密教美術の世界

2008年11月27日の授業への質問・回答


初期の仏教の世界観に無色界は空の世界で、物質的なものがないといわれた。また最後に、物質と生命は違うといわれた。ということは無色界には生命はあるということになるのか?そうだとしたら、そのときの生命の定義とは?たしかに仏教的にはあっているかもしれないが、蓮華と大仏だけで宇宙を表すのは、いわれなければわからない。高校のとき見たときも、そのような意識がなく見たので、次見るのが楽しみになった。
無色界は物質がないので「無色」といわれます。しかし、そこは空(くう)の世界ではありません(説明が不十分だったかもしれません)。空の世界というのは、われわれの世界そのもののことです。ものが存在しない。なぜなら、あらゆる存在物は、それ自身の性質(自性といいます)がない。というのが空ということなのですが、われわれはそれに気づかず、ものが存在すると信じ、それにとらえられて煩悩が生まれ、輪廻します。色界や欲界はそのような世界です。無色界はそれをすでに克服しているのですが、まだ、仏の悟りには到達していない段階とされます。したがって、そこには見かけとしても、ものが存在するような状況ではないので、無色界なのです。しかし、まだ輪廻しているので、生命(というか輪廻する主体)はあります。おそらく、精神だけのようなものなのでしょう。その精神が活動するための「場」が必要になるので、無色界という世界を想定します。ちなみに、仏教では生命も空なので実在しません。

生命や水の象徴で水壺や女性があげられていましたが、これはたしかに西洋でも共通のものを感じます。花綱を口から出しているヤクシャは、ボッティチェリの「プリマヴェーラ」に出てくる春の女神みたいでした。日本だとヤクシャは生命と関わっているようには感じられないので、少し不思議です。
水が生命や女性と結びついているのは、おそらくかなり普遍的なことでしょう。プリマヴェーラは今回の授業で、別の文脈で紹介する予定です。アマラヴァティー出土の「花綱を口から出しているヤクシャ」のときにも、ときどき紹介することもあるのですが、よく気がつきましたね。ヤクシャの場合にはグロテスクなのですが、ボッティチェルリの方は美そのものなのもおもしろいところです。グロテスクなものと美しいものは、相反するような気がしますが、じつは近いところにあります。日本における夜叉のイメージは、インドのヤクシャと断絶があります。インドのヤクシャに近いイメージは、弁財天や吉祥天のような天女たちでしょう。実際、弁財天は江ノ島や竹生島のように、水と深いつながりがあります(これはインドのサラスヴァティーでも同様ですが)。

宗教学というと、牛肉はだめとか、女の人はサリーを着るとかゆうことを習うのかなぁと思っていたけど、「私」ということひとつとっても、私=自己=宇宙みたいなとらえ方をしていたり、爪は「私」なのかとか「私」とはどこまでかとか、深いところまでいろいろ考えられているんだと思いました。でもよく考えたら、私の周りにある空気とか、宇宙まで私としてとらえると、その空間にいる他者は私にはいるはずがないので、どうなるのでしょうか。また、空気は他者と共有しているのに私ととらえてよいのでしょうか。
宗教学(とくにインドの宗教)という学問の一般的なイメージは、たしかに外国の変わった文化の紹介かもしれませんが、それだけであれば、テレビのヴァラエティー番組と変わりません。宗教を学ぶということは、不合理なことや人間の知識の及ばないことに対して、人間がどのように考え、それを実際の生活に生かして、何を残したのかということを知ることでしょう。自己や世界の探求とは、われわれにとってもっとも身近でありながら、もっとも理解困難なものを知ろうとすることです。深いかどうかはともかく、どんな分野の人も一度は考えてみるといいのではないでしょうか。われわれのまわりにあるものと私とが、日常生活では別のものとしてとられられているのは当然です。自己と他者、あるいは自己と環境との境界が明確でないとしたら、それは精神的に何か問題があるでしょう。しかし、授業や本の中で述べてているように、自己というものをそれらと完全に切り離しては、成り立たないということも、少し考えればわかることです。自己とは、言い換えれば人間とは、このような矛盾をかかえた存在であるからこそ、追求するに値するのです。

密教や浄土教の本尊がどうして釈迦如来でないのか理解できました。仏の無量光により、衆生の救済が約束されているところから来ているとわかりました。そのように、密教や浄土教は中心となる仏がいますが、とくに浄土教は他の世界にも仏がいるという認識があるのですか。阿弥陀ばかり聞くので気になりました。今回あった法華経を少し読んだことがあるのですが、今回の話と同じようなことが書かれていました。そのときはよく分からなかったのですが、仏の三昧の内容が書かれていると知り、納得できました。たしかに、天才の発想を一般の人びとが理解できないように、すでに悟った人の深い思考の内容を、私たちが理解しようとするのはむずかしいはずだと思います。
浄土教でも基本は大乗仏教の世界観なので、無数の仏国土の存在を前提としています。たとえば、代表的な浄土経典のひとつである『観無量寿経』では、偉提希夫人に釈迦がさまざまな仏の世界を見せてくれます。しかし、偉提希夫人はその中では、阿弥陀の極楽浄土が一番生まれ変わりたい世界だと答えます。そして、釈迦がその願いに応じて、極楽浄土の瞑想の方法を教えるという筋書きになっています。法華経のような仏典は、そのまま読むと、ほんとうに荒唐無稽ですし、支離滅裂なところ、説明をまったくしてくれないところ、論理的に矛盾としか思えないところなどさまざまな要素が含まれます。これを、合理的に理解しながら読むのは相当に困難です。私も高校生のとき、法華経を読んでみましたが、さっぱり理解できませんでした。はじめは、しっかりした入門書を読みながら、実際の経典でその箇所を確認するというのがよい読み方でしょう。仏教学の文献は、入門書から専門書まで膨大なものがあります。

ヴィルシャナ(毘盧遮那)が世界を照らしていて、その光を浴びれば救済されるなんて、思いっきり他力本願の世界だと思いました。そんなに楽をして救済されていいのですか。される側は他にもっと努力しなくてもいいんですか。もしそうなら、それはなぜですか。
単純な質問のように見えますが、ここには宗教の本質に関わる問題があります。神や仏のような超越的な存在を前提とする宗教は、世界に無数にあります。そして、その神や仏はわれわれの願いを聞いたり、われわれに恩恵をもたらす存在であることが多いでしょう。そのとき、われわれに努力することを常に要求するとは限りません。むしろ、その力が強大で、われわれ人間をはるかに超越した存在であればあるほど、相対的にわれわれは非力であり、無能となります。あるいは、その恩寵や慈悲の思いが絶対的なものであれば、その前ではわれわれの努力や意志はほとんど意味を持たなくなります。むしろ、人間のもつ能力の無力さを知り、そのような超越的な存在を信じることだけが求められるでしょう。他力本願というのは一般には悪い意味で用いられますが、たとえば、親鸞の説くのは、このような徹底した阿弥陀への信仰です。彼にとっては、念仏を唱えた数とか、浄土を願う気持ちなどは、極楽往生には無関係です。阿弥陀如来がわれわれを必ず救うと信じることだけが、われわれにできることなのです(それすらも阿弥陀の力でできているだけで、自分の力ではないと説きます)。仏の前でのあらゆる努力の無意味さを知り、ただ仏を信じることだけをめざすというのは、むしろとてもむずかしいことでしょう。「よいことをすれば極楽に往生できる」と考える方が、はるかに容易だからです。私の先生は「絶対他力は究極の自力(じりき)である」とおっしゃいました。逆説的ですが真理でしょう。

三千大千世界の考えは、微小のものでも成り立っていると思った。原子があって、その集まりが細胞になり、細胞の集まりが身体となり・・・というような感じで。また、昔の仏教が栄えていた時代では、「私は宇宙である」的なことを言う人はあがめられていたけど、現代では変人扱いされることに時代の流れはすごいと思った。いまはすごいと思うことも、何千年も未来になると変なこととして扱われているかもしれないと思うと、少しおもしろいと思った。
仏教の宇宙論や世界のとらえ方は、現代のわれわれにとっては荒唐無稽ですが、意外なところに斬新さを感じるかもしれません。ただ、あまり科学的にとらえる必要はないと思います。むしろ、世界のとらえ方として、このような考え方もできるのだということを、知識として持っていただきたいと思います(とくに理系の人に)。その意味で、後半のコメントに対して、私には少し違う考えを持っています。たしかに「私は宇宙である」と言ったら、現代では「頭のおかしい人」とか「オカルト的な人」と言われるかもしれませんが、それは古代のインドでも同様だったでしょう。しかし、人間が世界や自己をとらえる方法は、意外なほど昔も今も変わりません。二千年や三千年程度で、人間の思考方法や能力はそれほど変化はしないものなのです。高校までの歴史教育の影響でしょうか、われわれは、古代の人は知識もなく劣った人で、現代人は高度な文明を有する優れた人ととらえがちですが、個々の人間にそれほど違いはありません。古代のインドの人びとの思考にも、われわれが学ぶべきことはたくさんあるのです(インドに限りませんが)。

仏舎利を8つに分けて、それぞれ別の仏塔に納めるのはかなりの手間だと思うのですが、どうして分ける必要があったのですか。分けずにひとつの大きな仏塔に収まると都合が悪かったのですか。
時間の配分で前回は仏塔そのものの説明ができませんでしたが、まさにその「分ける」ところに仏塔の意味があります。これについては今回の授業の前半で説明しますが、正確には「分ける」のではなく「分かれる」そして「増えていく」のです。

今日の講義の最初に説明された無色界と「空」から「色即是空」という言葉を思い浮かべました。他に華厳経の世界観も取り上げられましたが、どちらの世界観も自分たちの在所を宇宙に見いだしている点で、すごいと思いました。科学技術の発達した現代に生きる私たちが、仏教の世界観を見て、プリミティヴだと言ってしまうことは簡単ですが、頼みの綱である科学技術をもってしても、宇宙をとらえきれない上に、自らの在所さえ把握できていない私たちよりも、はるかに意義のある世界観を持っていたのだろうと思いました。中間レポートでブラフマンについて読んだのですが、その中で一番最初の原因にあたるものが水であったのだと、今日の授業の内容から知りました。水と女性という関係は、インドだけでなく、ヨーロッパの水の精であるウンディーネなどもあったり、共通したイメージであると思いました。因中有果論は現代の科学における物質の変化の源を、もとの物質の原子に求める教え方と共通しているのではないかと感じました。
なかなか詳しいコメントでした。すでに上に述べたようなことを繰り返すことになるので、私の方からのコメントは省略しますが、科学技術と宗教は排除し合うものではなく、共存するということも、確認しておきたいと思います。科学を否定した宗教はオカルトになりますし、宗教を無視した科学は傲慢になるようです。


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