第6回 不動明王の眷属たち


元寇に関係した不動があるということをはじめて知った。仏像は宗教関係の人たちだけのためだと思っていたけれど、政治的な使命を持つ仏もあるということがわかった。元寇当時の幕府の人たちは、こういう仏を拝んで、国の安全を祈ったりしたのかなぁと思った。
日本における宗教、とくに平安時代や鎌倉時代の宗教を考える場合、政治との関係を抜きにしてはおそらく何も説明できないでしょう。空海が中国から真言密教を導入したのも、国のため、あるいは極端な言い方をすれば、天皇のためだったのです。新しい宗教を伝えるというよりも、最先端の技術を導入したと見るべきです。現代なら、アメリカに留学したエリート科学者が、国家にとって最新鋭の知識、たとえば軍事技術を学んできたようなものでしょう。空海がその最晩年にはじめた「後七日御修法」は、その集大成とも言うべき国家儀礼です(これについては今回ふれます)。そもそも政治と宗教は太古の昔から現在に至るまで、密接な関係を持ち、不可分であると見た方が妥当だと思います。仏像に話をもどしますが、国家の危機的な状況と結びついた不動がいくつもあることが興味深いところです。高野山の南院の「波切不動」は、もともと空海が中国から帰途につくとき、暴風雨の中で船を救ったことで有名でしたが、平将門の乱、藤原純友の乱、元寇などのときには、その現場近くまで持ち出され、祈祷されました。このような話は決して古代や中世のことではなく、先の太平洋戦争でも行われています。平安時代の密教が鎮護国家の役割を果たしたということは、高校までの教科書でも出てきますが、それはこのような仏像を介して行われたのです。そこでは仏像は単なる信仰や礼拝の対象ではなく、まさに生きた存在だったのでしょう。

不動にもいろいろあって、おもしろいなと思った。どの不動にも深い意味が含まれており、興味深い。私は宗教というものにあまりなじみがないので、夢を真実と考え、聖なるイメージの力という考え方がまったく理解できない。夢は単なる夢ではないのだろうか。
宗教と無縁の人生を送ることができれば、それはそれでいいことだと思いますが、授業でしばしば用いる「聖なるもの」とか「聖性」のようなものが理解していただけないのは、少し都合が悪いかもしれません。特別に宗教と意識する必要はないので、たとえば星占いとか血液型による性格判断とか、昔からのしきたりとか、何でもいいのですが、合理的に説明できないものや科学的根拠を欠いているものでも、自分の行動に何らかの影響を及ぼすものを例にすればいいと思います。あるいは、日常生活の中での特別な時間、たとえば正月やクリスマス、冠婚葬祭の儀式の日などに、「ふつうではない」という感覚を持つと思いますが、それは「聖なる時間」と呼ぶことができます。同じことは空間でも同様で、大きな神社や仏閣などを訪れると、独特の雰囲気を感じますが、これも「聖なる空間」をわれわれが感じるからです。これらがわれわれの感情や行動に特別なはたらきを及ぼすときに、そのようなはたらきを「聖なる力」と呼ぶことにしています。授業に即して言えば、仏像はもとをただせば木とか金属でできたかたまりなのですから、それはたとえば、まな板とか鍋とかと同じことなのですが、それを目にするわれわれは、台所用品を見るのとは違った感情を持つのが自然ではないでしょうか。(すぐれたデザインのお鍋に聖性を感じる人がいるかもしれませんが、それはまた別の話です)

童子の名前はまたむずかしいなぁと思いました。五人目からは○○菩薩じゃないんですね。これらの名前もそれぞれ意味を持っているんでしょうか。
たしかに四人目までは菩薩がついていますが、五人目以降はついていませんね。私も気が付きませんでした。配付した資料の経典を見ると、前半の四人は四智、後半の四人は四波羅蜜と対応しています。前者は仏の四種の智慧、後者はその智慧を得るための実践項目です。ふたつのグループに分けて、両者に格差を付けているようです。二童子としてなじみの深い衿迦羅と制多迦は最後のふたりなので、格下の方になります。それぞれの名前のうち、恵光、恵喜、指徳、清浄比丘は漢字の意味で取ればいいのですが、阿のく達や烏倶婆がはサンスクリットの音を写しています。ただし、阿のく達はanuttaraで「無上」という意味があるのですが、烏倶婆がはよくわかりません。衿迦羅はkiオkara、制多迦はce akaで、いずれも「使者」を表します。八大童子はインドまでは文献も作例もさかのぼれず、おそらく中国で創作されたと思いますが、中国にも作例はありません。

あまり長くはふれられなかったけれど、通常は香を焚くことなどによって、油で黒くなったりするものなのに、そうなっていないのはなぜか。みたいなそういう話にはすごく興味を持ったので、またそういう話も是非入れて欲しいです。
一般に不動堂というと、中で護摩を焚くことが一般的です。日本の護摩は不動を本尊として行われ、その建物は護摩堂とか不動堂と呼ばれます。護摩については不動の儀礼のところで取り上げる予定ですが、炉の中で火を燃やし、供物をそこに投げ入れます。火は護摩木と呼ばれる小さな薪が用いられますが、同時に「蘇油」とよばれる油も入れます。そのため、護摩を行う場所はたいてい油を燃やしてできる煤煙などで黒くなっています。しかし、八大童子が安置されていた不動堂は、護摩の炉もありませんし、建物全体もまったくすすけていません。不動も八大童子も同様です。不動堂は本堂の両脇に小さな座敷があったりして、作りそもそもが通常のお堂としても特異な形をしています。最近の研究によれば、臨終行儀と呼ばれる浄土教系の宗教儀礼が行われていたのではないかと言われています。また、もともとは現在の位置にはなく、一キロメートルほど北にあり、すぐ前には一心池という池があったそうです(移築は明治のはじめに行われました)。池を前にして、西に開口部があるのも浄土教の寺院の特徴です。

母方の先祖は修験者だと聞いた。修験者とは何をしていた人なのかとたずねても、母もよく理解していないらしい。いつもどこかに引っかかっていた言葉だったので、修験道の話が出てきたときにはっとした。仏像とは直接的には関係ないかもしれないが、修験道やそれに関する資料があればぜひ読んでみたい。
日本密教は本来、山岳宗教と密接な関係を持ち、空海も唐に渡る前には各地の山で修行をしていたことがわかっています。帰国後に修行の場として高野山という山の中を選んだのも、そのためです。すでに若い頃からこの場所のことはよくわかっていて、目を付けていたのです。天台宗も比叡山という山を拠点として、修験との結びつきはむしろこちらの方が顕著だったかもしれません。修験というと山伏の姿をし、山々をめぐる回峰行ぐらいしか思い浮かびませんが、日本の宗教や文化の基層のひとつとしてきわめて重要な位置を占めます。修験については不動のさまざまな信仰のところで、取り上げるつもりです。資料などはその時にまとめて紹介しましょう。

仏像に魂を入れる儀式があるといっておられましたが、以前、仏壇を捨てる前に魂を抜く儀式をしなければならないと聞いたことがあるのですが、何か関係があるのでしょうか。
大いに関係があります。仏壇と言うより、そこにおさめられている仏像(仏画)から魂を抜きます。逆に新しい仏壇を購入すると、魂を入れる儀式を行います。寺院に新しい仏像を安置するときにも開眼供養を行いますが、仏壇の場合もこれにならったものです。仏像だけではなく、寺院や仏塔のような建築物も、完成したときに落慶法要(らっけいほうよう)を行いますが、これも基本的には同じです。これらはまとめて完成式と呼ぶことができますが、類似の儀礼はインドで広く行われていて、密教の儀礼はその伝統を受け継いでいます。日本ではこのような儀礼はさらに裾野を拡大します。たとえば、針供養とか人形の供養なども、類似の儀礼としてとらえることができるからです。いずれの場合も、単なる「もの」が何らかの力を帯び(人形や仏像であれば「魂が宿る」と表現できます)、その力をコントロールする儀礼が必要になるのです。

不動明王二童子像や降三世明王が足で人や神を踏みつけているという格好には、どのような意味が含まれているのでしょうか。水晶づくりの童子達の目は本当に綺麗で、見ていてひかれます。大げさかもしれませんが、今まで像の類で、こんなに目が綺麗だと思ったものはないかもしれません。
不動明王二童子像(MOA美術館)が大自在天とその妃烏摩をふみつけているのは、文献の根拠もあるのですが、降三世明王をまねしたものです。降三世明王がこのような姿をしているのは、この仏が登場する説話に由来します。代表的な密教経典で、日本密教でも重視された『金剛頂経』という経典に含まれます。チベットの方に行くと、仏教の忿怒尊がヒンドゥー教の神やいろいろな人物を足の下に踏んでいるのを見ますが、これらのいわば原型にあるのが、降三世明王です。この明王については、今回取り上げます。八大童子の玉眼はほんとうに魅力的です。私も先週、ようやく「空海と高野山展」に行くことができ、八大童子もじっくり見てきました。

不動の立っているところが、海の中にある岩の上とか、なんでそんなのが思い浮かんだのだろうと思った。これもお坊さんが感得したことであるなら、どういう状況でこれが思い浮かんだのだろうと思った。そう考えると感得像でお坊さんが思い浮かぶイメージが、何となくあやしいなぁと思ってしまった。しかし、お坊さんはしかるべき知識があって、その上で感得したのだから、きっとあやしくはないだろうが、なぜ、そういうイメージが浮かび上がって来るかというところを疑問に思った。
海中の岩というイメージは、たしかに仏が立つ場所としてはへんですね。しかし、不動はもともと「盤石の上に坐す」というように、岩とは当初から結びついています。インドで成立したイメージなのでしょう。一方、海のような水との結びつきも、不動にはしばしば見られます。波切不動の伝説も、空海説話のひとつと見るより、不動が活躍する場として、水がふさわしいという通念があったからかもしれません。感得が行われた場所に、川や滝が多いことは授業でもお話ししましたが、これも水に関係します。不動が姿を変えたという倶利伽羅龍王も水の神であり、その龍が剣に巻き付く姿は、滝をのぼる龍に重なります(滝も瀧もさんずいに竜/龍です)。「水掛不動」というのが大阪にあって有名ですが、実際は日本中にたくさんあります。水行は密教でも修験でも行いますが、不動が行者の守り本尊となります。このように考えると、不動信仰は水にたいする信仰と重なる部分がかなりあるようです。感得についてはそのイメージの形成を授業では重視しましたが、それ以外にもいろいろな問題と結びついておもしろいですね。

みんなの質問・観想を読んでいると、授業で見た像がこれまでにならったり見たものと似ているとか、そういう感想が多くて、すごいなぁっておもいます。そうゆう見方ができるなんてうらやましい。想像がふくらんで楽しそうだし。私は今までは美術館も行かないし、お寺にはよく学校の遠足などで行っていたのですが、あまり像など見ていなかったし。いっぱい機会は与えてもらっていたのに、本当、もったいないことをしてきたなぁと思った。
これを機会にぜひいろいろ見るようにして下さい。また、ただ見るだけではなく、その作品の背景となる知識などもあわせて見ることで、さらに理解は深まります。「イメージを読み解く」という表現をしますが、そのような知識を蓄えることで、同じ作品がまったく違って見えることもあります。上質なものをじっくりたくさん見ることが基本でしょう。これは別に仏像だけではなく、絵や彫刻、音楽、演劇、映画など、芸術の分野で共通です。ぜひ若いあいだに目を肥やして下さい。

十九相観、御筆様によって形式化した仏をイメージしていては、民衆の心をつかめないというのは、まるで現代と同じだと思った。民衆に飽きさせてはならないというブランド戦略のようでおもしろい。お坊さんの中には、何とか新しい仏をつりだそうと意気込んで感得しようとされた方はいなかったのだろうか。
わたしも仏像などのイメージは、その宗教にとっての「イメージ戦略」のもっとも有力な武器だと思っています。宗教が力を持つのは、教理や哲学のようなレベルだけではなく、もっと具体的なものによることが多いからです。ただし、感得像の場合、単に「うけ」をねらったのではなく、もう少しいろいろな視点からとらえることができるのではないかと思います。黄不動にしても秘仏として受け継がれましたが、これは民衆の視野からは遠ざけることで、かえってその神秘性が増したと見ることができます。「意図的な感得」というのはそれ自体、矛盾した表現ですが、実はそれに相当するものがあります。授業では紹介するのを忘れたのですが「意楽」(いぎょう)といいます。阿闍梨(密教の師僧のこと)によって作り出されたオリジナルな仏のイメージをこのように呼びます。儀軌などの文献の典拠がない図像作品が、しばしば「阿闍梨の意楽」と呼ばれています。その場合も、特定の高僧による意楽のイメージが、権威を持つことがしばしばあります。

感得の話で、一度に複数の仏が現れることはないのだろうか。
密教の瞑想ではマンダラの瞑想も行いますので、複数の仏を生み出すこともあります。ただし、それはかなりテクニックがいるようです。マンダラを瞑想するというのは、宇宙全体を瞑想することなのですから。そこで、実際に密教の修行をはじめたような人には、無理はせずに単独の仏を小規模に瞑想するようにアドヴァイスするようです。むしろ、一度にたくさんの仏を生み出すことができるのは、先天的にそのような能力を持っている人に可能なのかもしれません。

規範は力を失っていく。異形は刷新する力を持つと授業でやったが、異形のものは多くでなかったのだろうか。たとえば、円珍のような立場の人は、世代にひとりは必ずいるわけで、座主になった人が一体ずつ感得し、像を描こうとはしなかったのだろうか。円珍はそれだけ尊敬されてたということ?異形のものが多くなったら、それらひとつひとつの価値が下がるというか。異形のものであるという意味をなさなくなるように思うのだが。仏教はキリスト教などに比べて信仰する対象がものすごく多い。仏の種類も多く、如来だけでも四つ、明王五つ、他に四天王や観音菩薩などいろいろあるが、それらを体系だてて知りたい。
ご指摘のように、規範と異形の関係はいろいろな問題を含んでいます。確かにすべて異形になってしまったら、異形であるという意味はなさなくなります。しかし、実際の不動の作例を見ると、特殊な不動といっても、それほど本来の不動のイメージから逸脱しているわけではありません。授業でも言いましたが、チベットの忿怒尊のようなグロテスクな不動は、それがどんなに強烈な印象を与えたとしても、実際には生み出されませんでした。異形であっても、イメージの「許容範囲」があったのです。また、異形がもつ「聖なるイメージの力」は、当時の社会や権力とも関係を持つため、日本史や日本文学でも注目されています。網野善彦『異形の王権』(平凡社 1986)は有名ですし、最近では阿部泰郎『湯屋の皇后:中世の性と聖なるもの』(名古屋大学出版会 1998)などが話題になっています。仏教の仏の世界については、授業の参考書としてあげた私の『インド密教の仏たち』を読んでみて下さい(生協に平積みになっています)。授業でお話しすることもあちこちで顔を出します。ただし、この本は仏の世界のことを網羅的、体系的に取り上げてはいないので、たとえば佐和隆研『仏像図典』(吉川弘文館 1962)などをあわせて参照することをおすすめします。

・「感得の場」と「水」に関して。そういえば「桃花幻記」は、川をさかのぼる話だし、孫悟空も滝をくぐり抜けて美しい新世界を見つけますね(雑談)。ところで円珍が感得した石窟も、「水」に関係あると思います。ふつう洞窟は地下水脈で削られてできることが多いので、随所に水がたまっていたり、滴がしたたっていたりするものです。水というのは絶えず形が変化し、また、たえず「音」を伴います。これらは瞑想→「もののけつき」=感得に達するための、催眠効果があると思います。
・夢の真実性、生成は、夢の持つ「思いがけなさ」つまり「操作不可能性」から来ていると思います。
水と異界との関係は、たくさんあると思います。これは、川や滝という地理的な条件と、水そのものの持つ宗教的な意味の両者が関係するでしょう。キリスト教の洗礼や、日本の神道のみそぎなどもそうです。円珍の感得の場と水とのつながりは、気が付きませんでした。文献中の「石龕」というのは小さな岩のほこらのようなものを想像していましたが、たしかに自然にできたものなら、洞窟のようなものかもしれません。空海も「虚空蔵求聞持法」という瞑想を若い頃に行い、神秘体験を得たことが伝えられていますが、これも四国の室戸岬の洞窟でした。瞑想と音との関係は確かに重要でしょう。夢については次の回答参照。

夢の中で仏を見ると聞いて、ずいぶんいいかげんだなと思いましたが、中世では夢を重要視していたということで、納得しました。中世に発展した能楽でも、夢の中で神様にあってありがたがる話があったので、きっと現代人とは夢というもののとらえ方が違うのだろうと思いました。しかし、今でも密教には感得というものがあって、夢の中で仏を見るということがあるのでしょうか。
夢の持つ意味はおそらく現代人よりも、中世の人々にとってはるかに重要だったでしょう。老若男女、身分の上下にかかわらず、かれらが夢からさまざまなメッセージを受け取っていたことは、今昔物語などの説話文学や、絵巻物などが豊富に伝えています。これらをまとめるだけでも、おもしろい研究になりそうだと思っていたら、河東仁『日本の夢信仰』(玉川大学出版部 2002)というのが最近出て、先を越されてしまいました。全体的には少しまとまりがないようですが、なかなかの大著です。現代人にとって夢があまり重要性を持たないようにも言いましたが、たとえばユングの心理学での夢分析などは、科学的なスタイルの夢占いかもしれません。予知夢を見る人も世の中にはかなりいます。「夢にこそ真実は現れる」というのは、むしろ一貫しているのでしょう。なお、現代の密教では感得像はおそらくあり得ませんが、夢は重要な役割を果たすことがあります。たとえば、ある種の儀式の前に「占夢」という一種の資格審査を行い、夢の内容から、儀式に参加できるかどうかを決定するプロセスがあります。