不動明王の信仰と美術

2008年11月19日の授業への質問・回答


矜羯羅の形は15歳の童の如しとありますが、昔は15で元服して大人になるものだと思っていました。清浄比丘はさらに年長のようですし、童子に含まれる年齢層は結構広いのですか。
たしかにひとことで童子と言っても、幼児のような年齢から、青年まで含まれますね。それに、平均寿命が70歳を超えた現代と異なり、古代や中世の日本では平均寿命はせいぜい50歳くらいでしょうから、おそらく、同じ15歳でも現代の高校生とはかなり異なるイメージだったはずです。「15歳の如し」というのは、いまであれば、成人年齢の20歳か、大学生が卒業する22歳くらいを考えた方がいいのかもしれません。私自身の童子のイメージは、青年よりも少年で、小学生くらいの男の子を連想します。童を「われべ」と訓読みすると、さらに年齢は低くなります。「翁童信仰」と言って、老人(とくに男性の老人)とセットで登場する童子というのが、日本の昔話や芸能などにはしばしば見られますが、その場合もかなり小さな子どもというイメージがあります。「永遠の少年」というようなフレーズがあるように、このような少年は男性でも女性でもない中性的なイメージがあり、そのはかなさに魅力があると考えられたと思っています(実際に、あらゆる少年がそうであるかは別問題ですが)。

不動堂は住居を基本と言っていたけれど、誰が住むために作られたのですか。病にかかり、余命わずかのものが最期を過ごす場所だったのでしょうか。そうなると、死にそうな人が順番にあそこで暮らしたということでしょうか。
そういうことのようです。そうすると、不動堂は一種のホスピスのようなものになります。実際、高野山という聖地で自分の最期を迎えたい貴族や僧侶はたくさんいたそうです。浄土教の臨終行儀を紹介しましたが、その基本的な作法は、『往生要集』の著者として有名な横川(よかわ)の僧都源信の『横川首楞厳院二十五三昧起請』などに定められています。それによると、臨終を迎える人は、極楽往生を祈願する特別な建物に移され、そこで、講の仲間たちに見守られながら、極楽往生を願って、ひたすら念仏を唱えます。そのとき、阿弥陀の来迎を見ることができれば、極楽に往生したことが確実になります。阿弥陀そのものではなくても、それを予想させる紫雲や芳香がすればよいという記述もあります。不動堂もそのような臨終行儀が行われた場所ではないかと推測されていて、仏堂などや護摩堂などの寺院の形式ではなく住居形式であること、内部がほとんど汚れていないこと、床に何らかの儀礼を行ったと思われる痕跡があることなどが、その根拠としてあげられています。ただし、臨終行儀のためには、かならず特別な建造物が必要だったわけではないようで、『栄花物語』の道長の臨終では、法成寺という既存の阿弥陀堂が用いられていますし、『法然上人絵伝』では、通常の住居が臨終行儀の場として用いられている場面がたくさん登場します。

運慶作の像の中に蓮台の上にのった月輪の木札が入っているというのが興味深かった。月輪というものが仏教にとって特別な意味を持っているからなのかと思った。先生のお話を聞いて、高野山に行ってみたくなりました。
高野山は私が三十代を過ごした場所で、いろいろな思い出があり、つい授業でも関係のない話をしてしまいましたが、とてもいいところですので、ぜひお出かけ下さい。奈良や京都とはまったく別の「観光に毒されていない」宗教空間です。さて、月輪についてですが、月輪はすべての仏教で特別な存在というわけではなく、とくに真言密教で重要でした。密教には月輪観という瞑想法があり、仏の観想として月を瞑想するのです。これは、マンダラなどに表される仏たちが、月輪の中にいるとイメージされるためです。また、月輪はたんなる満月の形だけではなく、私たちの心と、そこに生み出される菩提心(悟りを求める心)、そしてその結果である悟りそのものも表します。悟りとは仏になることですから、結局、月輪を瞑想するのは、仏を瞑想することであり、これをつなげていくと、私たち自身も仏であることを悟ることになります。密教では「阿字観」という瞑想法もあり、それは月輪の上に大日如来を象徴する「阿」という文字(実際は梵字で書きます)を瞑想する方法です。仏の胎内の、とくに胸の部分に蓮台にのった月輪があるのは、このように、月輪にわれわれと仏をつなぐ媒介の役割があるからです。授業でも紹介したように、このような月輪の初期の例として、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来があります。平安浄土教美術の代表とみなされている定朝のこの仏像も、じつは、密教思想とも深く関係しています。平安時代の中期以降の仏教が末法思想や浄土教一色に染まったような説明が、高校の日本史などでは見られますが、実際はもっと重層的で、密教と浄土教も不可分の関係にありました。

写真がいっぱいあってわかりやすいのですが、もしわかるのならば、大きさも載せてほしいです。「不動堂の不動明王」はたしか思ったより小さかった気がするのですが、よく思い出せないとか、他の仏像と混同してしまうことが私には多いので・・・。寺の名前を覚えるのが苦手なのです。よかったらよろしくお願いします。二童子である制?迦と矜羯羅が、ふたりで一組であったのと同じように、八人で一組としてとらえると、どのような調和を生み出すのか、写真で見ただけではよくわからないのが残念です。ただ、元ネタや図像に頼るということは、一時的なものではなく、意味を持たせた童子だと思う。並び替えるというのは、私もやってみたいです。十二神将が外を向いているのと同じように、きっと意味というか何かある気がする。
仏像の大きさを提示するというのは、たしかに重要なことです。可能であれば、やってみたいですが、すでに作ってあるスライドには、あらためて調べるのがたいへんなので、新規のものからにします。不動堂の不動明王はたしかにそれほど大きくはありませんが、とくに小さいということもなく、標準的?な大きさかと思います。八大童子はいずれの一メートルにも満たない小像ですが、不思議なことに、記憶の中ではどんどん大きくなります。実際の作品を久しぶりに見ると、こんなに小柄だったんだという印象を受けます。これは、おそらく作品のレベルの高さや充実感とも関係しているのではないかと思います。八大童子を一組としてとらえた場合の意味は、よくわかりません。8人相互でイメージもかなり異なり、そこから何らかの意味を読み取るのは困難です。少し先に『不動利益縁起』という絵巻物を紹介しますが、そこには八大童子がそろって登場します。八大童子の並び替えは、パソコンではできそうなので、試してみて下さい。3Dなどで表すことができれば、さらにいいかもしれません(テレビの教養番組などでやるといいのですが)。しかし、もともとは白描図像のイメージから作られた像なので、ひょっとしたら、立体的に表しても、統一感が生まれないかもしれません。奈良の神薬師寺の十二神将などとは、少し違う結果になるような気もします。

最勝の方に話していた高野山の町の様子が、とてもおもしろく興味深かったです。門前町として機能していて、また宗教というジャンルにおいて、ひとつの地域性がかいま見れました。また、不動堂に浄土宗の傾向のものが見られるということも、おもしろいと思いました。
高野山は下界とは隔絶された世界です。山岳信仰は日本の宗教のひとつの典型で、各地に聖なる山や修行の場としての山がありますが(白山や立山もそうです)、高野山ほど規模が大きく、長い歴史を持ったところは、それほど多くはないと思います。人文地理や社会学などの立場から、現在の高野山を研究してもおもしろいともいます。歴史地理の分野では、かなりの研究の蓄積があります。高野山の仏教に浄土宗(浄土教といった方が適切)の影響が見られるのは意外かもしれませんが、すでに上でも述べたように、平安時代の仏教は密教と浄土教がかなり融合しています。とくに、高野山の場合、平安後期に密教が著しく浄土教化します。その代表が覚鑁(かくばん)で、結局、高野山から離れて根来(ねごろ)に降りて、新義真言宗(豊山派や智山派はその代表)を開くことになります。

不動堂で、本当に宗教儀礼が行われていたのだとしたら、なぜその儀礼はテキストにしろ、口伝にしろ、後世に残らなかったのですか。木曜日の授業(仏教学特殊講義:日本とインドの宗教儀礼の比較研究)を聞いていると、儀礼とテキストは結びついていると感じていたのですが。もし、本当に宗教儀礼的なものが行われていたのだとしたら、高野山ほど有名な山で行われていた儀礼が伝わってないというのが気になりました。
たしかにそうですね。高野山でも「二十五三昧式」のようなものが残されているそうで、臨終行儀が行われていたことは確かなようです(研究として和多秀乘(昭夫) 1972 「高野山の二十五三昧式」『仏教文学研究』11: 325-360。)。しかし、不動堂で実際に行われていたかは明確ではないようです。授業で配付した資料では、それを示唆する史料がいくつかあるという紹介でした。ただ、臨終行儀のような儀礼は、あくまでも私的な儀礼なので、正式な記録のような文献は残りにくいようです。儀礼に関する文献としては、密教の場合、儀軌といって、実際の儀礼を行うためのマニュアルのようなものがありますが、臨終行儀は密教儀礼ではありませんので、残っていません。また、後七日御修法などの国家的な儀礼の記録は、かなり克明な史料が残っているのですが、これはいわば国家行事の公式の報告書のようなものです。臨終行儀はこれにも相当しません。ひとくちに「儀礼と文献」と言っても、さまざまなケースがあるのです。

八大童子の像を見ていると、先生もおっしゃってたことですが、不動の性質がどこかに(顔とか)入り込んでいるんだなと思いました。ということは、逆に八大童子をひとつにしたものが不動であるともとれるような気がします。そういう意味で、相互補完的というか何というか・・・。白描を見ると余計に童子≒不動だなぁと思いました。
他にも、不動のイメージや性質が八大童子に与えられているという指摘が見られました。主尊と左右の脇侍という三尊形式というのは、インド仏教以来、仏教美術の基本的な形式として普遍的に見られますが、それがどのような意図のもとで作られたかについては、意外にあまり研究されていません。その中で重要な研究としては、インドの従者に「行者タイプ」と「戦士タイプ」があるというものがあります。これは仏教では観音と弥勒が相当しますし、ヒンドゥー教では梵天と帝釈天が典型です。これに、神話学で有名な「三機能説」を結びつける考え方もあります(三機能説についてはフランスのデュメジルや日本の吉田敦彦の著作を見て下さい)。しかし、これも不動の二童子には適用できません。三尊形式の通文化的研究といった大風呂敷な研究があってもいいのではないかと思っています。

高野山、密教、山上と閉ざされた空間のようですが、不動堂に浄土教の痕跡が残るなど、修験、聖などを含み、他宗派に開かれた空間に見えます。
たしかに高野山は宗教的にインターナショナル?なところです。奥の院の参道には、親鸞や法然の墓などもありますし、名だたる大名、皇族などの墓もあります。「天下の墓所」ともよばれます。奥の院の一番奥には、弘法大師の御廟があります。御大師様のもとに葬られることを、誰もが望んだのです。弘法大師は弥勒であり、釈迦の救いにあずからなかった人びとを、まとめて救済するとも信じられました。大師信仰そのものも四国遍路で知られるように、真言宗に限定されない「開かれた実践」ですね。


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