インド仏教美術の諸相

第1回 バールフット:仏陀なき仏伝図

仏教の歴史・仏像の見方を学ぶことにより、仏教の教理や思想を学びたいと思います。
ぜひそうして下さい。

文献にあがっている高階秀爾氏の3冊目、カッコのなかの年代って何ですか。
初版本の刊行年です。中公文庫は三彩社から出た単行本からの再版です。

毎回スライドありますよね。
あるはずです。

美術史というものがまずよくわかっていないので、この授業でそれが少しでもわかればと思っています。
美術史はそのことばの通り、美術の歴史ですが、様式史と図像研究に大別されます。地域からも大きく西洋美術史、東洋美術史に分けられますが、自国の日本美術史はそれのみでもひとつの大きな領域となります(おそらく研究者数も最大)。本学の文学部には美術史の講座やコースがありませんが、いわゆる旧帝大の文学部や、芸術系の大学などには、たいていスタッフや授業がそろっています。ただし、本学でも学芸員の資格取得のために必要なので、授業がひとつだけ開講されていたと思います。

仏の名前辞典(サンスクリット名、日本名)のようなものはありますか。
名前だけの辞典はありませんが、図像図典などの名称を持つものがいくつかあります。
佐和隆研 1962 『仏像図典』吉川弘文館。
頼富本宏・下泉全暁 1994 『密教仏像図典  インドと日本のほとけたち』人文書院。
Liebert, Goesta 1976 Iconographic Dictionary of the Indian Religions. Studies in South Asian Culture Vol. 5 Leiden: E. J. Brill.

前期の教養で先生の授業をとっていて、おもしろかったので、今回とりました。
それはどうも。教養の授業と関係する話や見たことのあるスライドも出てくると思いますが、内容は別のものもになるようにするつもりです。

前期に教養の「密教美術の世界」を受講しました。できれば内容が重複しないほうがうれしいです。同じテーマにしてもプラスアルファの専門性を期待します。
期待に添えるように努力します。

独特な世界を持つインド仏教美術を味わいたい。
たしかに独特の世界ですが、意外に日本の仏教美術に近いものもありますし、宗教美術一般としても、普遍性を持っています。それはともかく、ぜひ、存分に味わって下さい。内容を深く知るほどよく味わえると思います。

日本史で「ガンダーラ」という言葉を聞いたことがあったけど、地名だとは知らなかった。
パキスタンを中心に、インド北西部からアフガニスタンにかけての広い範囲の地名です。インド仏教美術の代表的な地名なので、ぜひ覚えて下さい。

絵図から造型作品から、どのように何を読みとるかは他人の解釈を見て勉強になると思うので、期待したい。
たしかにそうです。作品から何を読みとるかは人によって異なりますが、さまざまな解釈を知ることで、作品の理解が深まるはずです。

出席を点数に加算してほしいです。専門がたいへんなので、レポートを少なくしてもらえるとうれしいのですが。
考えておきます。

基本的な用語(密教など)にも、簡単な解説を一応お願いします。
できる限り、平易な言葉で説明するつもりですが、理解が困難なものなどには、カードの質問の欄に記入して下さい。

原典訳のチベット死者の書を読んだのですが、けっこうおもしろかったので、そっちの方もからめてもらってもいいかも。
この授業は、一応インドを中心とした仏教美術の話なので、少しむずかしいと思います(チベットの死者の書は前期の私の「仏教学特殊講義」で取り上げました)。以前私が書いたものを含め、参考文献を若干あげておきますので、参照して下さい。
森 雅秀 1994 「「チベットの死者の書」とは何か」『ユリイカ』第26巻第13号 pp. 30-39。
おおえまさのり 1974 『チベットの死者の書』講談社。
川崎信定 1976 「<チベットの死者の書>死後の生存と意識の遍歴」『エピステーメー』七月号、pp. 112-125。
川崎信定 1980 「死後の生存と意識の遍歴  『チベットの死者の書』を考える」『仏教文化』10: 47-63。
川崎信定 1989 『チベットの死者の書』 筑摩書房。
河邑厚徳・林由香里 1993 『チベット死者の書 仏典に秘められた死と再生』NHK出版。
ツルティム・ケサン 1990 「<書評>『チベットの死者の書』川崎信定訳」『仏教学セミナー』51: 84-88。
中沢新一 1993 『三万年の死の教え : チベット『死者の書』の世界』角川書店。
『ユリイカ』(臨時増刊号 特集 死者の書)第26巻第13号。
フジタ・ヴァンテ編 1994 『チベット生と死の文化  曼荼羅の精神世界』東京美術。
ヤンチェン・ガロ撰述 ; ラマ・ロサン・ガンワン講義 1994 『ゲルク派版 チベット死者の書』平岡宏一訳 学研。
Thurman, R. A. F. 1994 The Tibetan Book of the Deat: Liberation through Understanding in the Between. London: Thorsons.
前回の授業への質問

 三道宝階降下の説話ははじめて知りました。釈尊のシンボルとしてよく菩提樹が使われていましたが、それは釈尊が菩提樹の下で成道したためですか、それともそれ以前に菩提樹に聖なる樹木としてインドでは認められていたのでしょうか。
 そのどちらもです。菩提樹が釈迦のかわりにシンボルとして用いられるのは、バールフットやサーンチーなどでよく見られますが、とくに成道のシーンと結びつけられることが多いようです。サーンチーの場合、釈迦の誕生、成道、初説法、涅槃の四相が、順にガジャラクシュミー、菩提樹、法輪、仏塔で表されているという研究もあります。樹木崇拝はインドの民間信仰の代表的なもののひとつとして、おそらく仏教以前から存在したはずです。上記の釈迦の四相のうち、三つのシーンで樹木が重要な役目を果たしているのも、偶然ではなく、樹木の持つ何らかの「力」に関係するのでしょう(誕生では摩耶夫人が無憂樹につかまり、涅槃では沙羅双樹の間に釈迦は横たわります)。

 仏というのは、絵に描かれたような姿をしているのだと理解してしまっているところがあるが、われわれとは異なる存在であるから、シンボル的に描かれたりしているだけで、本来の姿はどのようなものなのだろうと思った。
 われわれ日本人の釈迦のイメージは、おそらく日本の仏教寺院の中にある仏像だと思いますが、釈迦がどのような姿をしていたかは誰にもわかりません。同じ仏像であっても、日本の仏像はインドや東南アジア、チベットなどの仏像とはずいぶん印象が異なります(それでも共通点があるところが興味深いのですが)。そもそも、釈迦が人と同じような姿をしていたということも疑問でしょう。むしろ、われわれとは違うということが、当時の人々にとっては重要であったかもしれません。そうすると、われわれの知っているような「人間的」な姿で表すのは、大間違いということになります。前回の授業で強調した「聖なるものをいかにして表現するか」という問題意識は、単に仏像で表すか表さないかという二分法ではなく、本来は表現することができないような存在を、どのように表すかという問題になるのです。

 キリストや釈迦などが絵に出てくるとなぜか光っているから、「きっと偉いから光らせているんだろうな」と思っていたのですが、今日の話を聞いて驚きました。
聖なるものを表現する際に光を使うことをスライドで紹介していましたが、仏画などの後光も同じなのでしょうか?人間との媒体とはなっていないと思うのですが。
 「威光」とか「光栄」のように、たしかに光は偉い人によく結びついています。また、後光があるのは仏の身体の色が金色で光を放っているからで、このことは仏の身体的特徴(三十二相といいます)のひとつとしてもあげられています。スライドでお見せしたように、宗教図像の場合、さらに光は霊的、神的なものの表現としてしばしば見られます。これはおそらく、神秘体験や宗教体験がしばしば光をともなうことにも関係すると思います。ヨーガや瞑想などで、理想的な境地に到達すると、一種の「光」を体験するようです。悟りと光は密接な関係を持っているのです。われわれにとっての光は「明るい」「暖かい」といった程度のものかもしれませんが、闇に覆われていた近代以前の人々にとって、光はもっと切実なもの、不思議なものだったはずです。また、聖なるものとの媒体としての光という話もしましたが、われわれは仏像やイコンなどの聖なるイメージを見るときには、光がかならず必要です(暗闇では見られませんから)。古代や中世の人々が教会や伽藍でこれらのイメージを見るときに、そこに介在する光は聖なるイメージそのものが放つエネルギーのように感じられたかもしれません。宗教美術を考える上で、光はさまざまな問題をはらんでいるようです。機会を見つけて、また考えていきたいと思います。

 釈迦と仏は同じものなんですか。仏の足跡、最初見たときあれで一歩なのかと思った。絵を見るとやっぱり大きくて、強調されているから大きいのか、実際あれくらい大きいと考えられていたのか、どちらなんですか。
 はじめの質問については、釈迦は固有名詞ですが、仏は「悟ったもの」を表す普通名詞です。したがって、釈迦は仏のひとりということになります。ただし、釈迦と仏の関係は仏教における大きな問題のひとつで、のちに「仏身論」という考え方に発展します。詳しい説明は省略しますが、仏教入門書や仏教辞典などでも説明されていますので、関心があれば調べて下さい。後半の足跡については、釈迦の足がどのぐらい大きいのかはわかりませんが、仏足跡は初期の仏教美術のみならず、日本も含めひろく認められます。気を付けていただきたいのは、菩提樹や法輪などが、釈迦とはまったく別のものでありながら、そのシンボルとしてあらわれるのに対して、足跡はすくなくとも釈迦の身体の一部であることです。じつは「聖なるもの」の足や足跡に対する特別な崇敬は、インドの宗教に広く見られるものなのです。たとえば、『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』などの叙事詩では、国王のかわりにその足跡やはいていたサンダルを、王のかわりに玉座にまつることがあります。また、現代でもヒンドゥー教の中には聖者のサンダルを山車に乗せて信者が巡礼するという行事があります。

 バールフットはインド仏教美術の初期ということですが、それ以前にインドに仏教はあったと思うんですが、美術はなかったのですか。
 インド美術の歴史は古くはインダス文明にまでさかのぼりますが、現存する仏教美術としてはバールフット、サーンチーなどがその最初期になります。それ以前としてはアショーカ王が各地に建てた法勅の柱の装飾があげられます。とくに柱の上に置かれた獅子や象、牛などの聖獣の彫刻は、古代インド美術の代表でもあり、現代のインドでも、しばしばシンボルとして用いられています。

 「降臨」や「昇天」という二つのパターンがあるのはおもしろいと思った。それぞれの宗教の中での「死」や「生」のとらえ方の違いとかによるのだろうか。
 おそらくそうだと思いますが、ほかにもいろいろな見方が可能と思います。この二つのパターンは「聖なるもの」がこちらにやってくるのか、あるいはこちらから向かっていくのかという対比になりますが、私自身はこれは神秘体験のあり方と関係があるのではないかと思っています。世界の宗教の中に「シャーマニズム」と呼ばれるものがありますが、これは大きく分けて「脱魂型」と「召命型」という二種類があるといわれています。前者はシャーマンの魂が抜け出て、遍歴をしたりするものですが、後者は神や霊が降りてきて、憑依したりします。「降臨」や「昇天」という対比は、宗教図像における聖なるものの表現に、方向という視点を導入すると、おもしろいのではないかという発想です。

 仏塔礼拝図のように傘が二つ重ねて描いてあったのは、古文における二重敬語のように敬っていることを表現しているのですか。
 それは気が付きませんでした。たしかに二つ重ねてあるのがありましたが、とくに意味を与えているのではないと思います。傘(傘蓋)は象徴的な表現にしばしば現れるモティーフですが、法輪や菩提樹などと異なり、釈迦そのものをそれで表すのではなく、その下に高貴な人物(仏伝では釈迦)がいることを表す目印のようなものです。そのため、釈迦そのものが法輪や菩提樹などのシンボルで表されている場合も、その上に置かれることがあります。また、傘蓋の下に何もないのは、釈迦が透明人間のようになっていることになります。やはり同じように高貴な人物のお付きの人が持つ払子も、傘蓋とともに表されることもあります(たいてい傘蓋の下の空中に浮かんでいます)。

 光などの媒体を介在させて、聖なるものの人体表現を行う場合があることがわかったが、人体表現がされている以上、偶像崇拝にあたるような気がしたのですが、なぜ許されるのでしょうか?これが「人体表現の積極的な活用」ということなのでしょうか。
 仏教の場合、偶像崇拝禁止という意識はあまりなく、むしろ、人体は不浄なもの、はかないものという捉え方をします。最初期の仏教美術で釈迦を人と同じ姿で描くことが躊躇されたのは、偶像崇拝が禁止されていたのではなく、われわれと同じ身体を仏が持つことに抵抗があったからでしょう。「人体表現の積極的な活用」については、説明できませんでしたので、ここで補っておきますと、人体そのものをそのような「俗なるもの」ととらえるのではなく、人体こそが「聖なるもの」とみなすということです。いわば逆転の発想ですが、インド的な身体観からすれば、むしろこちらの方が正統的とも言えます。古代インドのウパニシャッド哲学の基本的な概念に、梵我一如があります。これは絶対的な真理であり、宇宙そのものでもある「梵」(ブラフマン)が、われわれ一人一人がもっている個我(アートマン)と本質的には同一であるという考え方です。それに従えば、個我をそなえるわれわれの身体は、本質的には「聖なるもの」となります。哲学的な話になるので、わかりにくいかもしれませんが、関心があれば、次のような入門書をおすすめします。
立川武蔵 1992 『はじめてのインド哲学』(講談社現代新書) 講談社。

 三道宝階降下というテーマの仏伝図で、一画面に釈迦塔を複数描いて、時間の流れを表しているのがとてもおもしろい。日本の絵巻物のように感じた。
 ご指摘のように、ひとつの画面に複数の時間帯を描く手法は「異時同景図」とよばれ、説話図の表現として、広く見られます。日本の絵巻物もその代表的な例です。インドでは仏教美術の仏伝図やジャータカ図に広く取り入れられていますし、ヒンドゥー教の神話を表す作品でも見ることができます。今回お見せする予定のジャータカ図にもふんだんに取り入れられています。このような手法は一見すると何か不自然なような気がしますが、これはわれわれがルネッサンスや印象派の作品などを絵画の代表としてとらえがちなためでしょう。芸術作品にとって「写実性」や「リアリティ」は、その要素のひとつでしかないのです。次の文献は絵画の持つ「フィクション」について、美術史家と建築家が議論したもので、歴史や文学の研究者にも示唆に富みます。「異時同景図」についても詳しく取り上げられています。
千野香織、西 和夫 1991 『フィクションとしての絵画』ぺりかん社。

 仏教、キリスト教、東西の数多くの宗教がありますが、聖−光−空といったイメージがたいていセットで共通しているのは自然というか、納得できます。むしろ仏教では降臨が強調され、キリスト教では昇天が重視されるのが興味深いですね。どっちも「死んだあとに天国(極楽)に行く」とかいった考え方は共通しているはずなのに。そこらへんは「神(仏)の身近さの違い」な気がします。あと、仏教ではたしかに血をすする神とかもいるのに、キリスト教とかではそういうのは「邪悪」じゃないですか。現実のとらえ方とかの違いでしょうか。
 「降臨」と「昇天」という対比がどの程度有効なのかは、私自身よくわかりませんが、いろいろな例で考えてみて下さい。「極楽に往生する」というのは浄土教の基本的な考え方ですが、インドでは浄土教美術はほとんど存在しません。日本の「阿弥陀来迎図」のような浄土教美術は、平安時代後期の浄土思想(末法思想)の流行とともにさかんに作られましたが、その起源は中国、とくに西域のシルクロードに求められます。同じ仏教美術でもインドと中国とでは主題に大きな違いがあります。キリスト教の「邪悪な神」については、以下の本が名著として有名です。
セズネック、ジャン 1977 『神々は死なず:ルネサンス芸術における異教神』高田勇訳 美術出版社。

 少し気になったのですが、キリストは棺に入れられたのではなく、布に包まれて墓におさめられたはず。墓石がどけられていて、中に布がたたんであったと記憶しています。
 ご指摘のように、十字架から降ろされたイエスの屍は、香料を塗り布で包んで埋葬されます。アリマタヤのヨセフという人物がゴルゴダの丘の麓にある園の岩に自ら掘らせた新しい墓におさめ、その入口に大きな石を転がしておいたと、聖書は伝えています(マタイ27:57-61、マコ15:42-47など)。この墓をどのように表すかは時代や画家によっていろいろあるようで、石棺におさめるシーンは10世紀以降、頻繁に見られるようになるそうです。ルネサンス以降は、埋葬よりもイエスの屍を運ぶ図像が人気が高くなり、イエスの屍のまわりに、マグダラのマリアやその他の聖女たちが取り囲み、劇的な情景を表します。復活については、埋葬の3日目の朝早く、聖女たちがイエスの身体にかける香料をもって墓を訪れたが、入口の石は取り去られ、イエスの遺骸はすでにその場になく、ひとりの天使があらわれ、その石の上に坐って、イエスがよみがえったことを彼女たちに告げたとされます。復活そのものの様子を聖書は伝えていないため、この場面は画家の裁量に任されることになります。復活を表す象徴的図像、墓における聖女たち、墓を出るイエス、墓の上に立つイエスという四つの形式に分類されます。スライドで紹介したピエロの作品は最後の代表例で、「勝利者としてのキリスト」という意味が与えられています。以上の内容は以下の文献を参照しました。
柳 宗玄・中森義宗編 1990 『キリスト教美術図典』吉川弘文館。

 聖なるものを「人」として表現していないということは、とても興味がもてる内容だったが、スライドでバーミヤンの東大仏が出てきたが、東大仏の顔が削られているのも、聖なるものを「人」として表現しないことと同じか不思議に思った。
 東大仏の顔はもともとはあったようで、玄奘も『大唐西域記』の中で言及していますが、かなりはやい段階で、剥落したようです。漆喰で固めてあったという説もあります。バーミヤンの大仏がもともとどのような姿をしていて、何を表していたかもさまざまに議論されてきましたが、すでにその姿のない現在、謎に包まれたままになってしまったようです。これについては、京大の桑山氏による以下の翻訳の訳注で、説明されていたような記憶があります(手元にないので未確認)。
桑山正進 1987 『大唐西域記』大乗仏典 中国・日本編9 中央公論社。

 実際に浮彫を掘ったのは誰なんでしょうか。奴隷階級の人が(デザインどおりに)掘らされたのか、あるいは高めのカーストの職人階級の人が掘ったんでしょうか。現代的な感覚では、芸術家として、高い地位が得られていそうですが。それともバラモン本人が修行のために自分で掘ったのでしょうか。
 芸術作品成立の社会的背景は、美術史の重要な研究対象ですが、古代インドの場合、ほとんど未解明です。後世のヒンドゥー社会では、寺院建築は、その装飾も含めて、シルピンと呼ばれる建築家集団が携わっていますが、初期のストゥーパの建立が、このような職能集団によるものかはよくわかりません。後世になりますが、インドでも日本でも僧侶の中には仏画を得意とする人々もいたようです。

 仏教では蓮華という言葉が多く使われているように思われるが、ハスの花はどのような性格を持っていたのか。
 蓮はインドの宗教美術の世界で最も好まれた植物で、さまざまな場面に登場します。仏像が蓮台に載っているのは、日本でも受け継がれています。そのシンボリズムは豊穣、多産、繁栄などでしばしば解釈されます。蓮の象徴性については以下の文献を参照して下さい。
宮治 昭 1999 『仏教美術のイコノロジー インドから日本まで』吉川弘文館。
若桑みどり 1984 『薔薇のイコノロジー』青土社。

 スライドで見た「サーンチー」の形が、日本の沖縄(?)あたりで見られるお墓の形によく似ていた(次頁の図参照)。このお墓は子宮をかたどったものらしい。釈迦が神々のために「説法をする」とはどういうことかよくわからない。「神」という存在は何もかも知り尽くしているものではないのだろうか。それにしても神々に金、銀、水晶の階段を作ってもらえるとは・・・。釈迦は人間なのか人間じゃないのか、時々混同してしまう。
 はじめのコメントの沖縄の墓は、私は見たことがないのでよくわかりませんが、墳墓のような形でしょうか。朝鮮半島でこのような墓が作られているのを見たことがあります。沖縄という立地からは、中国か台湾あたりの伝統かもしれません。それはともかく、古代の美術は、エジプトのピラミッドや日本の古墳などからもわかるように、墓の装飾から始まったものが多いようです。権力者の死というのは、その共同体にとってはきわめて重要な意味を持っていたのでしょう。後半の質問のうちの神については、古代インドの神々がかならずしも「すべてを知り尽くしたもの」ではない、言いかえれば唯一神、あるいは絶対神ではないことに注意しなければなりません。ヴェーダの神話に登場する神々は、インドラにしろ、アグニにしろ、さまざまな性格を持った「人間的」ともいえる神です。仏教ではこれらの神々も輪廻の世界の中に含まれ、神であっても死後は別の世界に生まれ変わる可能性があると考えられました。神も悟りを開くためには法を知らなければならないので、説法を聞く必要があるのです。最後の「釈迦は人間なのか人間ではないのか」という疑問は、仏教学の研究史を考えると重要な意味を持ちます。近代の仏教学は合理的な釈迦像を追求する余り、その神話的な要素をはぎ取ることにつとめてきました。それを徹底すれば、本当の釈迦の姿が見えてくると考えたからです。しかし、この考え方は、釈迦が生きていた時代が現代のわれわれの世界とは異質の神話的世界であったことを見落としています。最近の仏教学の傾向として、このようないわば非合理的な世界をそのまま受け入れた上で、釈迦をとらえようとする研究が見られます。


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