不動明王の信仰と美術

2008年12月17日の授業への質問・回答


感得説話に描かれる不動は、仏や自身への信仰を促す威光の伝達者のような印象を持ちましたが、身代わり不動の説話では、不動そのものが奇跡?を起こして行者を助けていて、仏の性質が強いというか、困ったときの神頼みのような印象を持ちました。平家物語の註釈で、制?迦が福徳の使者とあり、講義で見てきた鬼っ子のようなイメージは弱まっていたのかなと思いました。
泣き不動をはじめとする不動の説話が、以前に見た黄不動感得説話などと、どこか本質的なところでちがうような気が私もしています。授業ではそれを「饒舌な不動から無言の不動へ」というとらえ方をしようと思ったのですが、あまりまとまりませんでした。たしかに「お願いすれば助けてくれる」という存在に変わったのですね。「仏の性質が強い」と見ることもできますが、私自身は、むしろ仏よりも身近な存在になったような印象を受けます。近寄りがたい仏であった不動が、われわれと同じ世界に生きて、われわれの苦しみを肩代わりしてくれるのですから。ちなみに、代受苦の仏としては、むしろ地蔵や観音がよく知られていますが、いずれも、仏教の仏たちの中でもとくに人間味のある存在です。地蔵も観音も菩薩ですが、本来は明王である不動が菩薩化?しているようにも見えます。『平家物語』の訳注での童子の説明には、私も疑問を感じました。そのような解釈もあるのかもしれませんが、むしろ、あまり根拠のないまま付けられた注であるように思えます。注を付けた人は国文学が専門の研究者ですが、分野が異なるとこのようなことがしばしばあります。制?迦はあの奔放なところが魅力なのですが。

時代が下るにつれていろんな不動が出てくるのは、それだけ広く信仰されているのだなぁと思いました。でも、忿怒尊なのに泣くというのは、もともとのイメージからかなり離れていませんか?正統から少しずれたのが聖性を持つと感得像の時に習いましたが(それとは別物かもですが)、人びとは泣く不動を不動と見なせたのでしょうか。
「泣き不動」というのは、『不動利益縁起』の名で知られた絵巻物が流布していく過程で、あらたに付けられた名称なので、人びとのあいだに自然発生的に生まれたイメージのようです。「泣く」というのはたしかに、力強い不動には似つかわしくないイメージかもしれませんが、むしろ、そのギャップが重要だったのではないでしょうか。卑近な表現ですが「鬼の目に泪」のイメージで、およそ泣くことがないような不動でさえも、師を思う弟子の姿に感涙したというのがいいのでしょう。上の回答では「不動の菩薩化」という表現を用いましたが、観音が泣いても意外さはありませんが、不動が泣くから、より鮮烈なイメージを与えます。それとともに、十九相観においても、それ以外の形式でも、不動の身体的特徴に目があることも関係するかもしれません。不動のトレードマークのような特殊な目に、さらに涙を加えることで、ヴィジュアルなイメージがより強められます。

本覚思想と修験の厳しさのギャップがとても激しい。どちらにしろ救われるのなら楽な方がよいのに、それでも修験が廃れなかったのはなぜだろう。苦行を負うことができ、仏教原理に基づきたい人と、日常生活の中で救われたい人を幅広く救えるからだろうか。にしても、修験道から批判がありそうな気がするけど。悟りを開こうという人は、そんなせこいことは言わないんだろうか。不動明王に会えるのだったら、私は修験を選びたい。
不動利益縁起では、不動明王は矜羯羅たちをつれ、炎を背負っているのに、後ろ手に縛られて連行される様子が何となくおかしい。早く気づいてあげて!とつっこみたい。形相が忿怒や沈黙だからか、やり方が心優しい不良みたいなのもよい。閻魔が丁寧な謝辞を述べるあたり、不動>閻魔なのだろうか。
本覚思想は日本仏教を特徴付ける重要な考え方です。インド仏教でも「如来蔵思想」といって、人は誰でも如来の本性を持っているという考え方がありましたが、正統とはみなされませんでした。それに対し、日本仏教はどの宗派も本覚思想を基本的な考え方としています。授業で紹介したように、禅も浄土教もそうです。ただし、視野を少し広く取り、神や仏の救済にあずかるパターンとしてみたとき、とくに日本の仏教に特有であるわけではありません。苦行などの修行を通して、神の救済を得るという考え方と、そのような人間の努力は、神の前においてはゼロに等しいのであって、われわれはいかなる努力も捨てて、ただ神の恩寵にあずかるしかないという考え方の両方が、多くの宗教で見られるからです。インドでは「サル派とネコ派」という喩えが有名です。子猿が母ざるに運ばれるとき、子猿自身がしがみつく(すなわち努力する)のに対して、子猫は母猫に首をくわえられて、何もしなくても運んでもらえる(ヤマト運輸のイメージです)という違いです。母猿や母猫が神、運ばれる先が悟りや神の国に相当します。注意しなければならないのは、いずれも困難であることです。「人間の努力は神の前にはゼロに等しい」と口で言うのは簡単ですが、それを信じ、すべてを神のはからいにゆだねるのは、むしろきわめて困難です。そのためには神への絶対的な帰依や信頼が必要です。人間とは「努力すれば報われる」と考えるものなのです。苦行や修行はそのわかりやすい手段です。

羽黒山の秋峰についての資料を見て、たった一週間でこれだけのことをするのかと、すごく驚きました。気になったものをあげると、野花摘み、天狗相撲、ヤッホー(鳴子)・・・ピクニックかよ!と思いました。あまり寝ないで朝日に?むかって叫んだり、参道を駆け下りたりというのは、現代的な言葉で言うと、すごいハイな人ですよね。もちろん、実際は非常に真剣なものだと思いますが。修行というのは、精神的なものだと思うのですが、何らかの活動、行為がともなうことが多いという感じがします。先行するのはどっちなんでしょうか。
たしかにものすごくハードなスケジュールですが、実際の修行の様子は私もよくわかりません。ドキュメンタリーの映像などがあるようなので、関心がある方は図書館で探してみて下さい(羽黒山の入峯は、たしか中沢新一氏が監修したものがあります)。野花摘みやヤッホーは何をするんでしょうね。天狗相撲は実際に行者たちが相撲を取るようです。修験と天狗(とくに烏天狗)はいろいろ関係があります。「南蛮いぶし」なんて、全然見当つきませんが、何となくこわそうです。修行は基本的には実践が先で、精神的なものはあとからついてくると思います。身体にあえて苦を課すというのは、意味がないことのように思えますが、それによって、日常的な身体や精神の状態を、いったん別の状態にするのではないかと思います。ディスクの初期化のようなものです。それによって、あらたな人格や精神が宿るのでしょう。「死と再生の枠組み」というのも、同じようなことです。

清水寺に行ったときに胎内めぐりというような名前のところがありました。清水寺は北法相宗だということなのですが、本尊は十一面観音でした。胎内めぐりなどがあることから考えて、清水寺は密教系なのではと想像したのですが、どうでしょう。胎内めぐりは狭くて光の届かない地下道のようなところに入って、大きな数珠を手探りでたどって一周して帰ってくるというものでした。途中に丸っぽい石があって、触ってくるというのが意味ありげでした。
清水寺は奈良時代の779年の開基とされていますが、坂上田村麻呂伝説とも関係がある開創伝説もあります。もとは法相宗に属していたのですが、現在は独立して北法相宗の大本山です。修学旅行などでもおなじみのところなので、行ったことのある人も多いでしょう。観音菩薩が本尊で、観音の霊場を集めた西国三十三所の札所ですし、とくに清水寺の十一面観音の形式が独得であることから(頭上で合掌しています)、清水式観音という名称でも呼ばれます。胎内めぐりは清水寺に限らず、多くのお寺にあります。基本的な形式は紹介してくれているとおりです。真っ暗闇というのが重要ですね。胎内めぐりは地獄めぐりととらえられることも多く、ここでも「地獄=再生のための通路」という、日本独特の地獄観が見られます。石を触ってくるというのは、肝試しの感覚でもありますが、肝試しも墓場を通過するように、一種の擬似再生の体験なのでしょう。

教養の授業で絵巻について習ったとき、『信貴山縁起絵巻』をやったんですが、あれも徳のある僧が山ごもりしていたり、不動は登場しないが童子は登場したりと、今日の授業を聞いてると、この絵巻を思い出したんですけど、何かしら関連があったりするんでしょうか。
日本の絵巻物の代表的な作品である『信貴山縁起絵巻』は、信貴山の長護孫子寺の高僧命蓮の活躍を主題としています。命蓮は密教の僧侶ですが、奈良と大阪の境にある信貴山は、生駒山地の修験の拠点のひとつで、修験道とも関係があったようです。絵巻の全体は「山崎長者の巻」「延喜加持の巻」「尼君の巻」の三部からなります。とくにはじめの「山崎長者の巻」は「飛倉の巻」とも呼ばれ、倉が空を飛んだシーンなどが有名です。美術の教科書などで見たことのある人も多いでしょう。この倉は命蓮の加持の力で空を飛びました。二つ目の延喜加持の巻では、山にこもったままの命蓮が、童子を遣わして醍醐天皇の病気平癒を行い、やはり命蓮の加持の力を伝えるものです。ここに出てくる空を飛ぶ童子の姿も有名で、「護法童子」と呼ばれますが、毘沙門天の眷属の中によく似た姿の童子が含まれます。毘沙門天も修験道と縁の深い仏で、天台ではしばしば不動と対になって登場します。長護孫子寺の本尊も毘沙門天です。

倶利伽羅の不動寺には、善無畏三蔵が来て、倶利伽羅龍の巻き付いた剣を彫ったものを本尊とし、弘法大師がその前立を彫ったと言われています。インドの善無畏も弘法大師も本当に倶利伽羅まで来たのか、伝説だと思いますけど・・・。江戸期は境内にある手向神社とともに大いに栄えたらしいです。神社の最新は手力雄だったと思いますが、力がありそうで、不動との取り合わせとしておもしろいです。
善無畏が日本に来たという伝説があるのはおもしろいですね。善無畏は真言宗の八祖のひとりなので、重要な人物なのですが、あえて善無畏を選んだのは、彼が『大日経』の翻訳者だったからでしょう。不動が登場する重要な密教経典が『大日経』です。弘法大師が各地に伝説を残していることはよく知られていますが、ここでは善無畏の脇役なのですね。

身代わり不動の話ですが、十王信仰においては、秦広王の本地仏が不動で、閻魔王の本地が地蔵です。絵巻物では引き立てられてきた不動を、驚いた閻魔が伏し拝んでいますが、十王の中にも序列があるのでしょうか。
十王信仰は晩唐のころに成立した偽経『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』(略称として『預修十王生七経』)が典拠とされますが、日本では『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略称として『地蔵十王経』)が平安末に現れてから本格的に流布したようです。十王と仏教の仏との本地の関係も、それ以降、知られるようになりました。おそらく『不動利益縁起』にはまだ、十王と本地仏との関係は意識されておらず、不動を見てもそれが秦広王とは思わなかったでしょう。地蔵が不動に変わって代受苦の仏の中心となるのも、閻魔の本地仏として、地獄からの救済者としての役割を担うようになったためでしょう。


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