不動明王の信仰と美術

2008年12月3日の授業への質問・回答


昔は出産や病気での死亡率が現代よりもずっと高かったので、祈願というものがとても重要視されていたのだと思った。図録の写真と先生がお撮りになった写真では、同じ像とは思えないくらい受けるイメージが違った。やはり像の大きさや像が置かれている場所などが見る人に与える影響は大きいのだと感じた。
たしかに出産も病気もたいへんだったでしょう。『栄花物語』を読んでいると、ひっきりなしに修法の話が出てきます。物の怪も多いですね。摂関政治というと、藤原氏が自分の娘を入内させ、跡継ぎの男の子を産ませ、本人は摂政や関白になって権力をふるうという教科書的な説明を連想しますが、相手が人間なのでそれほど簡単ではないことがよくわかります。娘を入内させるところまではできても、そのあとの懐妊、出産、しかも男子誕生という条件をクリアすることは、いかに道長の権力が強大でも容易ではありませんでした。道長の信仰世界は金峯山に残る経筒に記された文章が有名ですが、密教、浄土教、弥勒信仰、修験道など、ありとあらゆるものを動員して、祈願しています。後半のコメントの、軍荼梨明王の写真も、紹介したような印象を持ってもらえてよかったです。実は私も同じ作品を、奈良博の「明王展」という展覧会で、10年ほど前に見ているのですが、すっかり忘れていました。3.6メートルという巨像ですが、広い展覧会場で見るのと、お堂の中で仰ぎ見るのとでは、印象が違うのでしょう。宗教美術は本来の空間で見ることが理想です。展覧会会場は便利ですし、照明もよく当たってきれいですが、本当の姿ではないことを意識する必要があります。

昔の平安時代にできた不動が、美術史でいう「基準作」であるということでしたが、素人目には顔が消えてしまっているし、そこまでよく保存されているとは言えない気が・・・。そうした作品であっても、基準作になるのは年代がはっきりしているからですか。
そうです。美術作品の年代は、近代の芸術家のものはともかく、授業で扱うような古代や中世の作品は、年代が不明のものがほとんどです。東寺の五大明王も作品そのものには年代の記載はありませんが、制作状況がわかっているため、基準作となります。これによって、様式や技術などから他の作品の年代も推定できます。東寺の不動はたしかに顔の部分がかなり摩滅していますが、体や光背などはよく残っていますし、他の四大明王は保存状態も良好です。なお、仏像などに作者の銘が記されるようになるのは鎌倉からがほとんどで、わずかに平安後期に数例ある程度です。作者の銘以外にも、結縁交名と言って、その作品の成立に関係した人々(たとえばお布施をしたとか)の名前を列挙したものもあります。これも年代推定の重要な根拠となります。

五壇法では不動は左端に配置されているのが気になりました。個人的に、リーダー的存在は真ん中に位置しているのが自然だと思っていたので。でも、平安時代の役職では左優位だったような気がするので、一列配置の時には、尊格の高い不動を左端に配置したのかなと思いました。
五壇法における五大明王の配列は、授業で紹介した『阿沙婆抄』などでは不動が左端でしたが、それ以外の配列もあるようです。そのときの阿闍梨の意向や、依頼主の皇族や貴族の関係で、配列が変わったようです。左大臣が右大臣よりも上位だったりするので、左優位というのも面白い発想ですが、おそらく仏の配置ではあまり意識されなかったと思います。基本的に、日本の仏像の配置は左右をシンメトリーにすることが多いようです。

前回分の資料の中で、五大明王がしょっている炎の形が気になりました。東寺講堂の像、東寺の絵はどちらかというと模様っぽい炎で、醍醐寺の絵と像は写実的な炎だと思います。像の場合、炎は平面になっていますが、背景のような感じがしました。絵だと、模様っぽい感じの炎だと、背景としてみることも可能ですが、写実的な炎の方が、存在感があると思いました。後、シャッタースピードの話しをしていましたが、カメラは何を使っていますか。
明王の炎の表現は面白いですね。カルラ炎にしたものも、様々な形態がありますし、東寺の絵画のようにぐるぐるの渦巻きも不思議な模様に見えます。絵画の場合は問題ないのですが、彫刻の場合、火炎の光背は後補であることが多いようです。東寺講堂の五大明王のは、たしかすべて後補だったと思います。高野山の八大童子の中心に置かれた不動像の光背も、独特のカルラ炎ですが、これも残念ながら後補です。なお、火炎光背は火天にも現れます。明王のものと比べてみても面白いかもしれません。授業で紹介した写真を撮ったカメラは、ミノルタのαSweetDという製品です。私は35mmフィルムの時に、ミノルタのα507を長い間使っていたので、デジタルもミノルタにしています。このカメラを買ってしばらくしたらミノルタのカメラ部門はSONYに身売りされてしまい、ショックでしたが、何とかSONYの名で継続しているようです。Nikonのデジタルもかなりはやく買っています。D70です。ただ、私の腕が悪いのか、あまり使い勝手がよくありませんでした(ピントが甘かったり、ストロボが使いにくかったり)。調査などで写真を撮り始めたのは20年以上前なので、他にもうちには累々たるカメラの山があります。

玉眼はどうやって仕込んだのか、前々から気になっていましたが、後に入れるときはなるほど、けっこう簡単にバスッと切って入れてしまうもんなんですね。授業とは関係ないのですが、三月堂の不空羂索観音は、胸の前に合わせた手の中に水晶(?)が入ってましよね。あれは(私的には)謎です。また、前回の観想を眺めて思ったんですが、便所でつばを吐いては行けないという禁忌や、セッチンマイリなどの便所にまつわる俗信や慣習は、烏枢沙摩明王と関係、結びつきはあるんでしょうか。
玉眼の入れ方は、仏像の構造などの本によく紹介されています。面貌部の後ろから入れて、木などで留めるようです。奈良博の地下に、パネルで展示されていたと思いますので、機会があれば見て下さい。不空羂索観音の水晶は知りませんでした。ただの合掌ではないのですね。謎に思うのはいいことですので、ぜひ調べてみて下さい。トイレのタブーと烏枢沙摩明王との関係も同様で、なにか面白いことが出てくるかもしれません。

本日の講義で、道長や栄花物語など社会的地位の高い人々の生活に、五大明王が入り込んでいるのはわかりましたが、一般庶民の生活にも、不動や密教儀礼は意味を持っていたのですか。
おそらく、ほとんど浸透していなかったでしょう。天台も真言も朝廷や貴族を相手に修法をおこなうことが普通です。べつにこれは金持ち志向というわけではなく、そもそも日本に仏教が伝来したときから、僧侶は朝廷の許可のもとで、彼らのために働いていたのです。一種の公務員ですね(年分度者と言います)。そうではない僧侶は私度僧と呼ばれ、公式の僧侶とは認められていませんでした。仏教が人々の救済を本格的にめざすようになるのは、平安後期からで、浄土教の念仏聖などが先駆的で、空也などがよく知られています(奈良時代も行基のような人がいましたが)。しかし、一般の人々も信仰世界を持っていたことはも、今昔物語集などから明らかです。道祖神や荒神などの信仰が紹介されていますし、観音や地蔵、文殊などの個別の仏の信仰もポピュラーでした。不動もこれらの仏と同様に、次第に単独で信仰される庶民の仏になっていったようです。

個性豊かな日本の明王と、没個性化したインド、チベットの忿怒尊が興味深い。明王に限らず、日本で像(図像)化された仏や神様は、他国に比べて個性が強く出ている気がする。大阪市立美術館常設の中国の仏像も、「菩薩像」など名前がわからないものが多かった。日本ではイメージの明確性を重視する国民性があるのか、逆に他国ではその必要性がない何らかの理由があるのだろうか。他国は、上層部だけ明確ならば、他は補助的な役割に落ち着いてしまうのだろうか。脇役に構成をつけたがるあたり、日本的な気がする。それぞれのものに神様を見いだした日本独自の宗教観というのは考えすぎだろうか。作るんだって明確なイメージやその仏像ないし図像への思い入れがないとテンションがあがらないと思う。他国では一体一体というよりも、全体としての信仰が強かったのだろうか。
面白い指摘ですね。五大明王は個性あふれるのに、十忿怒尊はどれも似たりよったりで、区別がつかないというのは、授業でも紹介しました。じつは、仏の個性がなくなるのは、インドの密教美術でも見られることで、チベットの忿怒尊は、それを忠実に受け継いだものです。仏をグループ化して、個々の仏よりもグループ全体を重視するという指摘はそのとおりです。その背景には、一定数の仏からならグループを描かなければならないマンダラの出現も、重要な要素だと思っています。「仏のイメージの画一化」は、私自身、以前から気になっているテーマで、90年ころに「十忿怒尊のイメージをめぐる考察」という論文を書いていますし、最近では、奈良でおこなわれたシルクロードのシンポジウムで、「密教仏の成立」というテーマの発表をおこない、この問題を活字化しました。日本では脇役にも個性を与えるという視点は、私にはありませんでしたが、そのような文化論に結びつけるのも面白いですね。

修法で物の怪をはらおうとする様子は、想像するとすごく不気味だなぁと思うのですが、五大明王というのは、そういった物の怪を倒すような存在なのでしょうか。いまいち戦っているようなイメージがありません。あと、五大明王のイメージと出産がいまいち結びつかないのですが、五大明王には安産の力があるんでしょうか。
明王による物の怪退散は、たぶん、想像通りの不気味な世界でしょう。物の怪といわれてもわれわれにはピンと来ませんが、当時の人々にとってはとてもリアルな存在だったのでしょう。栄花物語を読んでいても、物の怪が「よりまし」に移ったり、奇声を発したり、自らの正体を明かしたりと、たしかにそこにいるという確信を持って書かれています。五大明王が安産に登場するのは、それだけ、この明王に対する人気が高かったからでしょう。ひとりでも強力そうな明王が、五人もそろって助けてくれるのですから、頼りがいがあります。安産に関係する恐ろしいイメージの者としては、アングリマーラというのがいます。これは、釈迦の説話のひとつで、殺人鬼だったアングリマーラが改心して、仏法に帰依するという物語なのですが、東南アジアの上座部仏教では、このアングリマーラの呪文が、安産のために唱えられるそうです。私自身はこの信仰を、人の命を奪う者が、人の命の誕生も司ると理解しています(くわしくは『インド密教の仏たち』第7章参照)。

インド・中国・日本で○大明王などに取り上げられる尊格が違うようですが、入ってくる過程で変わったのですか。意図的に変えたのですか。日本で、馬頭は観音で、中国だと明王というのも差があって面白いと思います。不動とかより、馬の頭を持つ方が人間離れして怖いと思うのですが。孔雀明王は図を見る限り、横の大威徳、軍荼梨と同じグループには見えません。穏やかな顔をした明王もいるんですね。
明王やそれに相当する忿怒尊のグループの顔ぶれが異なるのは、時代や流派の違いによります。仏の世界も人々の人気を繁栄して、新しく人気が出てくる仏もいれば、しだいに忘れ去られる仏もいます。明王の場合、五大明王の組み合わせは中国で短い期間流行しただけで、インドには原型をさかのぼれませんし、中国も後の時代になると烏枢沙摩を加えたり、八大明王にした方が人気があったようです。十忿怒尊は後期密教の『秘密集会タントラ』という経典に登場する明王系のグループで、この経典の流派がインド密教の主流になったために、その後の明王のグループとしてはもっともポピュラーになります。孔雀明王は外見どおり、明王には見えません。本来は孔雀明妃といって女性の仏だったからです。陀羅尼といって、一種の呪文を司る仏で、とくに毒蛇除けに効果のある呪文の仏です。孔雀は多産や安産の象徴でもあり、孔雀を点滴とするヘビも多産のイメージでとらえられます。孔雀明王を主尊とする孔雀経法という修法は、安産祈願の修法として、平安時代にはもっとも好まれたようです。紹介した栄花物語では、五大明王も孔雀明王も総動員して、安産を祈ったのです。


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