第4回 日本における不動図像の展開


マンダラの本は、スライド等で見るよりも迫力があって、思わず没頭してしまった。雰囲気もそうだが、絵や像の構成や人の顔が並んでいたりするような構図(細かいところですが)が、私の今まで見てきた絵や像と違うことが、単純に興味深い。とても力強い気がする。静かな絵でも力強さが感じられた。
回覧していただいたマンダラの本が印象的だったという感想が、他にも何人かいらっしゃいました。共著者としてうれしいことです。この本は授業でも言いましたが、大阪の国立民族学博物館で昨春に行われた「マンダラ展」の図録(展覧会カタログのこと)です。授業でお見せしているような国宝や重要文化財など何もないのですが、チベットとネパールの仏教美術を中心に「マンダラとは何か」を示そうとしたものです。会場の説明パネルも、8割ほどは私が担当しました。この博物館の企画展としては記録的な入場者数だったそうです(それでも、京博の「高野山展」などと比べると、一桁かそれ以上少ないですが)。そのため、来年の4月から7月まで、ほぼ同じ内容で名古屋市博物館でも行う予定です。機会があればお出かけ下さい。

円珍がもたらした様式が智証大師請来様であることはわかったが、高雄曼荼羅様との違いがわかるためにも、唐と日本の歴史的背景にも少し触れて欲しかった。この前の授業で、羂索というものは敵を縛り上げるものだとわかったが、密教文化の少し前の(天平か、飛鳥、白鳳か忘れましたが)文化で、「不空羂索観音像」があるが、たしかこの観音の「羂索」は、絹のようなひれのようなものだったと思う。この羂索と不動明王の羂索は同じものなのだろうか。教育実習の授業でやったのだが、その時の指導の先生は、「羂索は人々を救うため。このひれを垂らして人々を救うんだ」と言っていたが、本当はどっちなのだろうか。
 まずはじめのコメントについて。円珍(智証大師)は天台宗では開祖の最澄から数えて3代目の座主になります。最澄と空海は同時代の人物で、同じ時期に遣唐使として唐に渡っています。帰国後、空海が真言宗、最澄が天台宗を開いたことは、よくご存じだと思いますし、いずれも平安時代の仏教の主流となる(すくなくとも平安前期の)密教を日本にもたらしたと説明されます。しかし、二人が唐で学んで日本に伝えた密教は、かなり異なるものでした。端的に言って、空海の密教は長安を中心に流行していた正統的な密教で、とくに『大日経』と『金剛頂経』というふたつの重要な経典の伝統を継承しています。これに対して、最澄の方は、そもそも密教のことは念頭になかったのですが、中国に行ってから、その重要性に気づいて、あわてて学んだようです。そのため、彼が学んだのは密教の伝統の中でもかなり特異なものでした。帰国後、そのことを知った最澄は空海に密教の教えを請うという屈辱的な立場に立たされますし、結局二人の関係は決裂します。天台にとって、正統的な密教を学ぶということは、宗派創立以来の課題だったのです。円珍やその兄弟子の円仁が中国に渡った最大の目的もそのためです。彼らが唐に滞在したのは空海よりも一世代も二世代も後で、そのころの中国密教も空海の時代からは変質していました。不動の図像の違いも、このことに起因します。また、空海が密教の中でも最先端の情報を取り入れようとしたのに対し、円仁や円珍はむしろ、伝統的な密教に関心を示したようです。彼らの伝えた密教図像が、空海のものよりも古い形式を備えていることがあるのはこのためです。
 二つ目の羂索について。不動の羂索も不空羂索の羂索も同じものです。教育実習の授業でご覧になったのは、おそらく東大寺法華堂の不空羂索観音立像(時代は天平)だと思いますが、持物の羂索は組み紐のようなもので、後補です。仏教的な理解では、どの仏が持っていても、たいてい羂索には衆生救済という意味や機能が与えられているので、教育実習の時の先生の説明は間違いではありません。しかし、羂索にそのような解釈が与えられるのは、日本で成立したかなり後世の文献で、インドまではさかのぼれません。前にも書きましたが、一般書に「猟師の投げ縄や、漁師の網のようなもの」と説明されるのはこのことです(「ひれをたらす」というのは、はじめて聞きましたが)。授業でよく強調する「図像に対して後から与えられた意味」の好例でしょう。羂索はサンスクリットで p県a とよばれ、インドでは古くからいろいろな神が手にしています。これらの機能や意味を調べると、懲罰者の持つ道具であったり、戦闘で用いられる魔術的な武器であることが確認できます。不空羂索観音については、一昨年、下記の論文を書いて、その中で羂索についても詳しく説明しています。掲載誌は中央図書館にありますので、読んでみて下さい。
森 雅秀 2002 「インドの不空羂索観音像」『佛教藝術』262: 43-67。

二人の童子は片方が「小心者」「白」もう一方が「悪ガキ」「赤」というように、対称的ですが、不動も「片目を閉じて片目をあける」「片方の牙が上でもう片方が下向き」等、十九相観でとくに対になるパーツをそなえています。不動には何か二面性のようなものがあるのでしょうか。
そういうことがあるのかもしれませんね。脇侍が二人いるとき、それぞれが対称的な性格を持ったり、相互補完的であることは、他の仏でも見られます。たとえば、インドでは釈迦の脇侍は観音と弥勒の組み合わせが多いのですが、観音が戦士階級(クシャトリア)、弥勒が聖職者階級(バラモン)のイメージを濃厚に持っていたり、仏教の仏ではありませんが、インドラ(帝釈天)とブラフマン(梵天)が、同じように対称的な機能を持って。釈迦の脇侍になることがあります。このことは名大教授の宮治昭氏が詳しく研究されていて(『弥勒と涅槃の図像学』吉川弘文館)、さらに、神話学の大家ドュメジルの三機能説にも関連します。私も以前、文殊の脇侍が、真摯な求道者である善財童子と、恐ろしい神ヤマーンタカ(大威徳)であることに着目して、文殊に代表される童子神が、本来、その両者の性格をあわせもっているからであると論じたことがあります(『インド密教の仏たち』第三章)。不動が片目を閉じるのは、十九相関が成立する以前から、すでに経典などには斜視などの言葉で規定されていましたが、そのアンバランスさを、牙などの身体の他の部分や、さらには従者にまで波及させたとすれば、なかなか興味深いです。

エンマ王の図像も、昔はストレートのヘアだったのが、いつのまにやらアフロになっています。パワーアップすると髪が縮れていく気がするのですが、不動は時代とともにパワーアップしていっているのでしょうか。光背の火がさかまくのが、髪の毛に象徴されている気がします。
日本におけるエンマ王の図像の変遷は調べたことがないので、時間があれば十王図などで確認してみます。元や宋の時代の中国絵画の影響を受けて変容したのかもしれません。髪の毛が逆巻くのは、たしかに怒りや畏怖を表すのに適した髪型で、インドでも図像や文学作品で見られます。しかし、その場合、縮れているというのとは少し異なり、直毛で逆立っているというイメージです(インド人の男性はたいてい直毛です)。縮れている場合、ある程度は逆立つでしょうが、縮れ方がキツイと、逆にあまり逆立たず、単にもじゃもじゃになっているだけのような気がします。黄不動で見るような巻き毛は、たぶん、あまり逆立たないでしょう。火炎の形態と逆立つ髪のイメージが重なるのはたしかにそうで、専門用語として「炎髪」(えんぱつ)というのもあります。不動の髪型よりも、五大明王で取り上げるその他の明王の方が、炎髪と呼ぶのにふさわしい髪型をしています。

不動明王図像の特色や、不動十九相観の表を見て気づいたのですが、眼目の種類として、「両目開眼」と「左目を閉じる」の二種類しかありません。右目を閉じて左目を開いてはいけない理由はあるのですか。
あるかどうかわかりません。「文献に左目を閉じるように記されているから」という理由では、答えたことにはなりませんね。根拠はありませんがふたつほど推測で答えてみます。ひとつは右と左の関係で、多くの文化で左よりも右に優越を与える傾向があり、半開きや閉じるという不完全な形態をとるのは、右目よりも左目の方が妥当である。二つ目は図像的な考え方で、初期の不動は東寺講堂像に見られるように、やや右を見るように表現されるため、不動の異形さを示す斜視を、正面寄りの左目にくわえて、見るものにより強く印象づけた。どちらの答えもあまり自信のあるものではありません。

制多迦童子が鬼かかっぱみたいでした。時代が進むにつれて肉付きが悪くなるというのがおもしろかったです。昔の方がやせていそうなのに。美人の基準でも昔の方がふっくらしていたのと同じようなのかなぁ。波切不動が頭が大きいと思いました。カルラ炎を後から付けたというのがありましたが、後から付けてもいいものなんですか。同じ作者が付けたのですか。
不動の体格の変化は、不動の性格や地位の変化と、人体表現の嗜好の変化が考えられます。初期の不動が、その名のとおり、どっしりと坐っていたのに対し、平安時代の中期や後期では、勇者のように剣を構える姿へと変わるようです。不動を中心とする五大明王のグループが、不動を除き、いずれも動きのある立像で、しかも均整のとれた戦士のイメージで表されるのも関係するでしょう。また、平安後期の院政期に好まれた仏像が、豪華絢爛な姿(当時の言葉で「美麗」といいます)をとることが、不動の身体表現にも影響を及ぼしたと考えられます。波切不動は典型的な童子形の不動であるため、八頭身ではなく、六頭身ぐらいです。不動堂の不動のカルラ炎を後から付けたというのは後補ということで、オリジナルは失われています。いつの時代の後補かは調べていません。

十九相観の中に、卑しいとか肥満とか醜いという言葉が出てくるのにおどろきました。素人目にはそうであっても、宗教的にはもっと神聖視されているのだと思っていたのですが、不動明王は汚れ役(と呼ぶべきか)なのでしょうか。
宗教において神聖視されているもの、言いかえれば「聖なるもの」が、すべて完全に美しいとは限りません。もちろん、均整がとれていて、完全無欠で、その時代の美を可能な限りそそぎ込んだようなイコンもありますが、その一方で、恐ろしい姿、グロテスクなものが「聖なるもの」とみなされることもしばしばあります。人間がこのようなものにも「聖性」を感じることに、宗教学者は早くから注目し、「ヌミノーゼ」という言葉を与えています(R.オットー『聖なるもの』)。不動をはじめとする仏教の忿怒尊は、まさにヌミノーゼを体現した聖なるものなのです。十九相観について言えば、文献に見られるこのようなネガティヴな規定が、かならずしもすべて表現されているわけではない点も注目されます。実際に、卑しく、肥満で、醜い不動を描いたような作品はほとんどありません。文献の規定を知りながらも、実際に制作にあたるものが受け継いできた図像の伝統や、その時代が求める「聖なるもの」のイメージとのバランスの上で、作品は生み出されるからです。

・十九相観は日本人が考えついたのですか。インドや中国でも十九相観と似た瞑想はありましたか。
・瞑想とは具体的にどんなものなのかよくわからなかったので、ひとつひとつの特徴を思い浮かべる十九相観の方法が興味深かったです。描き方を定めたものではなく、瞑想するプロセスだそうですが、曲を付ければ絵描き歌になりそうな感じがしました。『要尊道場観』のプリントには不動の他に降三世や大威徳のものも載っていましたが、主要な仏に対してはこのような瞑想法があるものなのですか。
瞑想は密教に限らず、仏教の基本です。釈迦が悟りを開くことができたのも、ヨーガの技法を用いて精神統一をはかったからです。ただし、瞑想の内容は時代や宗派などでさまざまです。古い時代の仏教では数息観といって、自分の呼吸をコントロールする瞑想や、不浄観といって、無常観を理解するために死体が腐乱していく状態を瞑想する方法などがありました。大乗仏教の時代になると、観仏といって、具体的な仏のイメージを瞑想したり、極楽浄土の光景や、そこへの生まれ変わりを瞑想することもありました。密教では瞑想が儀礼と結びつくことが大きな特徴となっています。特定の仏に対する儀礼が瞑想を前提として行われ、瞑想によって呼び出された仏に対して、特定の礼拝や供養を行ったり、その仏の力を借りて、願望を成就することが頻繁に行われました。このような瞑想付きの儀礼は、インドでも行われましたし、日本では平安時代に朝廷や貴族のあいだで大流行しました。不動と護摩のむすびつきもそのひとつです。これについては、儀礼のところで取り上げます。

甚目寺の不動明王の剣のもとのところが三鈷か五鈷になっているように見えました。うっかりしていましたが、東寺講堂の不動明王像の剣はどのようになっていたのでしょうか。もし違う形だとすれば、剣の形の違いによる意味はあるのでしょうか。
講堂の不動像は三鈷のようです。ただし、おそらくこの持物の剣は後補だと思います。多くの不動像が三鈷の柄の剣を持っているようですが、初期の不動像の胎蔵図像や胎蔵旧図様は三鈷ではなく、もっとシンプルな剣です。高雄曼荼羅様も柄の上の部分は三鈷ですが、下は違うようです。おそらく、ある時期から三鈷や五鈷の形が好まれるようになったと思いますが、それが特定の意味を表すためであったというわけではないでしょう(意味が後から付与されることはあったでしょうが)。

不動明王を祀ってあるところでは、よくしめ縄がはってあり、「おやっ」という感じがしました。しめ縄というのは神道のシンボルのようなものと思っていましたので、仏尊にどうしてしめ縄なのかと疑問を持ったのです。いわゆる神仏混淆(これも興味あるテーマですが)でしょうか。そういえば、弁財天や歓喜天など、天部の仏尊を祀ってあるところでも、しめ縄が張ってあったような記憶があります。
はっきりした答えはわかりませんが、神道というよりも修験道と関係があるのではないでしょうか。密教はかなり早くから修験道と結びつき、とくに不動をはじめとする明王は山伏に好まれた尊格でした。不動の代表的な儀礼である護摩も、修験の方法で行う柴燈護摩(さいとうごま)があります。なお、しめ縄は結界を表しますが、密教も儀礼を行ったり、寺院内の特定の聖域を定めるために結界を行います。この場合は五色の紐を編んだ「五色線」を用いますが、神道や修験のしめ縄と密接な関係にあります。

前回も聞いた正面と斜めの不動の話ですが、絵画ならわかります。丸彫りの彫刻の場合が今ひとつわからないです。台座に対して斜めに坐っているのですか?首だけ斜めなのですか?忿怒尊って写真うつりがよいなと思いました。そういえば、自画像なんかを描くとき、無表情よりもしかめっ面とか、ふくれっ面、めがねやアクセサリーがあると描きやすいらしいです。仏像を作る人も、悟った顔より、怒った顔の方がやりやすかったのかなーと想像します。
斜めを向いた不動は、作品を見る限りでは、首から上だけ右方向を見ているようです。このような姿勢をとるためには、肩のあたりからの筋肉の付き方を、正面像と変えなければならないと思いますが、そこから下は正面像とあまり違いがないのではないでしょうか。右を向くということは顔の左半分が正面に近くなります。弁髪を左に垂らすことや、左目をしかめたり、左の牙を右の反対の方向に向けることも、この姿勢に関係するのかもしれません。忿怒尊的なイメージの方が、普通の仏像よりも表現しやすいというのは、たしかにそうでしょうね。仏の世界のイメージの多様性が、密教美術の魅力となっています。密教美術以外でも、たとえば浄土図よりも地獄絵の方が、絵師の創作意欲をかき立てたようですし、見る方にも強烈な印象を与えたでしょう。

不動明王を見てきて思ったことは「鬼」に似ているということです。怒った表情、ずんぐりむっくりの体型、とくに黄不動においては、巻き毛、かっと見開いた眼など、角を付ければ鬼そっくりです。鬼というのは不動と関係あるのでしょうか。
不動と鬼のイメージが重なるというご指摘は、他にも何人かいらっしゃいました。私はこれまであまり考えていませんでしたが、たしかに言われてみるとそうですね。順序からすれば、先に不動のイメージがあって、それが鬼に投影されたと見るべきかと思います。鬼の図像については手元に資料がありませんので、調べておきます。

不動にもこんなに種類があるということを知って、このような種類を知らずただ傍観するよりも、また違う視点から仏像を見ることができるので、ぜひ他の機会で不動を見ることがあったら、このようなことに注意してみてみたいと思った。しかし、そのような違いがあるのは(両目開眼と左目を細めるなど)時代によって、人によって、不動に対する見方が少しずつ違ってくるからなのか。制作者がこっちの方がいいと思うからなのか。
不動は時代や様式ではっきり違いがわかるので、ぜひいろいろ見て下さい。今、石川歴史博物館で開催されている「能登の仏像展」(11月9日まで開催)にも、3点の不動が出品されていますが、いずれも違う様式です。授業で指摘したポイントを押さえて見れば、よくわかるはずです。

一度このような不動像を見てみたいと思ったので、富山の日石寺に行ってみたいです。
日石寺の所在地は富山県中新川郡上市町大岩163で、車を使えば金沢から1時間半ぐらいで行くことができます。日石寺は真言密宗の総本山で、境内には本堂の不動堂以外にも三重塔や山門もあり、ひなびた山の中ですが、かなりの威容を持っています。門前には旅館もあり、かつては大勢の参拝客が訪れたのでしょう。上市町のホームページに、詳しい紹介や不動の画像も見ることができます(http://www.town.kamiichi.toyama.jp/top/spot/spot02. html)。

倶利伽羅龍、二童子ともに不動の転じた姿だとはおどろいた。つまり、三人の不動がひとつの絵に描かれているということだろうか?となんか不思議な感じがした。まぁでも不動はこんなイメージというのを示すためのものということだから、いいということでしょうか。
そのように見ることができます。倶利伽羅剣を持った不動の横に、さらに倶利伽羅剣を描いたものもよくあります。密教の瞑想法では、特定のシンボルから仏の姿を生み出す方法がよく見られます。その場合、授業でお話しした文字(種子)がシンボルとして機能することもありますが、持物などの特定の物が、その仏の源初的なイメージとして用いられます。不動の剣もそのようなシンボルとして扱われたのでしょう。十九相観では不動から剣を瞑想しますが、それは本来の方向とは逆のようです。二童子も不動の化身というのは、不動の持っている本来の性格や素性をこれらの二童子が受け継いでいるという解釈に重なるような気がします。不動が童子形や奴僕のイメージを薄めていったことと、童子がこのような姿をとるようになったのは、同時に進行していったのでしょう。

不動明王というと、いかめしいというか、威厳があるような感じがしますけど、「お不動さん」というと、身近な感じがします。それで、お年寄りが「お不動さんに参ってくる」とか言って、不動信仰のようなものがあったような気がするんですが、どういうものでなのでしょうか。不動図像はこんなにいろいろ日本にあるんだから、仏教の中での不動明王、というより、ただ単体として、民間に浸透していたのでしょうか。
不動は、観音や地蔵とならんで、庶民の仏として親しまれてきました。これらの三尊の仏たちは、それぞれ異なる性格や機能を持ち、うまく棲み分けていたようです。日本における不動信仰の展開をたどった文献はいろいろありますが(たとえば田中久男編『不動信仰』雄山閣出版 1993)、授業でも、図像作品をひととおり見た後で取り上げたいと思っています。

マンダラには興味がある。まったく知識がないので、今日のプリントをじっくり読みたい。富山県利賀村はネパールと友好提携を結んでいて、村にはマンダラの絵が飾ってある施設があるらしいので、いってみたいと思ってきた。
利賀村の「瞑想の館」(瞑想の郷)は、日本では珍しいチベット仏教美術の常設展示があるところです。ネパールのツィクセ村というところのチベット系の絵師が描いたマンダラが展示されています(ネパールもチベット文化圏に重なるところがあります)。金剛界と胎蔵などの大きな絵が壁に描かれていますが、いずれも儀軌にしたがって正しく描かれています。これは学術顧問に田中公明氏というこの分野の第一人者がいるためです。富山県はマンダラが好きな県のようで、立山博も立山曼荼羅を中心とした充実した展示が見られ、チベットのマンダラの収集も精力的に行っています。是非お出かけ下さい。

仏教には数字がたくさん出てくる。不動は十九相観、仏は三十二相だったと思います。容姿の特徴によって性格を表しているが、実際、犯罪心理学者などは、事件現場の状況から犯人の性格、そして身体的特徴を推測したりするそうなので、昔とは言え、けっこう、理にかなっていると思った。
仏教の用語にはたしかに数字に結びついたものがたくさんあります。四諦八正道、十二支縁起、五蘊、五位七十五法など、数限りなくあります。このような特定のカテゴリーから教理の体型を構築したのが仏教の特徴でもあります。細部から全体を推理するのは、探偵や警察ばかりではなく、美術史の常套的な手段です。「神は細部に宿りたもう」という有名な格言もあります。作品の細部にこそ真理は隠されているということです。

講義と直接関係ないのですが、今、卒論の関係で「信仰」って何かということに悩んでいます。私は信仰対象を信じることで救われる、または救われたと感じるようになれば、それは信仰だと思うのですが。つまり、それが神や仏でなくてもいいと思いのですが、やはり信仰は神や仏に対して使う言葉なのでしょうか。また、崇拝と信仰の違いやそれらと宗教の関係などを考え出したら、進まなくなってしまいました。
「信仰」を手元の国語事典で引くと「神や仏などを、心の迷いなどを救う究極の拠り所として、理屈を越えて信じること」とありました。「神や仏」という言葉が用いられるのは、それが一般の人にとってもっともわかりやすい例であって、「など」という語で、その他の一切合切を含んでいると見るべきでしょう。むしろこの定義では、後半の「理屈を越えて信じること」の方が重要だと思います。信仰は合理的な判断にもとづいた行動ではなく、その対象はかならずしも客観的な価値があるものではないからです。宗教一般では、信仰の対象となるのは神や仏という人格神的なものばかりではないため、「聖なるもの」とか「超越的存在」「絶対者」というような用語が用いられます。宗教と信仰の違いは明確にはできませんが、信仰は特定の対象に対する個人の心のありかたに重点があり、宗教はそれよりも広い現象や考え方、活動などを指すように思います。このような考察は宗教学では重要ですが、それ以外の分野ではあまり深く立ち入らず、実際の事例や具体的なあり方について研究を進めた方が生産的かもしれません。

十九相観のうちに、童子形を取るというのがありましたが、これにはどういう意味があるのでしょうか?仏教では〜童子というのが多く出てきたり、他の仏像なども少年ぽさを多く表してるものがある気がします。童子ってそのままの意味で子どもと考えていいのでしょうか。絵を見ていると、とても子どもには見えません。子どもという意味ではなく、単なる名称や階級みたいなものなのでしょうか。
不動に限定してみれば、不動が本来有している基本的なイメージが、身分の低い少年で、それが日本では他の明王の影響も受けて、屈強な成人男子のようになり、少年のイメージが従者に置き換えられたと見ています。しかし、ご指摘のように童子そのものにはたしかにいろいろな問題があるようです。インドではカールティケーヤ(韋駄天)がもともと童子をイメージした神で、少年を意味する「クマーラ」とも呼ばれます。仏教の文殊もその影響を受けているため、図像的にもこの神と密接な関係があります。不動の場合、これらとは少し異なり、使者という職分からもわかるように、もっと身分の低い少年です。不動に特有の弁髪や斜視、肥満した身体などは文殊などの童子神には見られません。日本の不動の従者となる衿迦羅や制多迦という二人の童子が、少年の姿に見えるかどうかは判断の分かれるところですが、青年に近い少年といったところでしょうか。次回取り上げる八大童子の場合、高野山の運慶の作品では、全体に少年のイメージが濃厚です。3年ほど前に滋賀県の彦根城博物館で「美術の中の童子像」という展覧会が開催され、日本美術のなかに見られるさまざまな童子像が紹介されていました。図録も小さいながら、なかなか読みごたえがあります。また、最近、至文堂の日本の美術シリーズで、『日本の童子形』という巻が刊行されました(津田徹英著)。童子についての関心が高まっているようです。