第5回  異形の不動


虚空を踏むというのは不思議ですね。宙に浮いているというなら何となくわかるけど、「踏んでいる」ということはそこに人間には見えない何かがあるという考えなのでしょうか。(円珍が見た姿であって、誰かが作り上げたわけではないのだから、考えというのもおかしいのかもしれないですけど・・・)
感得像ならではの表現でしょうが、たしかに不思議です。彫刻の場合、表現できませんね。黄不動が虚空にいることは、『円珍伝』でも記されていますから、基本的なイメージだったのでしょう。「何かがある」というより、虚空からこちらに向かってきたということではないかと思います。正面向きの像でありながら、左足をやや浮かせているのは、静止しているのではなく、動いていることを表しています。密教の瞑想では、不動などの仏が「降りてくる」という表現を用いますから、虚空を移動して来るというのが、基本なのでしょう。

「神は細部に宿りたもう」と今日のレジュメの質問コーナーにありましたが、今日見た金色不動明王の髪がきついパーマだとか、弁髪がないとか(以前の伝統的な不動明王の姿を排除してあると先生はおっしゃいましたが)それも何らかの意味がくわえられた結果の姿なのでしょうか。足の親指を立てるのは歌舞伎か何かでも怒りを表すしぐさのひとつだそうです。そんな共通点を発見しておもしろかったです。金色不動明王画像の足は、なんかギリシャあたりの「天地創造」の絵を彷彿とさせました。
作品の細部に注目するのは美術史の常套的な方法ですが、黄不動のような独特な特徴を多く持つ作品では、とくに有効です。これらの特徴が黄不動以前の作品にも見られることも、スライドで紹介しましたが、これらはいずれも過去の研究者が指摘しているものです。いずれもよく似ていて、驚かされます。しかし、ただ似ているというだけでは不十分で、作品の制作者やそれに関与した人物(この場合は画工と円珍)が、それらの作品と密接な関係を持ち、確実に見ていたという証拠も必要です。そのためには歴史的な知識も必要とされます。学問ですから、論証できなければ、単なる思いつきに終わってしまいます。「天地創造」はバチカンのシスティーナ礼拝堂に描かれているミケランジェロの壁画でしょうか。有名な「アダムの創造」や「最後の審判」では、見事な男性裸体像が見られます。筋肉隆々たる姿は、たしかに黄不動に通じますね。黄不動の人体表現は、この時代の作品の中でも屈指のレベルで、解剖学的にも非常に正確だそうです。

不動明王ひとつに対して、さまざまな見解があることが、とてもおもしろいと思います。どの説が主流であるか、一番説得力があるかは別にして、このように現在に残されてものについて、あれこれと考えるという行為自体が、とても楽しく感じられます。
授業で紹介した黄不動についての記述は、いずれもこの分野の定評のある文献から取ったものですが、ずいぶん違うことに驚かされます。有賀氏は美術史的な立場をとり、現在のところ、これがもっとも穏当な説だと思います。佐伯氏は感得説話そのものの信憑性にも疑義を唱えていますが、これを「作品・文献・意味」の枠組みでとらえると、既存の作品に説話的な意味を与えて、文献の形でそれを固定化していると見ることができます。佐和氏の引用は、黄不動に関する節の一部なので、少しわかりにくいのですが、その前の部分には実際に黄不動を拝観した感動が縷々述べられています。感得を体験する前から、円珍がすでにこのようなイメージを確立していたという説明は、突然現れた不動に対して、円珍が「誰ですか」という『円珍伝』の記述と矛盾すると思いますが、このような作品は感得した本人以外には描けるはずがないと佐和氏が断定するのは、実作品をまのあたりにした者ならではの直感なのでしょう。渡辺氏の黄不動評はいささか辛口に感じますが、インド文化に対する該博な知識と、それが日本の密教でも正しく受け継がれていることを実証してきた学者ならではの自負のあらわれです。いずれにしましても、作品を見るだけではなく、いろいろな立場の人の異なる見解を見ることで、作品をとらえる視点や枠組みが得られるのではないかと思います。「あれこれ考えるのが楽しい」のはその通りですから、いろいろ考えてみて下さい。

金大祭の時に那谷寺へ遊びに行きました。那谷寺は真言宗の寺で、不動明王の像も見ました。お寺にはいる前においてある水で手を洗ったり、すすいだりするところに不動明王の像がありました。うれしいのは不動明王の像をの実物を見たことです。不思議なのは、お寺の中に置いてある大きい仏像ではなくて、一メートル前後の高さでした。これは普通のことですか。
那谷寺は加賀市にある高野山真言宗の名刹です。広い境内にいろいろなお堂がありますが、岩場に龕を作って、修行をしていたとも伝えられ、独特の雰囲気を持っています。不動明王は真言宗のお寺ではもっともポピュラーな仏で、とくに護摩堂とか不動堂という名称を持った建物の本尊として祀られます。本堂で大日如来や阿弥陀如来の脇におかれることもよくあります。お堂の前で手や口を清めるところに不動がおいてあるのもよく見られます。不動以外にも観音や地蔵の像も多いでしょう。不動の場合、とくに「水掛不動」と呼ばれることもあります。これは不動と水の結びつきや、人間の死後に死者の霊を守る役割を不動が果たすことなどと関係します。不動信仰については、12月に取り上げたいと思っています。

最後の感得像に関する説明はわかりやすくてよかったです。ただ、今さら聞くのは本当に申し訳ないのですけど、密教とは・・・?
申し訳ないことは全然ありません。「密教とは何か」については説明をしていないので、わからないのは当然です。インド仏教の歴史を簡単にまとめれば、釈迦の時代を含む初期仏教(あるいは原始仏教)、部派仏教、大乗仏教、密教ということになります。インド仏教の最終的な形態が密教です。ただし、その時代も大乗仏教やいわゆる小乗仏教もありますので、段階的に変化したというわけではありません。また、密教の修行をすることが許されたのは、大乗仏教の修行階梯を終え、特別な能力(とくに実践における能力)をそなえたものだけといわれています。ある研究者は密教の特徴として次の5点をあげています。?現世拒否的態度の緩和 ?儀礼中心主義の復活 ?シンボルとその意味機能の重視 ?究極的なもの、あるいは「聖なるもの」に関する教説 ?究極的なものを直証する実践(立川武蔵 1992 『はじめてのインド哲学』講談社、p.173-4)。よくわからないと思いますが、同書や次のような文献を、まず手始めに読んでみて下さい。
松長有慶 1991 『密教』(岩波新書) 岩波書店。 
立川武蔵・頼富本宏編 1999〜2000 『シリーズ密教』全4巻 春秋社。
森 雅秀 1997 『マンダラの密教儀礼』春秋社。

曼殊院の黄不動と園城寺の黄不動がとてもよく似ていておどろいた。模写ってすごいと思った。だけど、何となく鬘殊院のものの方がスリムに見え、力強さに欠けているように思った。やはりまったく同じものを生み出すのはむずかしいのだなぁ。
私も今回、パソコンで両者を並べてみて、いろいろなことがわかっておもしろかったです。曼殊院の黄不動もそれ自体がすぐれた仏画で、力強さや迫力に満ちていますし、その画工の力量も並々ならぬものだったでしょう。しかし、授業でもお話ししたように、園城寺の黄不動と比べると、人体表現や衣装の描き方などに模写ならではの「弱さ」や誇張が感じられます。園城寺の黄不動から見れば、曼殊院本は複製になりますが、その後、生み出された多くの「黄不動」像は、ほとんどが園城寺のではなく曼殊院のものをさらに複製したことがわかっています。園城寺本が門外不出の秘仏だったためですが、そこでは曼殊院本がオリジナルの位置を占めます。このような関係はオリジナルとコピー、あるいは贋作と真作の関係でも捉えられますが、これは美術の世界においてつねにつきまとう問題です(お金も絡みますから)。厄介なのは、贋作がつねに真作よりも価値が劣るとは言えないことです。贋作であってもそれがすぐれた芸術性を備えることは可能ですし、場合によってはオリジナルを越えることさえもあり得るのですから。贋作を扱った読み物をひとつあげておきます。
ホーヴィング、Th.  1999 『にせもの美術史』雨沢泰訳 朝日新聞社。

渡辺照宏氏の言うようなことは起こりえないと思う。この不動の成立年代を中古のものとしているようだが、その時代に作者が他の不動を見たことがないというのはあり得ないのではないだろうか。質問に対する回答にも、円珍とその弟子たちも中国へ渡ったと書いてあったし、もし普通の不動とあまりに違うということが問題になれば、後代に修正されているはずではないか。それがされていないということは、黄不動は、資料不足に苦しみながら、何とかこじつけて描かれたのではなく、はじめからあのようなものとして描かれたと解釈すべきではないだろうか。
そのようにも考えられますが、渡辺氏にとって黄不動が美術史的に正統的な図像であるかどうかは、おそらく問題ではなかったと思います。インドの成人男子が付けるべきもの(ウパヴィータ)を、黄不動が付けていないことから、円珍が感得した内容の「うさんくささ」を指摘したのでしょう。「はじめからあのようなものとして描かれた」ということに、渡辺氏は別に異議を唱えているわけではないはずです。むしろ、感得像ということに注意が払われていないことの方が重要だと思います。前回の授業で強調したように、普通の不動と違うということは、感得像にとってはむしろ不可欠の要素であって、後代に修正する必要などなかったはずです。

円珍の感得について話が出ていたけれど、「見た」ということ、「感見」ということはどのくらい重視するのか?見たか、見なかったかということはそれほど重要であるのか。
それほど重要なのです。おそらく、感得にとっともっとも重要なことは、この「見た」という事実です。この背景には、密教の実践において仏のヴィジュアルなイメージが、絶対的な価値を持っていることがあります。神秘体験とか宗教体験というと、なにか霊感のような形のないものを想像するかもしれませんが、明瞭なヴィジョンを伴っていることが、ここでは必須なのです。ところで、平安時代の後期には浄土思想が流行し、来迎信仰、つまり臨終の場に阿弥陀が来迎し、極楽に導いてもらうことへの望みが、貴族社会を中心に広がりました。そこでは、死に行く者が来迎を確実に迎えられるように、まわりの者たちが特定の儀式を行います。これを臨終行儀といいます。臨終者もまわりの人たちも、来迎を「見る」ことだけを願います。そこでは「見ること」は、そのまま「救われる」ことに一致します。同じように、救済としての視覚体験を重視するのは『チベットの死者の書』でも見られますが、これについては最近、小文を書きました。掲載誌は比較文化研究室にあります。
森 雅秀 2003 「「見ること」による救い」『PSIKO』30: 40-43。

不動の作品は滋賀や京都のものが多いような気がします。関西でたくさん保有されているのですか。時代によって作品が違ってくるように、場所によってもまた違ってくるのですか。
不動は密教系の寺院にあることが普通で、真言宗であれば、京都の東寺と醍醐寺、和歌山の高野山が、また天台宗であれば滋賀の比叡山や園城寺に由緒ある作品が多く所蔵されています。授業では作品の質や様式の確かさなどから、これらの寺院の作品を中心に紹介していますが、不動は日本中にあります。主な作品は『不動総覧』(成田山新勝寺)に掲載されています。なお、県別に国宝の数を調べてみると、多いところとして京都、奈良、滋賀、和歌山、大阪、兵庫など近畿地方がおもにあげられます。東京も上位にありますが、これは東京国立博物館の所蔵品を数えるためです。場所によって作品の様式がかわるのは一般的で、日本では「中央と地方」と大きく分かれ(中央は当然、京都や奈良です)、地方についてはさらにそれぞれの独自色が現れます。

不動の巻き髪について。薬師寺の薬師如来の台座(よく高校の教科書に出てる)の夜叉の髪とも似ていると思いました。不動の巻き髪はインドをイメージしているのでしょうか。また、不動が明王なのに仁王立ちというのが少しおかしかったです。
薬師如来の台座は気が付きませんでしたので、図版を見てみました。髪型よりも、むしろ牙をむく姿が似ているようです。不動の巻き髪が何を意味しているのかはよくわかりませんが、夜叉との関係はたしかに注目されますね。インドの神や仏で、巻き髪を特徴とするものはあまりいないのですが、ヤクシャつまり夜叉の中に巻き髪や編んだ髪をとるものがいます。頭に載せた蓮華から、貨幣の帯を出す像を以前に紹介しましたが、これもヤクシャの一種と考えられています。毘沙門天の足を支えているのもヤクシャです(毘沙門天はヤクシャの首領です)。

お守り等にも鈴が付いていますが、鈴には何か特別な意味があるのでしょうか。黄不動の装身具に鈴がたくさん付いているのは、黄不動がパワーアップした表れなのでしょうか。
一般的に鈴は宗教的に重要な道具で、魔よけや招霊などに用いられます。儀礼で鈴や鐘を用いるのは、仏教に限らず広く見られます。日本でも古い時代に銅鐸を叩いたのは、おもに宗教儀礼のためと考えられています。黄不動が鈴をたくさん付けている装身具は、西院本の諸尊にも共通してみられますが、おそらく視覚的なイメージだけではなく、音に関しても、強烈な印象を円珍に与えたのでしょう。

瞑想中に感得した像とは、つまり、僧自身が思い浮かべていたイメージ図像なのではないでしょうか(たとえば、円珍はムチムチした不動ではなく、マッチョな不動を、知らず知らずのうちにイメージしていたから、感得像はマッチョな黄不動になったというパターンはあり得ないのでしょうか)。要するに、不動には「力強さ」が求められていたことの表れです。あるいは、感得像は個人の守護仏(神)的な要素があるのでしょうか。つまり、自分のオリジナルの不動を作り出すというのは、「自分の前に姿を表してくれた」という、不動からの特別待遇の拡大解釈の結果(一種のおごり)ではないか?ということです。
どちらの指摘も、その通りだと思います。通常から慣れ親しんだイメージであったから、それが合成されたような姿を感得像がとったというのは、円珍が目にしたはずの図像史料の中から、黄不動と共通するイメージを、美術史研究者が求めることと同じです。しかし、それにもかかわらず、『円珍伝』によれば、はじめは円珍には不動が誰であるかわからなかったというところも注目されます。どれだけイメージを作り出すことになれていても、それと同じではないところが感得像のおもしろいところです。不動が守護尊であるのは、黄不動以外にも不動の感得像が多く現存することと関係します。行者の守り本尊として不動は広く信仰されてきたからです(これについては今回お話しするつもりです)。