第12回 アジア各地の大日如来
蓮という水生の植物を宇宙全体の姿に組み込むというのは、ヴェーダ文献の初期のもので、世界の原初の姿を「水」としていることと、イメージ的につながる(宇宙=蓮は水から生まれたというイメージ)。
蓮はインドの宗教ではきわめて重要な植物で、象徴的な意味を多く含んでいます。とくに豊穣多産、生命力、性的な力、コスモスなどとしばしば結びつけられます。ご指摘のヴェーダ文献の創世神話にはいろいろなものがあります。授業で紹介した「卵」のイメージも、有名な「ヒラニヤガルバ」(黄金の卵)を意識したものです。これは『リグ・ヴェーダ』にも現れますが、『シャタパタ・ブラーフマナ』というそれよりも遅れて成立した文献では次のように説かれます。「太初において宇宙は実に水であった。水波のみであった。水は欲した、われはいかにして繁殖しうるかと。水は努力した。水は苦行して熱力を発した。水が苦行をして熱力を発したとき、<黄金の卵>が生じた。・・・それから男子が生まれた」と続くものです。「水が努力すると卵ができる」というのが、なかなかすごいです。蓮のシンボリズムについては若桑みどり『薔薇のイコノロジー』(青土社、1984)や宮治昭『仏教美術のイコノロジー:インドから日本まで』(吉川弘文館、1999)が、またヴェーダの創世神話や哲学などは辻直四郎『インド文明の曙:ヴェーダとウパニシャッド』(岩波新書、1967)が参考になります。
胎蔵大日如来坐像のまわりに菩薩がいるのは、不動明王の八大童子と何か関係があったりするのでしょうか。
基本的には関係ありません。胎蔵大日のまわりの八大童子は、密教の初期の段階で成立した菩薩のグループで、もともとは釈迦や阿弥陀のまわりに配されていました。観音や文殊、弥勒などの大乗仏教の時代から信仰を集めていた有名な菩薩を集めて作られました。その後、中尊を大日に変え、全体が「八大菩薩マンダラ」を構成したり、胎蔵マンダラの成立の重要な要素となったりします(これについては『インド密教の仏たち』のコラム?参照)。不動の八大童子はおそらく中国で成立したもので、インドまではさかのぼれないようです。不動を中心としたマンダラを意図していたことは、以前に授業でも見たとおりですが、実際のマンダラの作例はないようです。8という数字は、上下左右が対称となるマンダラを作るときに便利なので、既存の仏たちがしばしばこの数でまとめられます。明王のグループとしても八大明王というのがありますが、これは八大菩薩と同体とみなされます(三輪身説を用います)。
世界=神であるという哲学について思ったのですが、では、インドでは神を作ったものは何なのでしょう。蓮華に坐る神はどこから来たのか気になるところです。それから、インドやチベットは、やはり不動より大日の像が多いんだなと思いました。獅子がよく出てくるのはなぜでしょう。インドといえばトラという気がするのですが。
神を作ったものはいません。神はそれ自体が無始無終、つまり始まりも終わりもない永遠の存在です。これがインドの正統的な哲学の基本となっています。神のみが実在で、それ以外は単なる仮の姿であるとか、映像のようなものであるという説明もしばしばなされます。一方、仏教はそのような永遠不変の絶対者を認めない立場をとります。それゆえ、異端としてインド世界からは姿を消してしまうことになります。ほとんど作例のなかった不動に比べれば、大日の作例はインドでかなりありますが、釈迦に比べれば微々たるものです。これは密教の時代でも、一般の人々の信仰の対象は、大日のような「特殊な仏」ではなく、伝統的な釈迦であったことを示しています。チベットでも同様で、釈迦や阿弥陀などに比べて、大日の作例はそれほど多くはありません。インドの獅子については、他にも質問が何件かありましたが、棲息はしていなくても、古くから西方世界からもたらされていたようで、有名のものとして、アショーカ王の石柱装飾に獅子が現れます。王権のシンボルとして最も重要な動物だったのです。釈迦の説法も「獅子吼」といいますが、これも釈迦のイメージを王者と見ることに由来します。この他、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーが獅子に乗ります。
すべて大日如来だとまでは考えなくても、宇宙全体というか実感のあるところでは、地球全体が総合的なもので、それぞれが補いあい、関連しあった体系的なものだと考えると、何となくすべてが大日如来だという考え方はわかるような気がしました。うまく言えないのですが・・・。それが大日如来かといわれると、そういうことはまったく思わないんですが、その考え方自体は本当に何となくですけど、なるほどと思いました。
「自分とは何か」「自分をとりまく世界とは何か」などの問題は、哲学の基本なのですが、大学までの教育では取り上げられることはほとんどありません。私の授業はあまり思想や哲学にはふれないのですが、前回のような話をすると、新鮮に感じる方が多いようです。「生命体としての宇宙」の他のたとえですが、われわれの人体と、その中にいる無数の細菌(バクテリア?)のようなものをイメージしてもいいかと思います。われわれが自分自身だと思っている身体には、おそらく無数の細菌が含まれていますが、身体からそのような細菌をすべて取り除いてしまったら、おそらくそれらの細菌は死滅するでしょうが、われわれ自身も生きていけないでしょう。体内には無数の「生命」を含みながら、われわれという生命が維持されている、つまり共生関係にあるわけです。身体を宇宙、細菌をわれわれに置き換えると、イメージしやすいのではないかと思います。
八大菩薩にも一人一人違う特徴があって、誰が誰だかわかると先生はおっしゃっていましたが、それぞれどんな特徴があるのでしょうか。何となく白雪姫と七人の小人が頭に浮かびました。八大菩薩はまたそれと違いますが・・・。
上にも書いたように、八大菩薩は伝統的な菩薩たちなので、それぞれ固有の特徴を持っています。たとえば、観音は蓮華、弥勒は龍華、金剛手は金剛杵、文殊は梵夾を持ちます。ここからもわかるように、固有の特徴は手にする持物であることが多く、それ以外の4尊も固有の持物を手にします。逆に、持物さえ異なれば区別が付くので、それ以外は同じように表現するという傾向も現れます。これは密教美術のもつ特徴のひとつで、「シンボル至上主義」とそれに伴う「個性の消失」と私は呼んでいます。くわしくは『インド密教の仏たち』の八大菩薩を扱った章を見て下さい。白雪姫と七人の小人は、ディズニーのイメージが強いので、だぶだぶの頭巾や服を着た小太りの小人を連想しますが、もとは明確な区別があったのでしょうか。7人という数が重要という気がしますが・・・。
何かと宇宙ということばが出てきますが、それは現代私たちの考えている宇宙と同じでしょうか。
そうとも言えますし、そうではないとも言えます。おそらく私たちが用いる「宇宙」ということばからは、銀河系や太陽系などの星が暗黒の中に浮かんでいるイメージが連想されます。しかし、だれもそのような「宇宙の姿」を自分の目で見たわけではありません。知らない間に科学関係の本やテレビの映像などから植え付けられたものでしょうから、「現代日本人の平均的な宇宙像」といった方がいいかもしれません。それと同じように、異なる文化背景や環境の中で育った人々は、それぞれ固有の宇宙のイメージを持っているはずです。それは宇宙というよりも、自己をとりまく世界と言った方が適当かもしれません。哲学的には「世界」という用語の法が妥当でしょう。しかし、世界も「地球の国々」というニュアンスで用いられるので、注意が必要です。
菩薩の地位の向上がいわれていたが、もともとそんなに低いものだったのでしょうか。
そんなに低いものではありません。しかし、菩薩が修行して仏になるというのが仏教の基本なので、相対的に仏よりも低いということです。その中で、大乗仏教では仏に代わって実際にわれわれ衆生の救済につとめる菩薩の役割が重視され、人々の信仰を集めます。海外での援助のようなものを例にすれば、東京にいる外務省の役人よりも、現地スタッフの方が、途上国の人々からは信頼を集めるようなものです。現地スタッフの行動が外務省の役人によって指示されたものであってもです。密教で法身のような根源的な仏が必要とされたとき、仏よりも菩薩にそのイメージがもとめられる傾向があります。日本では法身といえば大日やその前身である毘盧遮那ですが、インドやチベットでは文殊や普賢のような菩薩が、法身となることがあります。
忍者も「ドロン!」とするときに、智拳印を結んでいるようなイメージがあるのですが、仏教と忍者は関係あったりするのでしょうか。
智拳印はたしかに忍者の手のしぐさにそっくりです。おそらく仏教から直接ではなく、修験のような山岳宗教が介在するのではないかと思いますが、よくわかりません。
今まで僧形というのは地蔵菩薩のように剃髪したものをいうのかと思っていたのですが、如来の像も僧形というのですね。
地蔵菩薩もお坊さんの姿をしていますが、「比丘形」(びくぎょう)といいます。日本では錫杖と宝珠を持つことが多いのですが、これらは中国で成立したイメージです。インドには地蔵は八大菩薩の中に含まれますが、そこでは菩薩形をとります。仏のすがたは仏形ともいいますが、通肩(衣を両肩に掛ける)か褊袒右肩(へんたんうけん、右肩を衣から出す)のいずれかで、頭には螺髪と肉髻があります。
宇宙や世界を身近なもの、卵や蓮にたとえて説いてあるので、たいへんわかりやすかった。仏を「蓮の化身」というのは、蓮=宇宙=仏だからですか。
仏と蓮との結びつきは、仏像が蓮台に乗っていることからもよくわかります。上に述べたように蓮の持つ象徴性がその背景にありますが、具体的には千仏化現という釈迦の事績と関連づけることができます。これは釈迦が行った奇跡(神変)のひとつで、巨大な蓮を出現させ、そこに咲いた無数の蓮の花から、仏を出現させたというものです。蓮と生命の誕生は、浄土思想における蓮華化生、つまり極楽への往生者が蓮の花から生まれるという信仰にもつながります。
難しいことばがスラスラと出てくるのが、私には絶対まねできないと思いました。
少し仏教用語を使いすぎたようです。まねをしても、それほどいいことはないと思います。