第11回 大日如来の起源と展開


泣不動の話が絵巻のと、今昔物語のと、メインになるものが全然違うので、面白いと思いました。その時代の主流になっていた宗教なども関係していたのでしょうか。地元の成田山に行って、今回はちゃんと護摩の間も聞いていましたが、般若心経で大きな太鼓にあわせて唱えていました。壇の前に火も焚いていて、その奥には不動明王と二人の土王子がいて、授業でやったのと同じような感じだったので、何かうれしかったです。財布をあぶってもらったり、お札ももらったりしました。イランのアフラマズダはゾロアスター教の善神だとあったように思います。また、それに対応するのがアーリマンだと習った気がするのですが、アフラマズダはゾロアスター教に限らず、イランでは広く信仰されているのでしょうか。
『不動利益縁起』の物語は、さまざまな文献に含まれるのですが、その中で最も古い形態を示しているのが『今昔物語』のようです。話がずいぶん違うことにおどろきますが、とくにかんじんの不動が出てこないのが最大の違いでしょう。絵巻が作られたときの不動信仰がそれだけさかんであったことや、園城寺との結びつきの強さを感じさせます。成田山への初詣は、他にも名古屋の北の犬山にある成田山に行ったことを書いてくれた方が二人いました(別々にお詣りしたと思います)。不動や護摩が身近なものであることが感じられたようで、よかったです。高野山の護摩では太鼓を叩いたりはしないのですが、成田山は新義真言宗の智山派で、これに対して高野山が古義とよばれるように、儀礼の方法もいろいろ違うようです。イランの神話の神は、手元の資料(『世界神話辞典』角川書店)では、善の存在アフラ=マズダーに対して、悪の存在はアングラ=マインユと呼ばれていて、彼らによって闇の勢力であるディウ(授業ではダェーワと紹介)を作ったとあります。ゾロアスター教はイランのこのような信仰を母胎にできた宗教なので、アフラ=マズダーをはじめとする神々の体系をそのまま継承しています。ゾロアスター教は名前はともかく、詳しいことは日本ではあまり知られていない宗教ですが、インドでは「パーシー」とよばれ、今でも多くの信者がいますし、ペルシャやイベリア半島を経てヨーロッパに伝わり、新プラトン主義などにも影響を与えた重要な宗教です。次のような入門書もあります。インドへの言及も多く、勉強になります。
岡田明憲 1988 『ゾロアスターの神秘思想』講談社現代新書。

広辞苑を引くと泰山は死者の集まる山と言われたり、仏教では地獄を泰山と呼ぶこともあると書かれていたので、どうして地獄で泰山府君かがわかりました。府君の本地が地蔵菩薩とも書かれていておどろきました。広辞苑とリーダーズでAsuraとDevaを引き比べると面白かったです。広辞苑は提婆、提婆達多と阿修羅しかのっていないのですが、リーダーズはヒンドゥー教用語に分類し、邪神とし、devaは提婆、梵天、天神とする項と、悪鬼とし、Ishvaraに属するとされていました。devaの方が二面性が強く現れているのでしょうか。またAsuraもDevaも天竜八部衆に入るのですか。
おそらく電子辞書を引かれたのでしょうが、なかなか便利なようですね(授業をしている方には、いいかげんなことが言えないので驚異ですが)。泰山府君はそのとおりで、日本の十王図や閻魔天曼荼羅などにもその姿が描かれます。日本の閻魔のイメージは、この泰山府君から来ているようです。アスラとデーヴァについては、インドでは一般にアスラに悪、デーヴァに善という役割を与えているので、あまり二面性はないように思います。むしろ、両者が存在してはじめて神々の世界を構築することができるということで、相互補完的といった方がいいかもしれません。このような二元論と宗教の関係は、大日と不動を考える上でも示唆に富むようで、来週のまとめで少しふれたいと思っています。八部衆は『法華経』や『仁王経』などに登場する護法の神々で、デーヴァ(天)もアスラ(阿修羅)も含まれます。興福寺の天平時代の八部衆像が有名ですね。そのため、日本人の阿修羅のイメージは少女のようですが、インドではずいぶん違います。

『不動利益縁起』で、不動帰還のシーンの従者たちの中に、侍風のがいたのが(ちょんまげ、弓をもっている人物。左上)面白かったです。不動がどこに帰るのかが気になりました(現世or天界?)。仏教の「十三説」では初七日の裁判官は初江王だったと思いますが、これと不動の関係は・・・あまり思いつかない気がするのですが・・・。今日のレジュメ6枚目の「大日如来坐像(栃木・光得寺)」の如来の両側にあった文字は真言(種子)ですか?不動の種子と何か関係はないのでしょうか。
十王信仰では初七日は秦広王(しんこうおう)で、初江王(しょこうおう)は二七日です。そのあと、宋帝王(そうていおう)、五官王(ごかんおう)、閻魔王、変成王(へんじょうおう)、太山王(たいさんおう)、平等王(びょうどうおう)、都市王(としおう)、五道転輪王(ごどうてんりのう)と続きます。十王信仰は中国唐末五代の頃に成立した『十王経』を典拠として誕生したとされます。これに対し、十三仏信仰は日本独自の死者追悼のシステムで、次の表のようになっています。
(表省略)
この表は『仏教文化事典』(佼成出版社)からとったものですが、それによると、日本で十三仏信仰と十王信仰が結び付いたのは11世紀頃とされています。光得寺の大日如来像の文字(種子)はよく気が付いたと思います。これは胎蔵大日の種子であるvaオと金剛界大日の種子であるaが、厨子の左右の扉に記されていて、金胎不二を表しています。この作品については来週紹介するつもりですが、運慶の作であることが近年判明し、話題になったものです。上野の東京国立博物館に常設展示されていますので、機会があれば見てきて下さい。いい作品です。

神と神の結びつきは、どのような手段で調べるのですか。
きまった方法はありません。神話学や美術史などを本や論文をいろいろ読んだり、神や仏の登場する経典(聖典)などを見ながら、あれこれ考えます。異なる神が共通のイメージ(モチーフ)を共有していたり、類似の神話をもっていたりすることが、考えるきっかけとなります。ただし、見かけが似ているだけでは思いつきの域を出ませんので、それを支えるだけの必然性や蓋然性を探すようにつとめます。

身代わり不動の話は、単に物語としても楽しめそうで面白かったです。自分の干支が猪ということもあって、少し気になったのですが、猪と太陽神の関係とは、どんなものなのでしょうか。
インドの神話で猪は創世神話に現れるものが、最も有名です。これがのちにヴィシュヌの化身の神話となります。そこでは猪は創造神です。このあたりのことは私の『インド密教の仏たち』の第2章で詳しく書いていますので、読んでみて下さい。

歌舞伎とかそういった伝統芸能の関係っていうのは、面白いなぁと思いました。あまり見たことはないのですが、演目の内容自体にも不動とかが登場することはあるのでしょうか。
私も歌舞伎にはまったく暗いので、授業でも避けました。頼富本宏『庶民のほとけ』(p.312)によれば、歌舞伎で「不動の金しばり」という場面があるそうで、悪党が不動の力で動けなくなったりすることのようです。12月に紹介した高幡不動の霊験譚としても有名なようです。ちなみにここは新撰組の土方歳三ゆかりのお寺でもあるそうで、大河ドラマにあわせていろいろやるようです。それはともかく、不動という名称からの連想や、持物の羂索が敵を捕縛して身動きをとれないようにするものであることが、その背景にあるようです。

先生は疫病神を「えきびょうしん」とよんでいましたが、「やくびょうがみ」と違うのですか。
どちらもいいようです。「えきびょうしん」とよんだのは、『不動利益縁起』の解説書にそのようにルビが振ってあったことにならったからです。ほかにも「えやみがみ」という読みもあるようです。「やくびょうがみ」というと、メタファーとしての意味が強いので、それを避けるという意図もあります。

冥土に連行された不動に二童子は付いていったが、不動を助けることはしなかったのだろうか。何か不動もそうだが、マヌケに見えた。
マヌケはともかく、絵巻の中の不動はそのほかの登場人物と比べると動きがあまり感じられないようです。冥土から帰るところでも、眷属の童子達は生き生きとしているのに対し、不動はだんまりとしているように見えます。これは不動のイメージがすでに固定化していて、それを絵巻の中にそのまま取り入れたことにも起因するのではないかと思います。十九相観や玄朝様、良秀様などの不動のイメージがすでに成立していたこともわかります。

・釈迦が「おしえ」をすべて生み出したのではなく、それまでの「おしえ」を編纂したのだという話は新鮮でした。たしかにキリスト教のように「釈迦教」とはいわないですね。
・「時間的、空間的に仏を見る」というのは、インド独特のような気がします。ここまで来ると、宗教というより、哲学の雰囲気さえ感じました。
たしかに「釈迦教」とは言いませんね。基本的にインドの宗教は開祖などの特定の固有名詞をその名称とすることはないようです。バラモン教とかヒンドゥー教とかもそうですし、仏教と同じ頃に現れたジャイナ教も、ブッダに相当するジナ(勝者)から来ています。話は別ですが、日本にキリスト教が伝えられたとき、神は大日如来のようなものだという話があったり、中国で唐代にネストリウス派キリスト教が伝えられたとき、ゼウスを大日と訳したそうです。キリスト的な神のイメージに、大日はずいぶん近いようです。仏陀観の変遷に「哲学」を感じたという意見の方が、他にも何人かいました。そのとおりで、インドでは仏教以前のヴェーダの宗教、とくにウパニシャッドの哲学で、すでに宇宙と神と人間の関係などを論じています。梵我一如もその代表的な説で、インドの正統的な哲学は、すべてこの思想をいかに解釈するかに腐心したと言ってもいいほどです。もっともインドに限らず、哲学というのは、たいてい宗教や神学から生まれるものです。

空海か誰かは忘れましたけども、すべてのものは大日如来をその内に宿しているというようなことを言った人がいませんでしたか。
「すべてのものは大日如来をその内に宿している」というのは、おそらくふたつのことをまとめて表現していると思います。ひとつは如来蔵思想といって、大乗仏教のひとつの考え方で、あらゆるものは仏となる可能性のようなものを、本来その内部にそなえているというものです。これは日本の仏教、とくに天台や禅、浄土などに大きな影響を与えました(日本のお坊さんは、よく説教でそのようなことを話します)。もうひとつは、森羅万象は大日如来のあらわれであるという考え方です。宇宙そのものが大日如来であり、したがってその構成要素はすべて大日如来が何らかの形をとったものであるというものです。これは密教の基本的な考え方で、それを図に表したものが曼荼羅です。

ミトナという神の名を聞いて、ローマの神であったミトラ神を思い出しました。一字違うだけですが、何か関係があるのでしょうか。
インドではミトラMitraという神がヴェーダの時代に信仰されていて、ヴァルナと並んで至高神の位置を占めていたのは授業で紹介したとおりです。これに対応する神がイランではミスラMithra神です。ローマ世界のミトラ神はミトラス神ともよばれ、古くはこのミトラやミスラと同じ系統の神であるとして、さまざまな研究がありました(下記参照)。しかし最近の学界では両者の間のつながりは疑問視されているそうです(『世界神話事典』p. 370)。
ザクスル、F. 1980 『シンボルの遺産』松枝到他訳(せりか書房)所収の「ミトラスI 古代インドからローマへ」「ミトラスII 洞窟祭祀のシンボリズム」
キュモン、ルランツ 1993 『ミトラの密儀』小川英雄訳 平凡社。

三身説を習いましたが、すべての仏尊は三つの分類にはいるのでしょうか。だとすれば不動明王はどの範疇にはいるのでしょうか。
三身説は大乗仏教の時代に現れた考え方なので、不動のような明王はまだ仏教の仏の世界には含まれていませんでした。基本的に三身説は仏(如来)を対象とするので、菩薩なども含まれません。三身説は密教でも継承されましたが(四身説というのもあります)、その一方で仏、菩薩、明王の間の同体関係については三輪身説が現れます。同じものではありませんが、チベットにもよく似た考え方があります。