インド仏教美術の諸相

第2回 サーンチー:前世の物語

 もしお釈迦様と同じように私たちも生まれ変わりを繰り返しているとしたらおもしろいなと思った。でもなぜ何度も生まれ変わりをする中で「釈迦」だけが「聖なるもの」とされたのか疑問に思った。お釈迦様が前世に生きていた頃、その時代の人々には「この人は聖なる人」になると予知のようなものはしなかったのだろうかと思った。
 輪廻思想は日本でも来世観の基本となっていましたし、今でも根強く生きているようです。インドの場合、意外な感じがしますが、支配層であったアーリア人は本来、輪廻の考え方をもっていなかったようで、インドに侵入して、土着の人々の文化を吸収した結果、一般に広まったと考えられています。仏教が生まれた時代にはすでに輪廻は「常識」となっていましたので、いかにそのとらわれから逃れるかが重要でした。ジャータカの物語も輪廻思想を基盤としていますが、それとともに、悟りを開くまでには釈迦も長い修行が必要であったという考えによるものです。仏が悟る前は菩薩と呼ばれますが、釈迦も菩薩として数え切れない生涯を送り、徳を積んだということです。大乗仏教になると衆生救済につとめる菩薩が重要になりますが、そのモデルが成道までの釈迦になります。しかし、実際のジャータカの物語の大半は、すでに存在していた説話・寓話を、釈迦をはじめとする仏教関係者に置き換えたものと考えられています。始めと終わりの部分が加わることで、単なる物語がジャータカとして生まれ変わったのです。「仏になるという予知」については、多くのジャータカで、前世の釈迦が将来(つまり釈迦になったとき)悟りを開くという予言が与えられます。これを「授記」といい、とくに燃燈仏による授記が有名です。授記も大乗仏教や密教で重要な概念となります。

 横梁の両端にあるぐるぐるは何ですか。巻物の紙を巻いてあるところのぐるぐるかなと思いました。(巻物の絵を書き添えてくれました。また、他にもこの渦巻き文様についての質問がいくつかありました)
 私もわかりません。バールフットにもあるようです。インドではお経などは巻物ではないので、たぶん巻物ではないと思いますが、日本の絵巻物との連想で、横梁をそのようにとらえると、説話図のイメージによく符合します。渦巻きだけではありませんが、円や縞模様のシンボリズムについては、以下のようの文献があります。
ルルカー、M. 1991 『象徴としての円』竹内章訳 法政大学出版局。

 ジャータカが釈迦の前世だけではなく、まわりのすべての前世もあらわすものであり、それが547もあるということがとてもすごいと思う。
 一般にジャータカは釈迦の前世の物語といわれますが、実際は登場人物に釈迦の肉親や仏弟子などさまざまな人々が現れます。とくに悪役には仏伝のなかの極悪人デーヴァダッタが必ず扮します。テレビや映画で同じ人が悪役でいろいろな作品に出るような感じです。547という数はパーリ仏典の『ジャータカ』としてまとめられたものの数で、実際はそれよりも多い物語が流布していたのでしょう。上にも書いたように、すでにある物語をそのまま利用するのですから簡単です。これらがすべて菩薩、つまり仏が悟るまでの物語であることに注意して下さい。

 今日の講義で見せてもらった作品はすべて同時期に作られたものなのですか。いつ頃作られたものなのか知りたいです。ひとつの区画にいくつかの場面が描かれているのはおもしろいなぁと思いました。非常に特殊であるのではないでしょうか。
 インドの仏教美術の年代はかなり幅がありますが、バールフットが紀元前1世紀頃もしくはそれよりも少し前から、サーンチーは少し遅れて紀元前後頃から制作が始まったと考えられています。ヴェッサンタラジャータカのような作品は、紀元後におく方がいいかもしれません。ガンダーラ、アマラヴァティー、アジャンターなどの作品は、これより下ります。キジルは中央アジアの石窟寺院で、さらに後になります。授業ではだいたい、作品の年代にしたがって、話を進めます。それがインド仏教の展開ともある程度重なります。後半の質問は、前回の回答でもふれましたが、ひとつの画面に異なるシーンを描く手法は「異時同景図」などと呼ばれ、説話図を中心に世界中で見られます。けっして「特殊」な表現方法ではありません。

 仏教を開いた人はゴータマ=シッダールタだったが、その人が釈迦だったんだろうかと思った(かなり初歩的な質問ですみません)。ゴータマ自身も人生の中で悟りを開くまでにけっこう長い時間がかかったのに、その中で現在世の物語などを考えていたのだろうか。すごい話だと思った。
 釈迦の名は彼の出身部族のシャーキャ族からとられた名前です。釈迦族の聖人を意味する「釈迦牟尼」が正式の名です。ゴータマ=シッダールタが釈迦のもとの名ですが、悟りを開いてからはこの名称で呼ばれることはありません。仏、仏陀、如来、世尊などが用いられます。日本では敬意を込めて「釈尊」という呼び名を用いることもあります。今日配布した渡辺照宏氏のプリントも参照して下さい。「ゴータマ・ブッダ」という表記がおかしいことも指摘されています。

 インド思想の根本は輪廻であり、因果応報であるというが、ジャータカもその一環であると思う。しかし、これだけの功徳を積んでいるならば、因果応報の原則からすると、苦しみのない労しない人生を歩むべきではないだろうか。シッダールタが釈迦族の王子としての運命を受け入れていたなら、それほど苦労はなかったはずではある。毎回、前世での功徳を汲んで、苦労のない人生を用意されたが、ブッダはそれを意志によって選ばなかったと解釈されるべきなのだろうか。(運命論的でありながら自己決定を認めるのは変?)
 輪廻思想や因果の観念がインド思想の基層のひとつであるのはたしかにそうです。ただし、ジャータカのような説話文学は、思想や哲学の文献とは異なり、論理的な筋道にしたがって著されたものではありません。しかも、本来は口誦伝承で伝わった物語が集成されたものですから、各ジャータカ間の関係や一貫性を求めることは困難です。実際、多くのジャータカでは前世の釈迦は苦難の生涯を送ります。自分の体を虎の子に食べさせる有名な捨身飼虎や、自らの肉をそいで鷹に与えたシビ王の物語などは、サディスティックとも言えます。これは菩薩形のひとつの理想として自己犠牲があるからですが、民衆が残酷な物語を好むのはいつの時代も変わらないのかもしれません。
 
 過去世の釈迦はなぜ聖なるもののカテゴリーに入らないのですか?無仏像や仏像ではないということになるんですか。「聖なるもの」の範囲があまり理解できてないので、もう一度教えてほしいです。
 説明が足りなかったようです。バールフットやサーンチーの浮彫は、しばしば「象徴的表現」と呼ばれ、釈迦がシンボルであらわされることが強調されます。そして、その理由として「釈迦を人の姿であらわすのはおそれ多かったからだ」という説明がなされます。しかし、実際に作品を見ると、釈迦がそのようなシンボルであらわされるのは、釈迦が釈迦として生まれて、涅槃に入るまでの間のことです。授業で見たように、釈迦には数多くの前世があり、これも浮彫のテーマとして好まれましたが、ここではけっして象徴的な表現をとっていません。象やそれ以外の動物として生まれた場合だけではなく、ヴェッサンタラのような人間であっても、そのままの姿であらわされます。一方、過古仏のような仏も、釈迦と同様に菩提樹やストゥーパのようなシンボルであらわされます。浮彫の作者にとって、象徴的な表現をとれないのは仏、もしくは仏の直前の存在のみになります。彼らにとっての「聖なるもの」の範囲は、漠然としたものではないようです。後の時代になりますが、マトゥラーでは最初期の仏像に「菩薩」という銘文があります。これは仏を仏像であらわすというタブーを破るための一種の方便だったようです。また、ガンダーラの初期には、成道前の釈迦がはじめに人間の表現をとり、しだいに成道後の釈迦にも及んでいったという説もあります。シンボルであらわさなければならない聖なるものの範囲を、せばめているということもできます。別の問題になりますが、表現上の要請として、象徴的な表現をとることが困難ということがあります。ヴェッサンタラジャータカや六牙象ジャータカのような物語を、主人公を菩提樹や足跡のままであらわすのはおそらく不可能でしょうし、もし可能だとしても、見る人へのインパクトは小さくなってしまいます。釈迦をシンボルであらわす場面は、説話的な要素を含むこともありますが、成道、涅槃、初転法輪のように、比較的単純な物語で、決まった形式で表現すれば、見るものがそのテーマを推定することは容易だったと思います。

 長部、中部、小部の話の時に思ったのですが、こういった仏教用語の日本名はどのように付けられるのですか。インドの「音」をもとに付けられるのか、「意味」をもとに付けられるのか、それとも他の方法なのか。意味をもとにして日本名が付けられるのなら、もっとわかりやすい名が付いたのではないかと疑問に思ったからです。
 長部等はパーリ仏典の分類名に対して、近代の学者が付けたものです。伝統的には「長阿含」(じょうあごん)、「中阿含」、「雑阿含」(ぞうあごん)、「増一阿含」(ぞういちあごん)と呼ばれています。読み方もむずかしいですね。小部に相当する漢訳経典はまとまった形では存在しないので、これに対する訳語もありません(第一回の配付資料を参照して下さい)。仏教用語には音をとったものと、意味を訳したものの両方があります。また、多くの仏教用語はわれわれになじみのある漢音ではなく、呉音であることが多いので、読みにくいです。昔から漢字のテストで苦労したのではないですか。さらに、宗派や伝統にしたがってそれぞれの読み方があるので、辞書に載っている読み方がつねに正しいということもないので、やっかいです。

 先生も少しふれておられたが、ひとつの彫刻に時間軸がいくつかあるサーンチーの美術を見て、「伴大納言絵巻」などの絵巻物を思い出した。あれもいくつもの時間軸が同じところで描かれていた。一瞬ではなく、時間の流れを描こうとしてるのはおもしろいと思った。ジャータカの中では、たとえばヴェッサンタラ王子は王子であって、釈迦から見れば前世だけど、そのときの王子は釈迦ではないのだから、物語の中で象徴的にあらわされる必要はないのではないだろうか。(釈迦もしくは私たちから見れば「聖なるもの」だけれども)
 どちらもおっしゃるとおりだと思います。日本の絵巻物研究は近年、歴史、美術史、文学などの研究者が関心を持ち、さかんに研究されています。これはインドの説話美術を考える上でもとても参考になります。私の参考文献リストでも以下のような研究書がありました。他にもいろいろあると思います。
阿部泰郎 1998 『湯屋の皇后  中世の性と聖なるもの』名古屋大学出版会。
黒田日出男 1986 『姿としぐさの中世史  絵図と絵巻の風景から』平凡社。
黒田日出男 1996 『謎解き 洛中洛外図』岩波書店。
小泉和子・玉井哲雄・黒田日出男編 1996 『絵巻物の建築を読む』東京大学出版会。
五味文彦 1993 「絵巻の視線  時間・信仰・供養」『思想』829: 4-27。
武田佐知子編 1999 『一遍聖絵を読み解く』吉川弘文館。
 後半のコメントも授業で意図していたのはそういうことですが、そこからさらに「なぜ前世の釈迦は<聖なるもの>として扱われないのか」「象徴表現をとる主題に何か共通点があるのか」というような疑問が出てきます。二つ前の質問の答えで、これらについても少しふれました。

 塔の柱にまで物語が描いてあるのに驚いた。私は仏教美術にあまり詳しくないせいかもしれないけれど、説明を聞かないと話の区切り目さえわからなかったのだけれど、ストゥーパができた当時の人々は見ただけでわかったのか、ちょっと疑問に思った。
 たしかに物語の内容をよく知っていて、表現のルール(原則として右から左に時間が流れるとか、バラモンに対して水を差し出すのは敬意と受諾を表すなど)がわかっていなければ、理解できないでしょう。ヴェッサンタラ・ジャータカの場合、ひとつの場面の大きさもばらばらなので、さらに理解は困難です。当時の人々が理解できたかどうかは、推測ですが、やはり困難だったと思います。描かれている位置も塔門の横梁なので、見上げたようなところになります。このような説話図が何のために描かれたかも、いろいろな説があります。「絵解き」といって、解説する僧侶などがいて、参拝者の物語を聞かせたという説もありますが、上のような理由で、納得しかねます。説話的な要素を持たない部分も多く、たぶんに装飾的なデザインであるので、装飾モティーフとして説話図が用いられた可能性もあります。ヴェッサンタラ・ジャータカも含め、説話図であっても左右の対称性を意識した構図は、物語の内容よりも、横梁という画面をいかに飾るかに重点が置かれているように感じられます。

 説話ですが、荒唐無稽なのは仕方がないとしても、子どもや妻までもバラモンに差し出すのが布施とは驚き入ります。現実に生きる私たちができる布施行とは、どんなものなのかを考えてしまいます。
 たしかに、ヴェッサンタラ・ジャータカは常軌を逸した布施に「狂った」王子の物語です。しかし、この物語が、数あるジャータカの中の最高の物語として位置づけられ、実際に、インドばかりではなく、キジル石窟でも描かれているように、シルクロードや、あるいは東南アジアにまで広まり、絶大な人気を得たことも事実です。おそらくこの物語の持つテーマが「布施」であると同時に「親子の別離と再会」であることも、その人気の要因だと思います。寓話や説話が時代や地域を越えて生き続けるのは、何か人類に普遍的なテーマがあるからでしょう。

 前回のプリントの「大正蔵」の読み方と意味を教えて下さい。
 「たいしょうぞう」と読み、大正新脩大蔵経の略称です。仏教学ではこのような略称がしばしば用いられ、北京版とか、東北目録とか、PTSなどもあります(それぞれの説明は省略します)。大正蔵は日本で刊行された漢訳仏典の一大叢書で、大正年間に編纂されたことから名付けられました。大蔵経の開版は中国では古くから行われてきましたが、近代的な仏教学の成果をふまえて刊行された大正蔵は、戦前の日本仏教学の金字塔であるばかりではなく、現在でも世界中の仏教学者が用いる漢訳仏典です。全部で100巻あり、いずれも数百頁、各頁は3段組で、びっしりと「お経」が入っています。今回、阿含部の一部をコピーとして添付しましたので、参照して下さい。本学では比較文化研究室にそろっているほか、図書館の暁烏文庫にもあります。また、これとは別に図像部12巻もあり、これも暁烏文庫と四高文庫にあります。利用の便のために目録と索引があります。なお、日本印度学仏教学会という学会が中心になり、この一大叢書のテキストのデータベースを作成中です。その一部はhttp://www.l.u-tokyo.ac.jp/~sat/で公開され、ダウンロードもできます。

 名古屋ボストン美術館の「アジアの仏・仏教美術展」を見てこようかと思うのですが、見どころなどありましたら、教えて下さい。
 アメリカのボストン美術館は東洋美術のすぐれたコレクションを擁していることでも有名です。今回の展覧会は特定の国や地域に限定されていないようですが、仏教美術の全体像や多様性を知るにはなかなかよい展覧会のようです。比較文化の研究室の中に、案内のチラシを掲示しておきましたので、見に来て下さい。インドのパーラ期のきれいな観音像や、チベットの有名なタンカなども出展されるようです。以下のような出版物も以前に刊行されています。
ボストン美術館 1991 『ボストン美術館東洋美術名品集』NHK出版。
栂尾祥瑞 1986 『チベット・ネパールの仏教絵画』臨川書店。

 話の終わりのシーンで、これまでと反対の方向を向いているのはなぜですか。象とか、馬とか。単にここで話が終わるということを意味しているのでしょうか。
 授業でこだわっていたのもこのことです。物語の流れが反転することで、終結を表すという説明をしている研究者もいます。たしかにそういうところもありますが(出城や六牙象ジャータカ図)、ヴェッサンタラの場合、横梁の表と裏にまたがっているので、必ずしもそういえないと思います。横梁の区画全体を見た場合、両端の柱に近い部分には、特定の場所で起こった出来事があるような気がします。たとえば、象を布施したヴェッサンタラや馬車を布施したヴェッサンタラです。これを「場のモティーフ」と呼ぶことができます。そして、その間にあるのは空間の移動を表すモティーフであることが多いようです。追放されて馬車で進むシーンや、悪バラモンがヴェッサンタラの二人の子どもを連れて進んでいるところなどです。出城や六牙象でも同じようなことがいえるようです。そうすると、中央に「移動のモティーフ」を置いて、その両側に「場のモティーフ」を対称的に配しているのではないかと考えられます。説話的な要素を持たない装飾的なモティーフの横梁で、左右の対称性が重視されていたことを考えると、説話図でありながら、装飾性が意識されているのではないかと考えています。


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