第8回 不動と儀礼:後七日御修法


来振寺の大威徳明王を見て、雷様をイメージしてしまいました。火炎の渦が太鼓のように見えたのですが。そう思ってしまうと、虎のパンツなども共通しています。ひょっとして何か関係があるのでしょうか。
たぶん、関係ないと思いますが、明王に見られる忿怒のイメージが、鬼や雷神などの「恐ろしい神」のイメージに影響を与えたかもしれません。雷神は菅原道真が死んで怨霊になったあとに姿を変えたものとして、北野天神縁起などの絵巻物に描かれています。また風神と一組になって表されることもあります。風神については、インドや西アジアにまでその図像の起源がさかのぼることを、田辺勝美氏が「アレクサンドロス大王と東西文化交流展」の図録に書いています。雷神についてもそのイメージの源泉をたどってみるとおもしろいかもしれません。

スライド降三世明王(東寺)で、女の人はかわいそうだから踏まれなくなったという説明があったが、不思議な感じがした。そもそも神に男女の違いがあるのが心の中でしっくりこない。社会的、思想的に「女の人が弱くかわいそう」という女性=弱者?のようなイメージが生まれたから、女の人は踏まれなくなったのですか。
これは少し口をすべらせました。烏摩妃の表現が、平安初期から後期にかけて変化することはたしかなのですが、その理由に確たるものがあるわけではありません。女性云々というのは勝手な憶測です。ただし、経典や儀軌には「降三世明王は右足で烏摩妃の乳房を踏みつける」という規定があり、インドの降三世や初期の日本の作例では、必ずそれを守っていました。これを拒絶して新しい姿で描くためには、何らかの理由があったはずです。仏教の明王系の仏が、ヒンドゥー教の男女の神を踏むのは、後期密教でも継承され、チベットでも見られます。そこでは、女神も踏まれる場合もありますが、男神のみが踏まれ、女神はその横で、男神を踏んでいる仏の足に触っている場合があります。足を何とかして、男神から動かそうとしているようにも見えますが、日本の烏摩妃のように、足を支えているようにも見えます。このあたりの図像がひょっとしたら関係するのかもしれません。なお、神に男女の違いがあるのはヒンドゥー教では一般的で、夫婦や家族を構成する多くの神がいます。

来振寺の明王の図に描かれている使者たちがとても気になった。動物の頭をしてたり、おびえていたりしておもしろいと思った。私は岐阜県出身なので、ぜひ実物を見に行きたいと思った。小さくてあまりよく見えなかったので、近くで見てみたい。
たしかにおもしろいです。獣頭、三面、竜頭などいろいろいましたし、おびえたり、ひっくりかえっているのもいたり、さまざまです。中心に描かれる明王たちが、ことのほか恐ろしく巨大に描かれているので、その対比もよくできています。使者たちに見られるようなグロテスクなイメージが、どこから来るのかよくわかりませんが、いろいろな系譜が可能性として考えられます。たとえば、インドでは釈迦が悟りを開く前に悪魔を降伏させた降魔成道図に、これに似た悪魔たちが登場します。また、ヒンドゥー教のシヴァやドゥルガーなどの女神たちが、このような姿をした眷属を率いる場合があります。ぜひ実物を見て調べてみて下さい。比較的写りのよい大型の図版が、奈良博の「明王展」の図録に含まれています。

今日の「聖なる空間」の話は、結婚式の例でわかりやすくおもしろかった。ずっとなぜなんだろうと思っていたのですが、像に表そうとすると「人間」の姿かたちになっているのは不思議だと思った。その方がわかりやすいからなのだろうか。
神や仏を何らかの姿であらわすときに、人間の姿をとるか取らないかは大きな問題です。神と人間が同じ姿をするというのは、「神人同形説」といって、キリスト教の神学でも議論されました。世界の宗教を考えた場合、必ずしも人の姿をとるばかりではないことはよく知られています。ユダヤやイスラムのように、人間はもちろん、いかなる姿や形をとることもない宗教もありますし、日本の神道のように、三種の神器に代表される特定の「もの」によってそれを表すこともあります。インドの仏教美術でも、古くは釈迦を人の姿で表さず、仏足跡や法輪、仏塔、菩提樹などのシンボルで表しました。一般に「人の姿で表すのはおそれ多い」とか「タブーであった」という説明がなされますが、これはべつに法律のように禁止されていたわけではありません。むしろ、このようなシンボルで表す方が、釈迦を表現するのにふさわしいと思ったからです。一般に、「聖なるもの」を何らかのかたちで表す場合、かならずしも写実的な表現が理想的であるわけではありません。むしろ、類型化されたシンボルのようなものの方が、適当である場合が多いのです。これは「聖なるもの」の表現方法という、宗教美術を研究する上での重要なテーマです。

聖なる時間や空間というのは、すごく個人的なものだと思う。今日の講義で例として出てきた誕生日や結婚式などはその最たるものだ。同じ時間、同じ場所にいても、結婚するという人と、単なる客では感じ方がまったく違ってくると思う。ただ、そういう空間や時間を用意することによって人々の意識をそういう方向にもっていきやすくはできると思う。
たしかにその通りです。聖なるものを感じるという体験は、個人に属しますし、また時代や環境によって大きく左右されるでしょう。現代の人々は宗教的ではないと言ったりしますが、これは聖なるものを感じる機会が少ない、あるいはそれを感じる感性が発達していないと言いかえることができます。しかし、その一方でクリスマスなどの特定の「聖なる日」は大きな意味を持っていますし、血液型や星占い、風水などの流行、「気」や「霊」などの小説やアニメへの浸透などを見ると、人間が生きる上で「聖なるもの」との接触は不可欠であるという気もします。そして、それは個々人の問題ばかりではなく、社会全体で一定の潮流のようなものもあるでしょう。「聖なる空間や時間を用意すること」が、共通する意識を人々に持たせるのはその通りで、そのような装置のことを「儀礼」と呼ぶのです。

儀礼が文化、社会の強制を受けていることがおもしろかった。日常とは別の時間、空間のはずなのに、根底には日常があるのだなと思いました。聖なる空間のシンメトリーやグリッドは、西洋の英国式庭園などに見られるバロックと同じように、権威の誇示という意味合いもあったのでしょうか。長安にはあるように思えますが。
聖と俗という視点からは、儀礼と日常は切り離されていますが、日常世界を類型化、先鋭化して提示するのが儀礼とも言えます。聖なる空間が「権威の誇示」という機能を持つのはその通りです。古代社会においては(あるいは現代でもそうですが)、権威とはしばしば神的、霊的なもので、宗教的な意味を伴います。むしろ、そのような背景を持たないような権威とは存在しなかったかもしれません。先週の文献で紹介した『長安の都市計画』は、唐代の長安が中心ですが、このようなことを考えるにはとてもよい本です。イギリスの庭園に関しては専門外なのでよくわかりませんが、英文学者の川崎寿彦氏の『庭のイングランド』(名古屋大学出版会、1983)が文化史論的におもしろいです。

醍醐寺の降三世明王の絵で、烏摩が日本の着物のような服を着ているように見えたんですけど、烏摩はもとからそういう服装なんですか。
もとはそうではありません。インドではインドの神様らしいというか、それほどぱっとしない姿で表されていたようです。烏摩はもともと絶世の美女とヒンドゥー神話では言われていますし、烏摩と同一視されるドゥルガーも、美しく表現されるのがつねですが、降三世明王像ではあまりそういうことはなかったようです。醍醐寺の絵画でも、あるいはそれよりも古い東寺講堂の彫像の例でも、烏摩は中国の女官のような着物を着ていますし、髪型もそんな感じです。これは夫の大自在天も同様で、中国風の着物で、官吏のような姿です。これは中国の天や天女のイメージのようで、ヒンドゥーの神=天ということで採用された姿でしょう。文献ではとくに服装や髪型の規定はないようです。

大威徳明王は死の神のグループにはいるわけではないようだが、どくろの首飾りなどをしている様子を見ると、そのグループにとても近いもののように感じる。シンメトリ−な街を構想したとき、東西南北の方向に何を設けるかというのは問題になったのではないだろうか。今でも北枕はよくないなどといったりするが、そのあたりはどうだったのであろうか。
 大威徳は一方では文殊やスカンダなどの童子神と関係を持ちますが、もう一方では死の神であるヤマなどとも密接です。大威徳の原語はヤマーンタカ(yamantaka)といって、名前の一部にヤマが含まれます。後半のアンタカは「最後、つまり死をもたらすもの」という意味で、やはりヤマの異名です。しかし、後世になると「ヤマに死をもたらすもの」という解釈が生まれ、ヤマを降伏させた明王にかわってしまいます。このことはヴァジュラバイラヴァという、それをもっとエスカレートさせた仏に受け継がれ、ヤマの降伏神話の主人公となります。ヴァジュラバイラヴァはチベットやネパールで信仰されましたが、その顔はヤマや大威徳の乗物である水牛で、足の下にはヤマを踏み、頭上には文殊の顔をいただくという、それまでのイメージを総動員したような人工的な姿です。日本の大威徳明王でも来振寺のものなどは、インド以来のデーモン的なイメージがよく残っていて、当時の日本人にとっては正視に耐えないほど怖いものだったのではないでしょうか。
 都市のプランと方角の関係は重要です。中国の場合は風水が基本になっているようで、これは日本の平安京などでも明確に認められます。風水思想そのものはかなり早くから日本に伝わり、キトラ山古墳などでも、白虎や青龍などの壁画が最近見つかって話題になりました。インドでも都市や建物を造るときは方角が重要になります。中国以上にさまざまなタブーや規定があります。

聖なる空間の話のとき、なぜ、根本的に人間は秩序を求めるのだろうかと思った。ひとつの空間で集団が生活している場合は、社会や文化の強制が加わるけれど、たったひとりの場合でも自分の世界に秩序を求めるのはなぜだろうかと思った。
おそらく、秩序をまったく求めない人間というのは存在しないか、あるいはいたとしても、それでは精神の均衡を保つことができないのではないでしょうか。社会や文化のはたらきを「強制」と言えるかどうかはわかりませんが、少なくとも、人間の生存のためには必要不可欠なものです。そういう意味で、たったひとりの世界というのは、おそらく存在しないでしょう。人間が自己を意識するのは、他者の存在があるからです。逆説的ですが、自分しかいない世界とは、自分そのものの存在も確認できない世界です。

十忿怒尊の画一化には、何か意味があったのだろうか。持ち物と名前だけでは、個体が識別しにくいと思う。画一化していったのは十人を個別に描くことよりも、十人そろったものを描くことに意味があるからかもしれないと思った。空間の中の場所の持つ意味は、日常生活でも身近でおもしろいと持った。飲み会でも上座、下座があるし、舞台でも上手、下手があり、それなりの意味がある。聖なるとまでは行かないが、ひとつの構造をもった空間なのかもしれない。
前半の十忿怒尊の画一化については、文献で紹介した私の論文(「十忿怒尊のイメージをめぐる考察」)の中で、いくつかの見解を述べています。そのひとつの理由は、ご指摘と同じ、グループとして表現することが重要であるというものです。そのほかにも、持物などのポイントを変更するだけで、新しいメンバーをつぎつぎと生み出すことができるという利点もあります。この論文は10年以上前のものですが、そこで用いている「イメージの持つ意味の喚起力」という考え方は、現在でもあまり変わっていません。一度、読んでみて下さい。後半のコメントはその通りですので、いろいろな事例で考えてみて下さい。社会的な秩序と宗教的なヒエラルキーは、一致しないまでも、しばしば重なって現れます。それが端的に示されるのが儀礼のような場面です。

密教儀礼はどういう過程で成立したのでしょうか。
簡単には説明できません。密教儀礼の代表的なものをいくつか取り上げ、『マンダラの密教儀礼』という私の本の中で、その形成と展開を扱っています。

儀礼の方法と空間の相互関係は非常に興味深かった。僕が聞いた授業では、儀礼は空間、時間、地位等の移行時に行われるという面のみが強調されていたので。
仏教やインドの宗教を扱うものがこれまで儀礼を分析するときには、ほとんどがその時間的な流れにのみ注目していました。これは文献が「次第」という儀礼の手順を説明することが一般的だったので、その流れにしたがったからです。しかし、授業でも言ったように、儀礼は時間と同時に空間とも密接に関係します。しかも、授業で扱うような彫刻や絵画は、いずれも儀礼空間の一部を構成するものです。逆にマンダラのような密教美術を、単なる絵画としてみるのではなく、儀礼空間の一部ととらえることで、儀礼におけるその機能なども明らかになります。移行時の儀礼を重視するのは、人類学や宗教学において「通過儀礼」に関する研究がさかんだったことによります。フランスの人類学者ヴァン・ヘネップによる『通過儀礼』という研究書などが、古典的な著作として重要です。たしかに通過儀礼には、その社会や文化のあり方が端的に観察されることがあり、儀礼研究の格好の対象となります。しかし、仏教儀礼や密教儀礼の場合、通過儀礼的な視点からは、あまり読みとれるものがないのも事実です。

聖なる空間に関してですが、「聖なる」とあっても光のイメージをあまり感じません。今現在、私たちが見る寺院や曼荼羅にあまり色彩がないからかもしれませんが、キリスト教の教会などに比べて、同じ聖性を感じても、その質が違うように思えます。ただ単に、私がそう感じるだけかもしれませんけど・・・。どちらにしても、宗教や宗教儀礼には、暗いイメージがあります。
ご指摘のように、聖なる空間と光は密接な関係があります。宗教そのものと光と言いかえてもいいかもしれません。たしかに、キリスト教の教会は、ステンドグラスに見られるように、光を重視した設計になっています。それに比べて、仏教の寺院は光に無縁のような気がします。しかし、たとえば浄土系の寺院では、阿弥陀三尊をまつるお堂の西の面を壁ではなく障子にして、夕陽の自然光が入るようにして、西方浄土のイメージを再現するということもあります。兵庫の浄土寺などはその代表的な建築例です。あるいは、自然光よりも、ろうそくの光などの人工的な光を巧みに使う場合もあります。たとえば、日本に残る最古の両界曼荼羅の高雄曼荼羅は、紫綾紺地に金銀泥、つまり紺色の綾の布に金と銀の線描で描かれています。このような曼荼羅はインドや中国でもあまり見ることがありません。高雄曼荼羅が彩色ではなくて金銀泥の線描で描かれたのは、儀式の空間にかけらたろうそくの光の中できらきらと光るという効果があったのではないかと推測する研究者がいます。暗闇の中でろうそくの光に照らし出された大幅の曼荼羅が、儀礼の舞台装置として重要な役割を果たしたというのです。背景の紺色の綾は暗闇に溶け込んでしまうので、仏の姿だけが浮かんでいるように見えたのでしょう。一般に、光は宗教体験や神秘体験において重要な役割を果たします。瞑想の中で行者の意識の中に顕れる光は、非日常的な強烈な光で、特別なエネルギーのかたまりのように感じられるそうです。奇跡や神秘的な出来事が起こるとき、しばしば光を伴うのも同じことでしょう。われわれ現代人は、光にあふれた生活をしている分、逆に光に対して無神経になっているのかもしれません。

なんの関係もないですけど、仏の乗っている蓮華と、畳の縁と似て見えました。(うんげん縁だか、高麗縁だかの)。以前たまたま東寺の御七日御修法を再現した展示を見る機会に恵まれたので、今日の内容も取っつきやすかったです。儀礼の話では、教会のミサを連想しました。もうすぐクリスマスですが、ミサのはじめにキャンドルに火をともしたり、祭壇の大きなろうそくに火をつけたあと、聖歌を歌って、いっせいに火を消すところなど、同じような仕組みなのかなと思いました。
 後七日御修法は私は簡単な解説や論文で見ただけで、実際の儀式を見たことはありません。昔よりもオープンにはなっていますが、それでも真言宗にとっては秘儀中の秘儀なのではないかと思います。現在でも1月の所定の期日に、真言宗の各派から僧侶が集まって、合同で実施しているようです。展示であっても、実際の舞台設定を直接見ることができたのはうらやましいです。空間と儀礼の関係は、もちろん、キリスト教でも適用できるはずだです。結婚式の例を出したのは、それが現代の日本人にとって、仏教の儀礼よりもはるかにイメージしやすいだけです。それぞれが、自分のよく知っている儀礼で、いろいろあてはめてみるといいでしょう。また、宗教に限らず、入学式や卒業式などのいわゆるセレモニーでも同様です。
 蓮台の文様については、私もよくわかりません。繧繝(うんげん)彩色は前に取り上げた甚目寺の不動の台座に見られました。先週の来振寺の大威徳が乗る台には、団花文のような装飾が見られました。どこかの段階で畳の方が仏画などの影響を受けて、それを取り入れたのでしょうか。