密教美術の世界
2008年11月20日の授業への質問・回答
「私」というものの所在についてあらためて考えてみると、非常におもしろいと思った。「私」というものほどこの世でたしかな存在はないのに、仏教思想では「梵我一如」のように、宇宙と一体となってしまうというあいまいなものになってしまうという矛盾がおもしろいと思った。また「宇宙」というものを考える際に、仏教から考えた宇宙観は、いまの科学から見た宇宙に通じるものがあると思った。けれど、この仏教の宇宙とは、私たちがいま想像するような宇宙とは違うのかなと思う。仏教の宇宙とは「全体」を表すのですか。仏たちの世界のことなのでしょうか。
「私」についての探求は哲学の基本です。おそらく、すべての知の営みの基本にあるのでしょう。私の所属する文学部や人文学類は、Human Studiesすなわち人間に関する探求をするところですが、突き詰めれば、人間である「私」とはいかなる存在であるのかということになります。大学の組織で、文学部や人文系の学部がたいていはじめに置かれているのは、それが学問の出発であるからです。法学や経済学などは、人間の作った法律や経済的な営みに対する研究であり、人間そのものではありません(どちらが優れているという話ではありません)。また、理科系の分野では医学部が最後にあげられることも多いのですが、医学も人間そのものをあつかう分野であり、全体を完結するところに位置するのではないかと思います。宇宙と私の関係は、前回だけではなく、このあとの基本的な考え方となります。教科書ではじめの章で取り上げたのもそのためです。仏教の宇宙とわれわれの宇宙は外見や構造はもちろん違いますが、人間が宇宙(世界)にたいして持つイメージや考え方のかなりの部分は、おそらく共通するはずです。そこから、時代や地域を越えた人間の普遍性を知ることが重要だと思っています。
私は幼い頃から、宇宙について根本的な疑問を抱いてきました。誰に聞いても答えてはくれませんでしたが・・・。日本を出ると海が広がり、世界があります。その地球の外に出ると宇宙が広がります。では、宇宙の外に出ると何があるのでしょうか。そもそも「宇宙の外」という言葉が間違っているのでしょうか。膨張し続ける宇宙ですが、膨張する場所があるのだとすると、宇宙の外にもまた別の真っ暗な世界が広がっているのだろうか。昔の人も同じような疑問を抱いていたのだろう。
たいへん、もっともな疑問です。おそらく多くの人が、同じような疑問を抱き、考えたすえ、結局はわからないという結論に達して、そのうち忘れてしまったのでしょう。それにこだわり続け、科学的に解明しようとすると、宇宙物理学者や天文学者になったりするのかもしれません。「宇宙の外」というのは、おそらく空間的な広がりを前提にして、「内側と外側」というとらえ方だと思いますが、人間の思考法として、かならずしも空間的な「外」を考えずに、別の宇宙をたてる場合もあります。たとえば、死後の世界という考え方は、ほとんどの民族が有していますが、それはわれわれの世界と物理的な関係を持った別の空間とはとらえられていないでしょう。次元が異なるという説明も可能ですが、これもやはり「宇宙の外」とみなすことができるのではないでしょうか。死後の世界というとオカルト的なものを連想しますが、じつは人間のコスモロジーのひとつの現れであり、そこで求められているのは、現代の宇宙論と共通するのです。
毘盧遮那仏の蓮弁毛彫の細やかさに圧倒されました。立体的にたくさん線が重なっていて、とても平面だとは思いませんでした。須弥山が私たちの世界だということでしたが、須弥山が複数個あるということは、人間の世界が複数あるということなのでしょうが、たとえば、アジア、ヨーロッパなどがそれぞれの世界で、その中のインドというひとつの須弥山世界に釈迦が現れたという解釈でいいのでしょうか。須弥山の世界概念図が何だかすっきり理解できませんでした。インド人の考えは私の想像をはるかに超えたスペクタクルさを持っているんですね。
須弥山には太陽と月がセットになっているので、これが太陽系くらいの規模になるのでしょう。当時のインドの人びとにとって、自分たちの世界とはインド亜大陸程度であり、その外にヨーロッパや別の大陸があることなどは、ほとんど意識されていなかったでしょう。須弥山世界は基本的に想像の産物であり、むしろ、その幾何学的な形態や反復的にふくれあがる構造に、当時のインドの人びとの世界のとらえ方があると思っています。私たちの想像を超えた規模と考え方があるのはそのとおりで、だからこそ、それを知ることで当時の人々の考え方を理解でき、さらにはそれと対比できるわれわれ自身を知ることが可能になります。
講義の最初に宇宙の話をされたときに、無限のものから部分を取り上げても、あくまでそれは部分でしかなく、すべてではないと聞いて、仏像を生んだ人びとも、それまで形而上にあった仏を一定の姿で表現するにあたって、その十人十色無限のイメージから、いかに最大公約数を導き出すかに苦心したのだろうと思いました。人体は代謝によって外界とつながっているとの話もありましたが、物理的につながっているのならば、デカルトが言った「我思う、故に我あり」のように、私たちの意思そのものが私たちの存在といえるのではないでしょうか。また、須弥山は世界の中心であるとのことでしたが、三千世界という言葉とは、何か関わりがあるのでしょうか。
宇宙を何かで表現できないという考えと、仏を表現できないという、以前の授業のテーマを結びつけて考えたのは、とてもいいことです。今回の授業も含め、密教においては仏は宇宙全体であるという考え方が表れます。まさに、宇宙そのものという存在であるからこそ、それは表現できないというとらえ方もできます。ただし、歴史的には、宇宙的な仏を考えるようになったのは大乗仏教からなのですが、そのころに仏像が登場したのは、逆のような関係になりますね。デカルトも含め、私の存在をどのように定義するかは、哲学の基本ですし、その定義の仕方から、その時代の思想や哲学が解明されます。教科書でも少し書きましたが、意思(意志)とともに記憶が「私」の重要な要素であるというのは、デカルトもふくむ近代的な人間観なのでしょう。おそらく、古代のインド人は、釈迦も含め、このような考え方はしませんでした。三千世界については、授業では省略しましたが、小世界から上部に進むにつれて、宇宙の規模が爆発的に拡大していくことと関係があります。小世界が千集まって、二禅ができるといいましたが、これが小千世界とよばれ、それをさらに千集めた三禅が中千世界、そして、さらにそれを千集めた四禅が大千世界とよばれます。大千世界には小世界が千の三乗含まれているので、これを三千大千世界ともいいます。三千世界とは、この三千大千世界のことです。
宇宙→でっかい生物、人間とか→その中で生きてる微生物 という考え方もあるのだなと思った。自分としては、生物も無生物も原子の集まりとしてとらえているので、宇宙も原子の集まり、人間と同じ次元なのだろうと思う。
逆に、人間の体全体を小宇宙とみなす考え方もあります。これは、古代以来、多くの文化で見られる人間観ですが、現代の生物学などでも同じようなことがしばしば言われます。生物学者が人間の体の内部とそのメカニズムを、細かく、詳しく知らべればしらべるほど、その完全なあり方に驚嘆します。それは、ちょうど宇宙全体がひとつの秩序のもとで、成立しているのにも似ているそうです。一昨年、話題になった本に『生物と無生物のあいだ』という新書がありますが(福岡伸一著 講談社現代新書)、その全体を貫いているのも、このような生物の持つ完璧なメカニズムに対する驚異です。しかも、その基調にあるのは「すべてのものは移ろいゆく」というきわめて哲学的、あるいは仏教的なとらえ方でした。ある人は、この本を評して「テーマは諸行無常です」と書いていました。私も同感でした。
インド人の宇宙観には、幾何学的なところがよく見られます。これは、仏の世界を表すのに必要だったからなんでしょうか。他の宗教では、このような特徴は見られないと思うのですが。それはインドが数学的、幾何学的な思想に秀でていたからでしょうか。
宇宙の構造を幾何学的にとらえるのは、インドに限られたことではありませんが、インドの思想や宗教を考える上では重要な点だと思います。幾何学的な構造というのは、世界が円や正方形という秩序だった構造を持つということです。これはちょうど、インドの宗教美術で、写実的な表現を好まず、形式的であったり、シンボルで表す傾向が顕著だったことと対応しています。交通標識などを考えてわかりますが、丸や四角というのは、典型的なシンボルです。宇宙という本来は表現不可能な存在であるからこそ、このようなシンボルで表すことを選択したということもできます。翻って考えるに、われわれ日本人にとっての世界や宇宙は、このような幾何学的な形態をとることはありません。日本にもインドから仏教とその世界観は伝わっているのですが、実際にそれを表現するときの方法は、日本では受け入れられなかったのです。
私は脳そのものではなく、それを通して生じる考え、行動の中に存在する一貫したものの中にあるのかなぁと思いました。何だか宇宙の膨張や時間の反復の説明を聞いていると、人(私)の生命=宇宙そのものという図式ができそうで、とても広大なものを感じました。
私も「私」は脳だけではなく、別の次元でとらえられるべきだとおもいます。ちなみに、授業では身体を取り上げて、「私」とは何かを問いかけましたが、じつはこれは一種のトリックで、心と体が同じレベルで存在するという前提での話です。考え方としては、それを別にして、つまり心身二元論の立場で、身体とは別のレベルで心(つまり私)をたてることも可能です。私=生命=宇宙というのは、この後の授業でも重要な図式になりますので、ぜひそのことにこだわってみて下さい。また、広大さに圧倒されるというのも重要な経験です。人間が宗教に感じるのも、おそらくそれに似たものでしょう。
レポートのために本を読んでいたため、いつもはあまりわからない話も、少しは聞きやすかったです。ジーニーの話を減らしたみたいなことを言っていましたが、私はジーニーの話に一番、興味を持ったので、本には書いてないことも詳しく聞きたかったです。
前回の授業でも少し触れましたが、ジーニーのエピソードは内容的にとても重いので、授業では取り上げませんでした。実際、この話がなくても、第一章で言いたいことは言えるのですが、内容のもつインパクトの大きさを優先して、冒頭で取り上げました。後書きにあたるところでも書いたように、ジーニーのケースは人間の発達に関するいろいろな分野で注目されたようです。私はそれを留学先のイギリスで、BBCのドキュメンタリー番組で知りました(同じ番組が、以前、日本のテレビでも放映されたということも聞きました)。それとは別に『隔絶された少女の記録』という本も出ていますので、探して読んでみてください(中央館にあります)。
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