不動明王の信仰と美術

2008年12月10日の授業への質問・回答


仁王経のマンダラを見たときに、一番外側に八尊が描かれているとのことでしたが、十二体あったので、十二天かと思ったのですが、十二体いても八尊なのですか。私は富山出身なので、上市の滝の修行はニュースでよく見たことがあります。修験は具体的に何をするのか知らないのですが、基本的には山に登るということでいいのでしょうか。立山は登るだけでもたいへんそうなので、十分修行になると思うのですが。山から逆さ吊りにするなんて無茶すぎます。でも、山に登ってたいへんな思いをするというよりも、一回死ぬ、逆さ吊りにして懺悔するという儀式的な意味の方が大切なのかもしれませんね。
仁王経曼荼羅の外側には、金剛界マンダラでも四門に置かれる四摂(ししょう)菩薩が四方に位置し、残りの八カ所には四天王と帝釈天、火天、水天、風天がいます。仁王経曼荼羅のようなマンダラを別尊曼荼羅といいますが、別尊曼荼羅の仏たちの配置は儀軌に定められていることが多いので、適当に並べることはできません。仁王経曼荼羅は四摂菩薩の他にも、金剛界マンダラの内の四供養菩薩、外の四供養菩薩が含まれ、全体的に金剛界マンダラから流用された仏たちが多く見られます。これは仁王経曼荼羅に限らず、他の別尊曼荼羅にもしばしば見られることで、中心の仏は特別でも、回りは金剛界や胎蔵界のよく知られた仏たちでかためるというパターンです。別尊曼荼羅は日本密教特有の曼荼羅で、とくに平安時代にさまざまに発達した修法と結びついています。日本のマンダラ研究の重要な主題になります。修験で何をするかは、それぞれの地域や伝統でいろいろありますが、基本的には山に入り、さまざまな修行をすることです。資料では羽黒山の修験の内容を紹介しましたが、一日中、ほとんど休みなく、何かをしていることがわかります。護摩を焚くことも重要な儀礼のひとつです。ご指摘のように、儀礼的に一度死ぬことが基本にあるのでしょう。修行階梯を十界にあてはめるとともに、死と再生の枠組みをとることもそのためです。

今さらですが、金剛界と胎蔵界がどう違うのかわかりません。描かれる尊格(マンダラで?)が異なるというだけではないのですよね。修験を行うのは男性だけなのですか?また僧侶に限られたのでしょうか。一般庶民が行うというものではないのですか?
金剛界は『金剛頂経』、胎蔵界は『大日経』という経典にそれぞれもとづいたマンダラです。いずれも大日如来を中尊としますが、そのまわりの仏たちの構成は大きく異なります。マンダラの構造自体も違います。日本密教(とくに真言宗)ではこのふたつのマンダラを両部の曼荼羅と呼び、すべてのマンダラの中でも最重要のものに位置づけます。しかし、インドにおけるマンダラの歴史を見ると、胎蔵界はまだ発展途上のマンダラで、金剛界で基本的な枠組みが確定します。さらにインドでは、後期密教のさまざまなマンダラがその後にも登場しますが、金剛界よりもあとのマンダラは、日本にはほとんど伝わっていません。このあたりのマンダラ全般については私の『マンダラ事典』を参照してください。修験を行うのは、古い時代と現代とではかなり異なるでしょう。日本に密教が伝わるよりも前の時代には、山を修行の場とする特殊な修行者たちが、修験の原型となるような実践を行っていたようです(「山林とそう」といいます)。平安時代以降、本山派と当山派が成立し整備されていくと、それぞれの宗派に属する僧侶の中に、修験をもっぱらとする者たちが現れたのでしょう。それが大衆化したのは江戸時代のようです。現在では、修験の修行をする一般の人たちも大勢います。そのリーダー的な存在の人のなかには、修験道の特定の組織に属さない人もいるようです。このあたりは、四国遍路の大衆化などと同じ流れがあるのではないかと思います。

上市にこんな温泉ができたんですね。いつか行ってみなくては・・・。でもTシャツは要らないです。霊山は全国にあるとは知りませんでした。よく聞くのは恐山ですが、なぜ恐山が一番有名なのでしょうか?私が聞いたのは、恐山の景色が地獄のようで、そこに魂が集まってくるから・・・というものでした。しかし、漫画からの知識なので、本当かどうかは不明です。景色だけが要因とは思えないし・・・。有名な人が恐山にいたとかですか?
上市の温泉はなかなか良さそうですね。写真にうつっている不動明王のステンドグラス?とか一見の価値がありそうです。私はTシャツもほしいです。それを着て授業をするとか・・・。恐山以外の霊山も、火山の場合、地獄に結びついたものが多いようです。立山もそうですし、箱根も有名です。おそらく、火山特有の硫黄の煙や火山湖などが、地獄の景観を彷彿とさせるのでしょう。釜ゆでとか血の池とか。地獄は日本人にとって、ひとつの典型的な死後の世界で、そこを通過することで、新しい生に至るという考え方があります。恐山はイタコが有名ですが、死者がそこにいるということと、死者のメッセージを伝える霊媒、すなわちシャーマンがいることが、恐山のポイントになると思います。このあたりは、恐山のオーソリティである比較文化のアンドリューズ先生に聞いてみてください。

修験の活動において、山に入ることが一度死ぬことを意味し、また、生まれ変わるために、いろいろするという説明がありましたが、何か水に関わる行動はないんですか?木曜日の授業で、水が再生の儀礼に重要な役割を果たすと習ったし、山が母体(母体?)を表すのであれば、その胎内には水があってしかるべきだと思うのですが。
今期の私の授業はこの不動と、木曜3限の儀礼の比較研究ですが、しばしば内容がリンクするので、両方出ている人にはぜひ双方の内容を役立ててください。水の指摘はおもしろいですね。配付資料にもありますが、修験は密教儀礼を多く含んでいるため、灌頂も取り入れられています。とくに、修行の完成段階に置かれているようで、これによって免許皆伝という意味のようです。当然、ここでも水は使われているはずで、本来の密教の灌頂儀礼が持っていた「水による再生」の意味を継承しています。その他にも修験の修行には水がつきものでしょう。滝に打たれる行や、冬に冷たい川に入る行などは、よくテレビなどでも紹介されます。上市の六本の滝のことも、配付資料にありました。水が持つ「浄め」や「みそぎ」の機能が基本にありますが、それとともに水によって特別な存在と関係を持つという意味も読み取れます。今回紹介する文覚の滝行も、そのひとつです。滝や川は異界とわれわれの世界をつなぐ媒体の役割を果たすようです。

別の授業で山の神は女性だとされていると学びましたが、今回の資料にあった西ノ覗という荒行が、臨死体験−修行−生まれ変わるとった母胎?をイメージしたものであることと関連があるのかなと思いました。やってみたいです。
山の神が女性であるというのは、日本全国で広く見られる信仰です。修験の場合、これに女人禁制が結びつくこともしばしば見られます。大峰山は今でも女人禁制です。女性が山に入ることが禁じられるのは、山の神が嫉妬するからだという説明もありますが、むしろ、同性であることによる自己撞着?のようなものが忌避されたのではないかと思います。女性の持つ豊穣性や多産のイメージが、山の持つ同じような機能と重なることで、一種の飽和状態になるのを避けるということです。もちろん、女性と穢れ(宗教学、あるいは民俗学的な意味での)が強く意識されたこともありますが、それはむしろ後でつけられた意味のような印象を私は持っています。山そのものを母胎とみなすという発想は、たしかに「死と再生」の修行にぴったりのような気がしますが、あまり肉体的なイメージはないと思います(洞窟が産道を表すとか)。「やってみたい」というのは、西ノ覗の逆さ吊りのことですか?私はあまりやりたくないです。

医王山は私も行ったことがあるのですが、あそこが修験道の拠点だとはまったく知りませんでした。医王山でも護摩行が行われていたんでしょうか。医王山には寺などがないと思っていたので驚きました。そもそも霊山とは何をもって霊山とされるのでしょうか。
医王山は加賀と越中の境の山で、このあたりの修験の山としても重要なもののひとつだそうです。山岳修験はそれぞれの山がばらばらにあるのではなく、ひとつのネットワークを形成することもあったようです。たとえば、白山も立山も天台系の修験の山として昔から有名でした。これは、比叡山からこの北陸まで、同じグループの山岳修験の山々がつながっていることを示しています。滋賀と岐阜の県境の伊吹山や、滋賀と福井のあいだの己高山(こだかみやま)などもその一部です。修験の行者は、本来「山の民」のような人たちだったようで、おそらく山を生活の舞台として、「里の民」とは別の世界を生きていたのではないかと思います。そのような人たちには、山を移動することは容易だったのでしょう。なお、医王山の医王とは薬師如来を指します。薬師如来は天台の山岳寺院に祀られる仏として、最も一般的です。これも天台系と関係があるのではと思っています。

山に神々が住んでいるというのは、もとはどこから生まれた考えなんでしょうか。アニミズムとか関係あるのかなと思います。私の専門の演習で読んでいるテキスト(インドネシア諸島あたりの話)では、海に女性の精霊がいて、収穫を感謝したり・・・みたいな話もあったので、海に神々がいてもいいんじゃないかと思ったんですが・・・。
私はあまり用いませんが、アニミズムというのは、かつて宗教学や人類学で好まれた概念で、かなり一般にも知られているようです。本来は、あらゆるモノには生気(アニマ)が宿るという考え方に対して名付けられ、さまざまな宗教を進歩史的にとらえるときに、その原初段階に位置づけられるようです。それとともに、日本の宗教はアニミズムが基本であるといった場合、多神教とか八百万の神のような考え方と組み合わされて用いられる傾向があります。その多くは「だから日本人の宗教観は特別で優れている」という文脈であることが多いようです。さて、海にも精霊が宿るというのは、日本でも見られますし、他の国でもしばしば認められるでしょう。修験の中心として紹介した紀伊半島でも、熊野のあたりは蓬莱信仰や観音の浄土である補陀洛信仰が古くからあり、海上他界観、つまり、海の彼方に死者の国や仏の国があるという考え方が見られます。基本的に日本人の他界は山岳と海上のふたつがあるのでしょう。インドネシアの宗教とは、直接結びつくかどうかはわかりませんが。

「新奇の法」はおそらく今でいうカルトや新興宗教のようなものだと思うのだが、よく淘汰されずに残ったなぁと思う。異端なものというのは社会からはじき出されそうなのに、なぜ残ることができたんだろう。現代でも多くの新興宗教があるが、うまく人の心の隙間に入り込むような教えを説いているように思う。これは宗教全般に言えるのかもしれないが。
修法に見られる「新奇の法」のことですが、権力と結びついたことが大きかったでしょう。修法の世界は結果が出ることが何より重要でしたから、あらたな修法を編み出して、それを実際に行ったことで、効果が得られたならば、それを期待した権力者たちは繰り返し行うことを期待したでしょう。密教の儀礼というのは基本的には文献に定められ、しかもそれを師から弟子に忠実に伝えることが重視されましたが、その一方で「阿闍梨の意楽」といって、儀礼を行う阿闍梨が、独自の方法を生み出すこともしばしば見られました。それによって、より強力な霊験が得られれば、だれも文句を言いません。異端というのはむずかしい概念で、日本の仏教の場合、ほとんどそれが問題にされることはなかったでしょう。そもそも、教理的には日本の仏教全体が異端のようなものです。キリスト教が公会議などで「正統と異端」を峻別するようなメカニズムは、日本仏教には存在しませんでした。例外的に、立川流が邪教として迫害されるようなこともありましたが。

「日本の儀礼は図が残っていてすごい」という話がありましたが、インドやチベットの人は言葉だけで、その儀礼が想像できるほど、修行を積んだのでしょうか。チベットの文献にはさし絵がないので、訳せても、全然その場がわかりませんが。
「日本の儀礼は図が残っていてすごい」というのは、インドの儀礼文献を専門として扱っている私の率直な感想です。サンスクリットの文献を読んでいて、「儀礼空間」というものを、いつも想像しなければならないからです。日本の指図のようなものがあれば、どれだけ楽だろうかと思っています。インドやチベットでは、実際に儀礼を行う伝統の中で、補助的にこのような文献が成立したので、わざわざ図を載せる必要がなかったのかもしれません。それとともに、日本人が何でも記録に残したがる不思議な民族だったということも考えられます。指図は儀礼のマニュアルではなく、実際の儀礼を行った記録として残っているからです。これは、歴史書をほとんど残さなかったインド人と、逆に膨大な歴史書を残した日本人との違いかもしれません。


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