密教美術の世界

2008年10月30日の授業への質問・回答



仏の像が似ていない理由は、聖なるイメージの好みが大きいと思います。同じものが伝わっているはずなのに、変化してしまうのは意図的なものが関わっているはずだと思いました。変化が微妙だからこそ、あえての変化ではないでしょうか。人間が作るものなので、その人の願いや、そうあって欲しいという想いが像に現れるのだと思います。
私もそう思います。「聖なるイメージ」というのは、具体的にはたとえば仏像や神の像ですが、同じ特徴をそなえた同じ仏などを表しても、インドと日本では受ける印象は大きく異なります。これが文化であり、それを生み出した人間の多様性でしょう。微妙な違いというのも重要ですね。密教の仏像は文献などにそのイメージがきびしく決められています。ちょうど、ギリシャ正教のイコンのようです。しかし、その制約の中で、どのようにオリジナリティを出すかに、それを生み出した人々の想いが込められているのでしょう。

今回のスライドで、たしかに似ている仏像がたくさんあった。その理由はおそらく中国を経由して、日本に入ってきたのだろうと思った。また、イメージの普遍性、イメージの伝承は興味深い話でもう少しいろいろ聞きたかった。イメージというものは、言葉や文字ではなく、人間にとっては感じることのできる特別なものだと思い、改めてすばらしいというか、おもしろいものだと思った。
中国の存在は大きいですね。日本の密教図像の基本的なイメージは、中国で成立しています。基本的な特徴はインドでできあがっていますが、それをどのような形で表すか、つまり様式に関しては、インドよりも中国の方が重要でしょう。しかし、その中にもインドにさかのぼる要素があるのは、また興味深いところです。文化が伝わるときにはイメージがはじめに伝わるというのは、歴史上しばしば見られます。仏教が伝わるときのことを考えてもそうです。仏教とは仏の教えなのですから、そのエッセンスだけ伝わればよいはずなのですが、実際は仏像や僧侶、経典がたいていセットで、まずはじめに伝わります。もちろん、経典には教えが書かれていますが、それだけにとどまらず、経典そのものが礼拝の対象になります。経典を書写すること、すなわち写経も重要な作業です。そして、仏教が伝えられれば、必ず寺院が建立されます。これらはいずれも目に見えるもので、当時の人々の前に圧倒的な存在感をもって現れたことと思います。その時点で、教えそのものの知識などは、ほとんど正確に理解されなかったでしょう。イメージの伝播は文化史研究の中でも魅力的ですし、重要なものだと思います。

今日取り上げられた大英博物館の仏像の右掌に、丸いマークのようなものがあったのですが、以前の授業に出てきた足の裏の模様と同じものでしょうか。一昨年、大河ドラマに出た山本勘助が摩利支天を信仰していましたが、実際にその姿を見たのは初めてだったので、意外にアグレッシブな感じではなく驚きました。イメージが言葉を不要とすることは、キリスト教においても利用されているので、宗教観の違いはあれど、基本的には同じ原理であると思いました。
右掌の丸いマークは花をかたどったもので、足の裏のしるしと同じようなものです(足の裏は千福輪ですが)。三十二相の中に足の裏にも掌にもしるしがあることが含まれることがあります。普通の人間には、掌にはシワがあるのですが、仏の場合はそれがないのでしょう(仏の生命線が長いとか、ありえませんから)。しかし、日本の仏像にはほとんど見られませんね。チベットの仏像や仏画では、掌が真っ赤に塗られています。これも地域的な違いです(チベットのはインドの絵画の影響です)。摩利支天については、日本では武士の信仰の対象となることが多かったようです。これは摩利支天という名称が蜃気楼や陽炎を意味し、摩利支天を信仰すると戦場で敵から姿を隠すことができる信じられていたからだそうです。もともと、多面多臂で武器を手にする仏なので、その迫力も魅力的だったのでしょう。しかし、インドでは女性の仏で、そのイメージはかなり柔和です。大日如来やヒンドゥー教神であるヴィシュヌ、太陽神スーリヤとも関係の深い神です(『インド密教の仏たち』第2章参照)。

密教美術がインドから日本に伝わる過程で、さまざまな努力がなされたのだろうなと思われる点が多くおもしろかった。鬼子母神の説話は以前聞いたことがあり、たいへん興味があったので、その鬼子母神もインドから伝来したものだと知り、つながりの深さを実感した。美術作品だけでなく、説話などでも、そのまま伝わったもの、少し変わって伝わったもの、まったく違うように伝わったものなどがあるのかどうか知りたくなった。
鬼子母神は日本でも有名で、東京の入谷にある鬼子母神は「おそれ入谷の鬼子母神」と、シャレにもなっています。前回の授業では、子どもを食べる神だったのが、子どもの守り神になったと、簡単に紹介しましたが、その理由が知りたいという質問もありました。これは、インド世界で広く見られる「恐ろしき女神」の信仰の話になるので、詳しい説明はここではできませんが、ごく簡単に言えば、子どもの命をコントロールすることのできる「母なる神」が、インドにはたくさんいて、それの仏教版の代表が鬼子母神となります。コントロールできるので、殺すことも救うこともできるのです。詳しくは、私の『インド密教の仏たち』の第7章をお読み下さい。説話が文化を越えて伝わることも、とてもおもしろいテーマですね。仏教関係では、インドの「ジャータカ」、日本の「今昔物語集」、ヨーロッパの「イソップ物語」などは、直接、関係があります。図像と同様、その変化のあり方が、背景となる文化を理解するポイントになるのも、ご指摘のとおりです。私の学部(学類)の授業では、そのようなテーマも取り上げています。

普遍のイメージのところで、蛇の話が出ましたが、たしかにインドでも日本でも蛇のイメージが多用されているみたいに感じました。とくに水辺の神や河の神、河そのものも蛇に重なるようで、弁財天など、女神に蛇のイメージを持っています。
蛇の信仰は、イメージやシンボルをあつかうときには必ず登場しますし、おもしろいテーマです。これに龍やドラゴンを加えると、おそらく、一番人気のあるトピックでしょう。シンボル事典などで蛇の項目をひくと、さまざまな意味が紹介されています。水に関係があるのはもちろんですが、ウロボロスといって、時間を表す蛇もいます。自分の口で尻尾をくわえた蛇で、循環する時間を表しています。異類婚といって、人間と他の生き物(多くは動物)が結婚したり、さらに子どもを残す物語にも、蛇が多く見られます。この場合は豊穣や生殖とも関係があるでしょう。弁財天と蛇が関係することは、よくご存じですね。日本で一般に知られている弁財天(弁才天や弁天ともいいます)は、琵琶をかかえた女性の姿ですが(七福神のひとりの場合はとくにそうです)、多臂で蛇をともなう弁財天が、日本には古くから伝えられています。密教系の弁財天ですが、日本の神である宇賀神と習合し、独自の信仰を生み出したようです。この弁財天は頭の上にとぐろを巻いた蛇を載せ、その中央から宇賀神の頭をのぞかせています。さらに、頭の前の方には鳥居が立っているのもその特徴です。有名なものとしては、琵琶湖の中にある竹生島(ちくぶしま)の弁天がこの姿をとります。

仏教はとても遠回りをして日本に伝わったにもかかわらず、仏像のイメージがよく似ていることには驚きました。とくに仏像の手足の数や持っているもの、脇侍までそっくりということには強い感銘を受けました。まとめの部分で、文化間でもイメージというものは伝わりやすいといっていましたが、世界史の授業でならったキリスト教の話に、キリスト教のイメージを他の民族に伝えやすくするために、偶像をつくることで行いやすくしたとあり、文化間でイメージを伝えるには、像をつくるなどのイメージかがよくあったのだと改めて思いました。
仏像の手足の数、持っているもの、脇侍というのは、密教の仏たちのイメージを生み出す重要なポイントとなります。見方を変えれば、そこだけ抑えておけば、同じ仏であることは保証されるということもできます。これも、一種の形式主義であり象徴主義です。次の段階として、そのようなポイントのみをクローズアップすることになりますが、それが今回の授業のテーマになります。キリスト教も仏教も、特定の民族や国家を越えた普遍的な宗教ですが、いずれも複雑で体系的な図像を持っているのは興味深いところです。授業でときどき紹介するヒンドゥー教も、さまざまな神々のイメージを発達させましたが、それは東南アジアなどに広がっています。宗教が文化を越えて広がるときに、優れたイメージの体系を持っていることは、おそらく重要なことなのでしょう。ただし、イスラム教のように、神の像をまったくつくらない宗教も、場合によってはそれ以上の広がりを見せます。何かその代わりになるようなすぐれた要素を持っていたと思うのですが、何なのでしょうね。コーラン?メッカの礼拝?ラマダーンなどの生活習慣?巡礼?モスクなどの寺院?


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