第2回 不動明王の起源とインドにおける不動信仰
むずかしい漢字が多いと思いました。
たしかにそうですね。配付資料の説明はできませんでしたが、不動に関する漢訳の経典からの引用です。スライドで示したものは、さらにその抜粋です。仏教美術の研究には漢訳をはじめ、文献解読が不可欠です。講義なので細かく読むことはしませんが、少しずつ慣れていって下さい。漢訳の他にもサンスクリットやチベット語の文献もありますが、取り上げません。「美術なのに文献?」と思うかもしれませんが、先回少しお話ししたように、両者は密接な関係があります。これについては、抽象的でわかりにくかったようなので、今回、はじめに補うつもりです。
不動のまわりにいる童子が、不動のイメージを取り出して強調したものだというのがおもしろかったです。あまり関係ないのですが、映画や小説の主役とわき役の関係もこれと似ているように思いました。不動のイメージは、文献で見ればほとんど同じなのに、作品ではひとつひとつを比べるとまったく違った印象でした。
主尊と脇侍の関係は、なかなか興味深いです。仏教の尊像には中心となる主尊と、付き人の従者とか脇侍の組み合わせで表される例がいろいろありますが、このように、主尊のイメージや性格が脇侍に投影されたり、強調されるパターンがときどき見られます。密教でとくに顕著なような気がしますが、阿弥陀と観音、勢至のような組み合わせでも、そういえるかもしれません。不動の従者である童子については、日本の不動の作例をひととおり見た後で、二童子、八大童子などを取り上げるつもりです。
不動明王は怒りの表情をしているけど、仏教においては嗔は煩悩なのでは?不動明王は怒っていてもいいのですか。
不動明王以外にも、降三世明王や大威徳明王など、明王のグループの仏たちは、たいてい怒った姿で表されます。チベットの方に行くと、もっと位の高い仏でも、忿怒形をとることがあります。明王が忿怒の姿をとる理由は、仏教の教理(きょうり、教えのこと)では「三輪身説」(さんりんじんせつ)とか「教令輪身」(きょうりょうりんじん)という専門用語を用いて説明されます(これについては、そのうち授業でお話します)。怒りを含め、従来の仏教では否定されてきた要素を、密教ではあえて正当化して、教理や実践に取り入れます。それを極端に表すのが、たとえば「煩悩即菩提」というような言葉です。
感得像の話はあまりなじみがないので、もう少し詳しく聞きたいです。円珍以外にも感得像を生み出した人はいるのか。割と頻繁に誕生するものなのか等々。
感得像というものを、ほとんどの方がはじめて聞いたと思います。日本の密教図像の重要な用語です。黄不動をはじめさまざまな作品がありますが、とくに不動という仏の性格や機能を考える上で、いろいろ示唆に富みます。あらためて黄不動について詳しく取り上げるときに、その意義などについて考えたいと思います。
不動明王のことをまったく知らなかったが、今回の講義は楽しく聞けたと思う。そもそもなぜ青色をしているのかが、いまいちわからなかった。また、赤や黄と色が異なっている理由もわからなかった。教えて下さい。不動明王は子どもをイメージしているという説明もあったが、なぜ、「怒り」なのか・・・。
青という色は、インドの神々の世界では、イメージ的に「こわい」ものに与えられます。この場合、青は空の色のように鮮やかな色ではなく、暗い青、紺色のような色を指します。ヒンドゥー教の神では、たとえばシヴァがこの色を取りますが、ヒンドゥー教の神々の世界ではシヴァは破壊の神です。また、シヴァは伝統的なアーリア人の神ではなく、もっと土着的な神だったともいわれます。仏教では阿◎や明王のグループで、青の身色は一般的です。後期密教ではヘールカと呼ばれる仏たちの基本的な身色がやはり青ですが、かれらは明王のイメージも受け継いでいます。赤、黄については、赤不動、黄不動を詳しく取り上げるときに、考えてみましょう。「子ども」と「怒り」のつながりは、多くの方が「なぜか」という疑問を出していました。子ども、とくに少年が両義的な存在であるということは、拙著『インド密教の仏たち』の中でも書いていて、今も基本的には同じ考えです(関心がある人は読んでみて下さい)。でも、基本的に子どもってすぐ怒ると思いませんか?
一年のときに受けた密教美術の世界がおもしろかったので、また先生の授業を受けようと思いました。仏教を知ると、いろいろ日本の文化の深いところまでつながってるのがおもしろいです。
それはうれしいです。教養の私の授業を受講された方が他にもいらっしゃるかもしれませんが、できるだけ、重ならないようにお話ししたいと思います。また、学部の授業ということで、いろいろ最新の研究の成果や、新しく調べたことなども取り入れるつもりです。その分、話の歯切れが悪かったり、結論に物足りなさを感じることもあるかもしれません。でも、学問とはそういうものです。
不動にもいろいろあるということをはじめて知った。羂索って何に使うのでしょう。
羂索は投げ縄です。仏像の入門書などには、猟師が鳥を捕る投げ縄や、漁師の網のことと説明してあるものが多いのですが、これは俗説です(仏教美術の世界では、このようないいかげんな説が、しばしば堂々とまかり通っています)。インドの文献を見る限り、羂索とは神話などに登場する呪術的な武器で、敵を縛り上げて、身動きできないようにする縄のことです。呪術的な機能を持つことが重要で、仏教の仏でもこれを持つものは、何らかの呪術的な力を有しています。
マーリーチー立像は、ムチムチプリプリというより、女の人のような線をしているが、女なのか。
女です。というか、女性の仏、つまり女尊です。インドの女尊は日本のものと違い、肉体的な特徴をはっきり表します。マーリーチーは日本に入ると摩梨支天と呼ばれ、作例もかなり残っています。
日本の不動明王とインドの不動明王を比べると、日本の方が童子形にしても威厳、威圧的であるのに対し、インドの方は少し滑稽な感じを受けました。
たしかにそうですね。インドは作例がほとんどないのですが、その流れを汲むチベットやネパールでも、忿怒尊というよりは、もう少し身軽な(使者ですから)仏という感じです。でも、日本にも童子形を強く打ち出した不動の作例がいくつかあります。
一番はじめに見たスライドの不動明王は、写真で何回も見たことがあったけれど、弁髪を垂らしているということは知らなかった。作品を細かいところまで見ると、いろいろおもしろいことがわかるんだなと思った。仏教はお金にあまりこだわらないものだと思っていたけれど、頭から貨幣を出すヤクシャがあって、不思議な感じがした。
はじめの不動明王は東寺講堂のものだと思いますが、日本の不動像の根本像ともいうべき重要な作品です。細部の写真もお見せするつもりです。どの作品もそうですが、漫然と見ていても気が付かない細部というのが必ずあります。美術の世界では見ることが基本ですが、単に「見ればわかる」というものではないことは、私の授業ではしばしば強調します。頭から貨幣を出すヤクシャ(夜叉)は、ユニークな作品ですが、これが作られた背景には、ヤクシャなどを信仰対象とする一般の人々の存在があります。仏教とは僧侶だけの宗教ではなく、さまざまな社会階層の人々を巻き込んで存在していたのです。また、仏教と金銭というのは、たしかに一般的には相反するようなイメージがありますが、僧侶たちが僧院で集団生活を送るためには、必ず経済的な問題が付随します。インドでは古くから貨幣が流通していて、それとまったく無縁で生きていくことは不可能でした。ただし、僧侶が貨幣にふれることは律で禁止されていたため、いろいろな「方便」が考え出されました。
子どもを信仰の対象にする例は、世界中で見られますが(日本でも水子供養など)、子どもにはそういうミステリアスな部分があるのかと思いました。
ミステリアスという表現が適切かどうかはわかりませんが、宗教学的に子どもが持つ意味や機能はたしかに興味深いものがあります。現代社会における子どもの存在からは、まったく異なるような「子ども像」がかつてはあったことは、歴史学などでよく指摘されています(たとえばアリエスの『子どもの誕生』)。日本の神話でも「ハナを垂らした神」のような童子形の豊穣神や、「翁童信仰」のような老人と組み合わされた童子神がいます。水子供養は子どもそのものが信仰の対象になるというのとは、少し違うような気がしますが・・・。
満州民族は弁髪の習慣があったが、不動明王の弁髪と何か関係はあるのですか。また、中国の北東部でも、不動明王は信仰されていたのですか。
たぶん関係はないと思います。弁髪という言葉は経典にもあらわれますから、髪の毛を編んで垂らす髪型として、一般的な名称だったのでしょう。中国における不動明王信仰は不明な部分が多いのですが、唐代に密教が流行した長安を中心とした中原と、雲南省に若干作例が残されています。これは今回の授業で紹介します。
サンスクリット文字をまともに見たのは初めてだったが、うねうねしてて、こんなのだったのかとおどろいた。
サンスクリットはインド・アーリア人がインドに入ってきた4,5千年前からインドにある言語ですが、特定の文字を持っていません。時代ごとに書体の異なる文字で表記されます。資料で紹介したのは「悉曇」(しっだん)と呼ばれる文字です。中世インドの書体を受け継ぐもので、経典を通じて日本に伝わりました。現在ではヒンディー語などを表記するデーヴァナーガーリーという文字で表すのが一般的です。これもじゅうぶん「うねうね」していますが、すぐに馴れます。比較文化ではサンスクリットの授業がたくさんあって、いろいろな文献を読むことができるようになります(もちろん、それなりの苦労がありますが)。
数ある密教仏の中でエース級の大日如来と、4番バッタークラスの不動明王の勉強ができるので、期待に胸を膨らませております。
おもしろいたとえですが、大日如来は「法身」(ほっしん)と言って、自分自身は説法などをしない存在の仏なので、プレーをする選手よりも監督とか、さらにはオーナーのような存在かもしれません。それはともかく、ご期待に添えるよう努力します。
不動なのに走っている姿の走る不動があるなんておかしいと思った。
ほんとにそうですね。でも、不動は黄不動や青不動をはじめ、いろいろな名称というかあだ名の付いたものがあります。それだけ日本人にとって身近な仏だったのでしょう。