第9回 不動と儀礼:護摩


マンダラというのは円とか四角とかの中に菩薩や明王がいるやつを思っていたんですが、高野山参詣曼荼羅のように、ふつうの絵みたいなものもあるのでしょうか。
参詣曼荼羅は日本独自のマンダラです。有名なものに那智参詣曼荼羅や立山曼荼羅などがあります(立山曼荼羅はお隣の富山のものです)。円や四角の中に仏が整然と並んでいるというマンダラのイメージは、インドやチベットのマンダラでは正しいのですが、日本では独自の曼荼羅が数多く生み出されました。参詣曼荼羅の他にも、修法の本尊となる別尊曼荼羅や、神道と関係を持つ垂迹曼荼羅、天体を組み込んだ星曼荼羅などがあります。このうち、とくに参詣曼荼羅は名所図絵、説話図、来迎図などが複雑に組み込まれることがしばしばあります。専門の「絵解き」を伴うことも多く、芸能などとも関係します。マンダラはおもしろい研究対象です。

後七日御修法は空海の進言で始まったそうですが、これは空海が新しく作り出した儀礼なのでしょうか。あとに出てくる大元帥法などもそのときの僧たちが作り出したのでしょうか。また、天皇や国側が寺などに、国家安泰などのために儀礼を頼むならわかりますが、寺側が儀礼をさせてくださいと進言するというのがよくわかりません。それとも儀礼をやらせてほしいというよりも、御斎会よりも御七日御修法をやった方がよいですよというような進言なのでしょうか。
後七日御修法はインドや中国にまでさかのぼることのできない儀式で、おそらく空海のオリジナルでしょう。しかし、護摩の儀礼でも見られるように、密教儀礼は基本となる何種類かの儀礼をユニットのように組み合わせることで、全体ができあがっています。大規模な儀礼になると、ユニットを時間の流れに沿って順番に組み合わせるだけではなく、複数の儀礼を平行して行います。後七日御修法はそのような「大儀礼」のひとつで、個々の要素に分解すると、中国やインドに祖型が求められるものもあるでしょう。後七日御修法に関する空海の上奏文の趣旨は「御斎会よりも御七日御修法をやった方がよいですよ」でしたが、これは「儀礼をやらせてほしい」と同じことでしょう。国家のために(つまり天皇のために)自分の宗派がお墨付きをもらって儀礼ができるというのは、当時の社会においては決定的な意味を持っていたはずです。

不動だけではなく密教儀礼の話を聞けて個人的にとてもうれしいです。そこで素朴な疑問なのですが、こういう護摩などの密教儀礼はどのくらいの頻度で行われるものなのでしょうか(年に○回とか)
真言や天台の密教系の寺院では、護摩はポピュラーな儀礼なので、頻繁に行われます。有名な成田山では毎日2,3回ずつ行われているようですし、私が先週末に行った高幡不動(調布市)でも、毎日3回ずつありました。七五三にお詣りに来ていた親子が、神妙な顔で座っていました。これだけ頻繁なのは例外ですが、毎月のお不動さんの日(29日)に行うところは多いようです。このほか、とくに依頼があったときにも行います。平安時代の大規模な修法は、基本的に朝廷や貴族の要望で行われていたので、不定期だったでしょう。インドでもこのように定期的な儀礼と、依頼主の希望による不定期な儀礼の2種があります。

聞き逃しただけかもしれないが、御斎会と御修法は並列して行われたのだろうか。どっちかが重要視されたのだろうか。護摩を焚くというイメージは、私の中では調伏のイメージが強かった。テレビとかに出てくる場面を見ると、必死の形相で天皇の病回復を願って、病魔調伏を行っているイメージだったが、男女関係のような、本当に人間くさい願いを祈ることができるとは知らなかった。
手許の資料でははっきりしたことがわかりませんでしたが、御修法が始まってからも、御斎会は引きつづき行われていたようです。平安後期にも行われていた記録が残っています。ただし、平安仏教が密教の色彩を濃くするにつれ、御斎会も密教的な儀礼に変質していったようです。なお、後七日御修法の名称は、正月のはじめの7日は、伝統的な新嘗祭が行われていたためで、そのあとから行うことに由来します。節目の時期にさまざまな儀礼を行っていたことがわかります。
 護摩を焚くシーンはたしかにテレビなどでときどき見ます。私が見たものも「必死で祈っている」といった感じでしたが、実際に密教寺院で護摩を焚いているところを見ると、もっと厳粛な雰囲気です。祈りの言葉も真言が中心なのでほとんど周囲には聞き取ることはできず、手で結ぶ印も衣の中に隠して結びます。油を灌ぐ杓が護摩炉を叩く「バシッ」という音と、護摩木や供物が燃えるパチパチという音が響く程度です。儀礼の場に火天や本尊を呼び出すためには精神集中をする必要もあるので、無駄な動きや音はあまりないのでしょう。なお、病気平癒は息災の護摩で行うのがおそらく一般的でした。調伏(降伏)護摩は特定の人物の呪殺を目的としますので、表立ってはほとんど行われません(隠れてはやったでしょうが)。調伏護摩の炉は三角形ですが、このような理由でその遺品はほとんど伝わっていません。護摩の目的は本来「人間くさい」ものなので、男女関係もお金儲けも病気治癒も何でもあります。

五輪の塔にあんな意味があったとはまったく知らなかったのでおどろいた。しかし、現代人の感覚なのかもしれないが、宇宙を構成するものの中に「風」があるのは不思議な気がした。
古代において世界を構成する要素を有限個とする考えは、インドに限らず、ギリシャなどでも見られました。インドの場合、地、水、火、風、空の五種を立てますが、地などの名称は便宜的なもので、むしろ元素と考えるべきものです。風は単なる風だけではなく、呼吸の息なども含みます。空は大乗仏教の「空(くう)」ではなく、虚空の意味で、空中を満たす物質です。

授業で回されていた護摩についての本を見て、煩悩を焼き払うには、いろいろ複雑な手順や動作を行わなくてはならないので、大変だと思った。たいへんであればあるほど、儀礼的にはよいのだろう。
基本的にはそうです。しかし、あまり儀礼が複雑化したり、形式のみが重視されると、儀礼の意味が失われ、形骸化します。儀礼は宗教の重要な要素ですが、しばしば「改革」と称して、儀礼が排除されたり、簡略化されます。かといって、まったく儀礼を必要としない宗教もありえません。いわゆる鎌倉新仏教は、伝統的な平安仏教に対する改革者として登場しましたが、浄土教系の念仏、禅宗系の座禅なども、儀礼の一種と見ることができます。護摩が「煩悩を焼き払う」ということは授業ではふれませんでしたが、日本密教ではよく言われます。これは「内護摩」(ないごま)とも呼ばれ、実際に護摩木を燃やす所作を「外護摩」(げごま)と呼んで区別します。火を燃やし火天や本尊を供養するという低レベルの意味と、迷いの原因である煩悩を焼くという高レベルの意味をあわせもつと理解されています。本来、ヒンドゥー教やヴェーダの宗教の代表的な儀礼であった護摩を、仏教が取り入れるための方便とも言えます。

昔、日本史の授業で、左右対称であることとかはならったんですけど、それだけしかならわなかったので、儀礼と空間の関係がとても興味深かったです。家に帰って、資料集もう一回見てみようと思いました。
資料集はぜひ何度も使って下さい。これを作るのもけっこう手間がいるので。それはともかく、たしかに、高校までの授業では「こうである」という知識は大量に得られますが、「なぜそうであるのか」にまで踏み込んだ内容はなかなか得られません(最近の教育制度は、それを改善しようとしていますが)。文化的な現象は「たまたまそうだった」ということはほとんどなく、「こうならざるを得なかった」という積極的な理由がたいていあります。学問とはこのようなことをあれこれ考えるものなのであり、答えもひとつであるわけではありません。人を納得させるためには、十分な根拠と論理的な思考が必要となります。人工的な都市のプランにしても、左右対称であるという事実は見ればわかることで、なぜ当時の人々(とくに権力者)はこのような形にしたかったのか、あるいは、せざるを得なかったのかを考察する必要があります。授業は宗教関係なので、宇宙論や儀礼との関係を強調しましたが、当時の土木技術や経済力などのもっと現実的な理由もあったでしょう。

五大尊と十二天の軸は、垂直にずらすことで、結界を完成させているのでしょうか。(十文字に軸を交わらせて強化している?)火天がおじいさんぽくてアグニを思い出しました。形がそのまま受け継がれているのですね。土御門の神社に行ったとき、安陪氏の墓も五輪の形だったので、陰陽道も密教の影響が強いのかと思いました。
御修法の儀礼空間の構造はよくわかりません。東西に金剛界と胎蔵界の大きなマンダラをかけておくのは、空海の密教寺院の基本的な構造ですが、それ以外の五大尊や十二天の配置は謎です。ただ言えるのはどちらも中心を持ち、左右が対称になっていることです。五大尊は祭場の中央に位置しているので、理解は容易ですが、十二天は東の壁を中心にしています。これは西の壁にある護摩壇とも対になっているように見えます。十二天は基本的に護法尊のグループなので、儀礼の空間を守る役割を果たし、マンダラや五大尊の画像とは儀礼における位置づけや機能が異なることも推測されます。火天(インドではアグニ)は聖仙(伝説的な聖者)のイメージを持っています。これはヴェーダの祭式をつかさどる祭官のイメージとも重なりますが、ひげを生やし、やせた男性像で、しばしば年輩の姿をとります。授業で紹介した十二天画像は平安後期の作ですが、これらのインド起源の神々は、本来の姿をおどろくほど忠実に受け継いでいます。陰陽道は密教の影響を強く受けていますが、詳しいことはわかりません。五輪塔の墓は北陸ではあまり見ませんが、高野山では奥の院の参道が何千何万という五輪塔で埋めつくされています。高貴なものの墓として一般的だったようです(昔は普通の人には墓石は用いなかったでしょう)。

何となく前回も「聖」というのを聞き流していたが、今回「聖」ってなんだろうと思いました。俗に対して聖といいますが、聖は宗教そのものということなのでしょうか。俗にいる僧侶たちがめざすところとして聖があり、つまり、それは宗教の中で見いだせるもの(何かはわからないんですが・・・)なのでしょうか。皇帝が左右対称となるところの中心にいて、その左右を超越するという意味を持つということは、皇帝は聖として見られているということでしょうか。それとも、聖と俗との緊張関係であるシンメトリーすら越えてしまっているから、もっと別のすごい存在とかですか。むずかしいです。
むずかしいですね。聖は英語のsacred、ドイツ語のHeiligeなどに相当する用語です。宗教学でよく用いられますが、R. オットーの『聖なるもの』(岩波文庫に翻訳あり)などが、学術用語として用いたはじめでしょう。授業でも紹介したエリアーデの『聖と俗』(法政大学出版局)は、この分野の基本図書です。聖と俗は対比的に用いられますが、両者の差異は絶対的なものではありません。人間は、いかなるものも「聖なるもの」を見いだします。人間が信仰の対象とするものに限定はないからです。しかし、聖なるものがある種の類型を持つことも事実です。授業で取り上げた「聖なる空間」に、円やグリッド、シンメトリーなどが共通してみられるのはそのためです。聖は宗教そのものではありませんが、われわれが宗教的な感情や感覚をいだくのは、聖なるものにふれたり、感じたりするからであると考えることができます。エリアーデの『聖と俗』は、宗教学以外にもさまざまな分野に大きな影響力を持った本です。一度、読んでみて、聖についていろいろ考えてみて下さい。

護摩行はテレビで見たことがあります。炎の熱さに耐える修行なのかと思っていました。
たぶん、とても熱いと思いますが、忍耐力を養うことが目的ではないようです。逆に、冬季の護摩は暖かくてちょうどいいかもしれません。もっとも、実際に護摩を焚いている僧は精神を集中しているので、あまり熱さは感じないと聞いたこともあります。

比較的意味のわかる長行偈頌より、意味不明の陀羅尼の方が聞き手(聴衆)にとってありがたく感じたのだと思います(秘密めいたものの方が誇大妄想もしやすい)。と同時に、その秘密を有する専門家=僧侶の地位も揺るぎないものとなったと思います。五輪塔でも火は三角形で、五つの中心にありましたが、五輪塔の「地水火風空」と五大明王は対応してるのでしょうか。
儀礼における言葉の問題は重要です。とくに古代インドの祭式においては、儀礼で用いられるマントラ(真言)が決定的な意味を持ちます。マントラこそ神々とコミュニケーションを取ることのできる唯一の媒体だったからです。供物もマントラがなければ神々に届くことはありませんでした。仏教で用いられる真言も同様で、仏との接触の重要な手段です。密教儀礼で言葉が難解であることは、上記の儀礼の所作の複雑化とも関係するでしょう。専門的な立場から興味深いのは、護摩がヒンドゥー教の儀礼から取り入れられたにもかかわらず、マントラをはじめとする儀礼の言葉は、まったく共通していないことです。儀礼を構成する要素として、言葉が特別な位置を占めていたことが想像されます。五輪塔の五元素と五大明王は気が付きませんでした。たぶん関係はないと思いますが、気を付けて見てみます。

今日(5日)の朝日新聞地方欄に羽咋市寺家遺跡の記事が載っていました。それによりますと、奈良時代後半(8世紀)と推定される火祭り跡「火処(ひどころ)」などが発見され、繰り返し火をたいては粘土をかぶせて消したことがうかがえるといい、「神迎え」の儀式をした場所とみられるということです。また、平安時代前期(9世紀)の遺構からは、約30平方メートルの方形に石を並べ、内側の焼いた砂の上に土器や帯金具、鏡、刀を置いた場所も見つかっており、区画した中を火で清め、食器や武具を供え神を迎えた祭祀跡とされ、古代の神社の祭祀に火が重要な役割をしていたと書かれていました。9世紀といいますと密教の護摩との接点がどうかなという気もしますが、関連がないとしても、宗教、民族を問わず火というものが持つ「聖なる力」に対する信仰が見られ、昨日の講義で護摩の話があったばかりなので、興味をそそられ報告したくなりました。
早速新聞を取り出して見てみました。護摩とは直接の関係はないようですが、たしかに興味深いです。ゾロアスター教をはじめ、火を神聖視する宗教は世界中にあるようです。修験の柴燈護摩や神道の火渡りの儀式もそうですね。(参考までに新聞の切り抜きを紹介しておきます)