ばたの至るところで見かけた昔は、今よりも死は身近なものだったのかもしれないなと思いました。
そのとおりですね。九相詩絵巻は有名は絵巻物なので、図書館の絵巻物集成のような本に全体の図画掲載されていますので、関心のある方は見て下さい。宗教が誕生したり、人々が宗教にひかれるのは、死という誰にも避けられないものが存在することが決定的だったのでしょう。いまでも、いろいろな宗教への入信の動機の第1位は、本人や家族の病気、あるいは身近な人の死などでしょう。人々が飢餓や病気であっけなく死んでいくのは、日本も含め世界中でついこの間まで当たり前でしたし、いまでもそのような状況の国や地域はなくなっていません。一部の先進国では死は隠蔽されているような扱われかたをしますが、もっと日常的なもののはずです。
講義とは直接関係ないのですが、今回の資料の質問のところに、一神教と多神教の話があったので。私が何かで聞いたところによると、森の多いところでは多神教が発生して、砂漠の多いところでは一神教が生まれるというのを聞いたことがあります。すべての宗教に当てはまるとは思いませんが、私はこの考えがとても好きです。宗教発展論が否定されているように、宗教をこのように分けるのはよくないのかもしれませんが、やはり、森の中には多くの生命がいて、日本もそのような環境の中で独自の宗教観を作り上げたのかなと感じました。私は砂漠−一神教−イスラム教というイメージを持ってしまったのですが、厳しい環境のもとではあんな激しい?宗教が生まれてもしょうがないのかなと思ってしまいました。
おっしゃるとおりだと思います。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は「砂漠の宗教」と呼ばれ、京大のような関係にあるとよく言われます。砂漠と対になるのが森であるかはわかりませんが、環境が宗教の形態や教理に大きな影響を与えるのは自然な考え方だと思います。この他、終末論や時間を円環的にとらえるか、直線的にとらえるかという違いも、環境によるという説もあります。宗教発展論は間違っているとか否定されているということではなく、最近の宗教学ではあまり正面切って取り上げることが少ないということだと思います。進歩史観などと同じく、枠組みを固定してしまうと、ものごとが見えなくなることが多いからでしょう。
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