密教美術の世界

2008年10月23日の授業への質問・回答



仏像を作らずに代替物やシンボルで仏のイメージを作っていたことを、好きな人の写真にたとえていたのがわかりやすかったです。でも、ひとりひとりが個々に仏のイメージを持っていたということは、「自分が思う仏の姿」は、みんな少しずつ違うってことですよね。だったら、おそれおおいとしても、仏像を作ってしまって、仏のイメージを統一してしまった方が、よりいっそうまとまりが生まれたんじゃないかと思います。
仏像を作らない説明のたとえは、教科書でも使っているもので、授業でも数年前から紹介していますが、わかりやすいというコメントはありがたいです。でも、なかにはピンとこない人もいるかもしれません。要するに、自分にとって、とても大事なものは何か形で表したいけれど、それがためらわれるということを、直感的に理解していただければいいと思います。重要なのは、仏像を作らないという感情が、われわれとはまったく無関係なものではなく、とても自然であることを感じてほしいということです。同じようなことはこの授業で、このあと何度も出てくるはずです。「仏のイメージの統一」というのは、まさにそのとおりで、それだからこそ三十二相のような一種の規格化が行われたのです。仏のイメージの画一化は、もう少し先の授業でも重要なテーマとなります。

日本において、仏塔(五重塔や三重塔)イコール仏の象徴という考え方はなく、仏塔を見ても、仏陀の最期をイメージするということはないので、同じ仏教なのに、礼拝の形が大きく変化していることに驚いた。しかし、私たちの身近にも、神道など偶像崇拝をしない宗教は存在していて、たとえば、太陽や滝などの自然物や砂を山のように盛ったものを神の象徴としているのだと改めて気づいた。
五重塔や三重塔は日本にもたくさんありますね。形はストゥーパとずいぶん違います。たしかに、仏塔を見ても仏陀の最期をイメージすることは、日本ではほとんどないようです。しかし、仏陀の涅槃のシンボルがストゥーパであることは、必ずしも、それが仏陀のいわばお墓であることは示していません。もっとポジティヴなものです。ストゥーパのシンボリズムは、この先の授業で取り上げますが、むしろ、再生する生命の象徴です。釈迦の涅槃のあとに作られたストゥーパは、時代とともにその数を増やしていきます。これは日本でも同様で、奈良時代の有名な百万塔陀羅尼は、そのわかりやすい例でしょう。ストゥーパが増えるというのは、インドでも日本でも、あるいは中国、チベット、東南アジアなど、仏教の文化圏では共通してみられる特徴です。その背後にあるのは、ストゥーパのこの再生機能であると、私は考えています。くわしくは、ストゥーパの時にお話しします。偶像崇拝をしない宗教として神道をあげるのは適切です。神社に行っても神様の像は、普通はありません(ただし、神像を祀っていた神社はいくつかあります)。自然の山や木が神様であるというのも、日本ではしばしば見られます。その場合は、偶像崇拝の是非という範疇を超えてしまいますね。

たくさんのスライドを見ていて、たくさんの石像があって、ふと思ったのですが、この時代の石像に使われるような大きな石はどこにあって、どこから運んできて、何を使って彫っているのだろうと、制作過程が気になりました。ブロンズ像などもありましたが、やはり、インドの豊富な鉱山資源だからこそ、成り立った文化なのかなと考えました。お釈迦様って、実在した人物なのですか?だとしたら、どうして仏になったのですか?
授業で紹介するインドの仏像は、ほとんどが石造彫刻です。これは、木造彫刻がほとんどの日本の仏像の世界と大きく異なるところです。インドでも木造彫刻はわずかにあったようですが、ほとんど残っていません。インドはたしかに石がたくさんとれるところで、今でも大理石や花崗岩などが、世界に輸出されているようです。インドの仏像は、その制作地ごとに特徴のある石が用いられます。ガンダーラは灰色や黒っぽい石、マトゥラーは赤や茶色、南インドのアマラヴァティーやナーガールジュナコンダは白や象牙色の石です。これからの授業でもっぱらあつかうパーラ朝の石材は、黒い玄武岩です。たいへん硬いため、細部まで緻密な細工が可能ですし、磨くと光沢が出ます。どこか金属を思わせるような石です。その南のオリッサではコンダライトという石材がよく用いられます。また、パーラ朝の彫刻の先駆的な位置にあり、グプタ時代に最盛期を迎えたサールナートでは、白っぽい砂岩が用いられました。いずれも、制作地の近くで産出される石材なのでしょう。最後の質問ですが、釈迦は実在したと考えられています。少なくとも、想像や伝説のなかだけの人物と見るのは不可能です。どうして仏になったかという質問は、簡単なようで、一番むずかしい質問です。悟りとは何か、悟りにいたる方法は何かということを説明しなければならないからです。これは仏教の中でも、さまざまな見解があります。初期の仏典による説明であれば、渡辺照宏『仏教』(岩波新書)などを読んでみてください。仏教の入門書はたくさんありますが、あまりいい加減なものは見ない方がいいでしょう。

仏像を見ていて感じたのは、人々が自分の信仰を自分なりに表現した結果なのだと考えると、人々がどのような思いを仏に託していたのかがわかる。美しい女性のような仏や、手がいくつもあるものなど、人々が「超越したもの」に描いたイメージはさまざまで、だからこそおもしろいと思った。ひとつひとつの仏教美術に、説話的要素が含まれていて、仏教美術というものが、すごく身近な話にも思われ、たいへん関心がわいた。
私も、仏教美術から人々の信仰を知るということに関心があるので、このような研究をしています。「超越したもの」を人は神とか仏と呼んだのですね。このようなものは、本来は表現不可能なはずなのですが、それをどのように表したかで、その人たちの考えを読み取ることができるのです。仏教美術は説話的なものもたくさんありますし、説話的な要素がなくても、多様な主題があります。これからも関心を増やしていってください。

ナーランダー遺跡の僧院は、縦一列に並んでいましたが、一カ所を中心にかためて建てた方が移動の手間が省けたと思うのですが、遺跡の形式は何か意味があるんでしょうか。
説明を省略してしまいましたが、ナーランダーの僧院は、長い時間をかけて増築されたものです。はじめは大塔と第一僧院程度でしたが、規模が次第に拡大し、その結果、あのような僧院が一列に並んだような構造になったようです。ナーランダー僧院はグプタ時代にはすでにできており、パーラ時代には大規模化し、インド仏教の中心的な寺院のひとつとして機能していたようです。あとで紹介したパハルプールはパーラ朝時代の創建であるため、初めから大規模な建造物を、国家の援助のもと建立したようです。

説話図から礼拝図へと変わっていったというのがおもしろかった。仏像としてあった方が、信仰はしやすい気がするが、礼拝図に変わっていくにしたがって、装飾的に用いられた説話図から直接の信仰対象へというような、役割の変化もあったのでしょうか。
あったようです。初期の仏教美術はおもにストゥーパの装飾として制作され、その時点では、礼拝の対象はストゥーパだったようですが、ストゥーパではなく僧院や石窟寺院が建立され、人々がそこを訪れるようになると、礼拝の対象としての仏像が登場します。アジャンタやエローラの石窟では、窟の奥にはじめは小規模のストゥーパを置いて、これを礼拝していたようですが、あとの時代になると、その前に仏像が置かれ、ストゥーパは背景になっています(スライドでも紹介しました)。仏教美術の機能としては、説話と礼拝以外に、教化も重要です。ストゥーパの回りの説話図は、おそらくそれを見ただけでは内容はわかりませんので、それを説明する役割の人がいたはずです。一種の絵解きを行っていたのでしょう。礼拝図になっても、前回の最後に紹介したように、説話的な要素が残っていたのは、このような物語の説明を聞きたかった人たちが、この時代にもいたことを予想させます。

仏像を作ることを禁止し、偶像崇拝を認めなかったのは、そういう信仰方法もあるのだと思った。実体のないものに対して、心で祈るのは、宗教の根本のような気がした。仏は宗教界の王であり、仏は仏像であるという話は、イメージが同じであるということだけれど、そのとおりにとらえると、仏像が王であるということになってしまうのでむずかしかった。
授業では「初期の仏教美術では仏像を作るのはタブーであった」という説明に対してのみ、不適切であるといっただけで、言い忘れたのですが、仏教は仏像の制作を禁止したり、偶像崇拝を認めないということはありませんでした。仏教の僧侶や在家信者の生活規範は、戒や律によって定められていましたが、そこにはそのような条項はありません。むしろ、インドの宗教全体の基本的な態度として、像を造ることへのためらいがあったと思われます。その点で、「心で祈るのは宗教の根本」という指摘は適切だと思います。仏と王のイメージが同じということから、仏と王が同じ姿で表されるということが当然導かれますが、実際は王と仏は異なる姿で表されました。「王と仏が同じ」というのは、あくまでも理念的なレベルでのとらえ方で、実際の作品には、王や仏を形成するさまざまなイメージがあったからです。むしろ、初期の仏像よりも、授業で何点か紹介した宝冠仏のような後期の作品に、王に共通するイメージが現れます。これは、この時代の仏が、歴史上の釈迦から、宇宙論的な絶対的な存在に変わったからと思われます。

今日の午前中に県立美術館の展覧会が明日までだったので行ってきました。玉虫厨子などの国宝を石川で見られてよかったです。個人的には星曼荼羅というものを気に入りました。授業での知識がある状態で見るとまた違ったおもしろさがあります。
玉虫厨子と法隆寺展は、石川県で開催される仏教美術関係の展覧会としては、久しぶりに規模の大きなもので、私も2回行きました。玉虫厨子ははじめてみましたが、厨子のまわりの絵画がなかなか興味深かったです。星曼荼羅はこれまで他の授業で何度か取り上げてきた作品で、興味深く見ました。星占いの12の星座がすべて出てくるので、それに気がついた人は驚いていたようです。インドの占星術が中国を経由して日本に伝わり、それと同系列のアラビアの占星術がヨーロッパにも伝わったからなので、当然なのですが、文化の伝播の力にも驚かされます。展覧会は残念ながら終わってしまいましたが、これからも機会を見つけて、ぜひ実物を見るようにしてください。

教科書p.109の図4-5で、釈迦の足跡は階段の上と下にあると書いてありますが、  こういったものが足跡なのですか?
そうです。ちょっとわかりにくかったですね。授業でも同じスライドをお見せしましたが、説明する時間がありませんでした。

キリスト教はカトリック系に像をつくる習慣はありますが、基本的に十戒というルールみたいのに、偶像崇拝の禁止が明記されています。聖書にそういうエピソードもあります。モーセのあたりに。と、私がこういうことに詳しいのは、キリスト教系の学校にいたからです。ちなみにキリスト教絵画では、洗礼者ヨハネを描くときに、十字架を持たせるらしいですが、これも形式主義でしょうか。
 偶像崇拝の禁止が書かれているのは旧約聖書の出エジプト記の終わりの方ですね。十戒そのものは出エジプト記の第20章第3節から第17節にあげられ、そのふたつめに「あなたは自分のために像をつくってはならない」とあります(訳文は岩波の旧約聖書から)。さらに、シナイ山でモーセがヤハウェから十戒を授けられ、それを記した石版を持って山から下りてくると、人々は金でできた雄牛の像をつくって、それを神として信仰していたため、怒ったモーセは石版を粉々に割ってしまいます(出エジプト記 第32章)。この場面は絵画として表されることも多く、N.プッサンの「黄金の雄牛の礼拝」(ロンドン、ナショナル・ギャラリー所蔵)などがよく知られています。レンブラントも石版を割るところを絵画に描いています。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教がよく似た性格の宗教であることはしばしば指摘されますが、神の像を表すことに否定的であるのもその共通点のひとつです。ユダヤ教やイスラム教はそれが今でも徹底されていますし、キリスト教も初期はそうでした。初期のキリスト教美術には、「空の御座」(からのみくら)と言って、神の玉座のみを表し、神をそこには描かないような絵もあります。仏教の仏像の不表現と同じです。授業で強調したように、偶像崇拝の禁止は、けっして特殊なことではなく、宗教美術としては、ごく自然な態度なのです。
 質問の後半で紹介してくれているように、キリスト教の美術では、さまざまな約束事の上で、イエスやマリアや聖人などを描いています(洗礼者ヨハネは、このほか、動物の毛皮も身につけます)。このような約束事をイコノグラフィー(iconography)と言います。「図像学」と訳しますが、そのような法則を見いだし、分析する学問も指します。授業で行うことは、仏教における図像学と言うこともできます(それだけではありませんが)。


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