不動明王の信仰と美術

2008年11月12日の授業への質問・回答


子どものあやうさが、童子の静と動の表現につながるというのは、子どもの不完全さ、極端に走りやすい性質に由来するのではないか。しかし、だからこそ子どもは大きな力を含んでいるともいえる。大江健三郎の「飼育」とか、そんな子どもの力を表現しているんじゃないのでしょうか。
私もそう思います。宗教や美術で子どもが重要な位置を占めるのは、子どもそのものが持つ力というよりも、子どもに対して持つ大人のイメージに由来するのでしょう。授業で紹介した「周縁性」というのは、社会全体から見た子どもの相対的な位置です。昨今の社会問題として、犯罪の低年齢化や、少年による残虐な事件などがよく取り上げられますが、私自身の感覚として、同じような事件や傾向はいつの時代にもあるような気がします。とくに最近多いのではないのです。大人が持っているバランス感覚や抑制力のようなものが、少年には未発達であるのは当然で、それがエスカレートすると凶悪犯罪を起こすのです。授業で紹介したナチスドイツのヒットラーユーゲントや、中国の文化大革命のときの紅衛兵などは、それが社会的に組織されて、暴走した例でしょう。日本の70年代の学生運動もそうですし、古くは少年十字軍や魔女狩りなどもあげられるかもしれません。宗教の一般的な現象として、既存の枠内に収まりきらない存在や現象は、聖なる価値を帯びます(感得像もそうでした)。大江健三郎の「飼育」は私は読んでいないので、読んでみます。少年を主人公とした作品としては、コクトーの『恐るべき子どもたち』などが、このような例として思い浮かびます。映画や漫画などでも、社会と対立する少年(あるいは少女)を主人公とする作品が、たくさんあるのではないかと思います。

制たかの体が赤く表現されいてるのは、「赤ちゃん」などの言葉にもあるように、子どもの特徴のひとつとして表現されているのではないかと思いました。矜羯羅が白く表現されていますが、これも童子の特徴なら、聖徳太子像もそれにならったのでしょうか。以前、聖徳太子像が白いのは、栄養失調と聞いたことがあるのでしょうが、またそれとは違った見方ができると思いました。
制たかが赤く、矜羯羅が白いのは、二童子の対称的な存在を色によっても表現しているのではと思いますが、たしかに子どもの体の色にも関係するのかもしれませんね。赤ん坊や赤ちゃんは、生まれたばかりの子供の体の色が、多血症により赤く見えるためと、Wikipediaに紹介されていますが、民俗学や国語学では別の説もあるかもしれません。聖徳太子が色白のなのは栄養失調のためというのははじめて聞きました。裕福そうなイメージなので、少し意外です。はじめはおかっぱのような髪型だった矜羯羅が角髪(みずら)を結うようになるのは、聖徳太子などの童子のイメージが矜羯羅にも適用されたからと考えています。弁財天やダキニ天などとともに描かれる童子たちが、みんな角髪を結った姿で表されているのは、このおとなしい素直な系統の童子を増やした結果だと思います。これに対して、制たかの系列の方はあまり増えることがありません。これも両者の大きな違いでしょう。

不動明王に仕える立場であるのに、小心であったり、悪性である童子なのだろうか。矜羯羅はそれでも「仕える」という立場からわからなくはないが、制たかはどう見てもチンピラが極まった顔と態度です。ただ、不動明王を救者としてみると、矜羯羅があっていて、怒りの仏を見ると制たかを連れているのが当然に思える。二人合わせて不動と通じるものがあり、同時に多少、姿が変わったとしても、不動の側の二童子は、見ただけでどちらが矜羯羅、制?迦かわかるようになっている。一見、かみ合わない対極の性質は、童子に調和という意味も持つのだろう。同じ調和でも、日光、月光みたいな従者は不動には似合わない。
対極的なものがそろっていることで、全体が調和して安定しているというのは、そのとおりだと思います。たしかに、仏像の脇侍で、このような組み合わせはあまりありませんし、あったとしても、不動と二童子を模倣したようなものが多いようです。小心と悪性というネガティヴな表現を、仏の従者に使うのは不思議ですが、このようなイメージは、われわれが子どもに対して期待するイメージそのものかもしれません。おとなしくて、よく言うことを聞くという性格と、やんちゃで無邪気な性格なのですから。

二童子の両極さが、不動のアンバランスさを振り分けれれているというのは、なるほどと思いました。童子の数が8、36と増えていくと、個性や役割も薄れていくような気がするんですが、数が増えても、矜羯羅と制?迦はオリジナルというか、中心的な役割なんでしょうか。それとも、8、36童子の内のひとりという同等の扱いなんでしょうか。その辺がよくわかりませんでした。
八大童子でも三十六童子でも、矜羯羅と制たかは特別な存在のようです。不動のすぐ近くで、対になって描かれますし、他の童子たちよりも目立った存在であることは、多くの作品で共通しています。八大童子の場合は、矜羯羅と制たかの6尊もそれぞれ個性的な姿をしていますが、それでも、二童子とその他の六童子という意識が感じられます。三十六童子の場合、矜羯羅と制?迦と同じ姿をした童子たちをたくさん並べただけで、そのほとんどが矜羯羅と制?迦と同じようなイメージです。三童子で見たように、基本となる矜羯羅と制?迦がいて、その一方を二人に増やすというところで、すでにこのような発想があったのだと思います。逆に言えば、童子の典型として矜羯羅と制?迦を登場させたら、それとは異なる性格の「第三の童子」を生むことは、困難だったのでしょう。

矜羯羅と制たかを見て、義経と弁慶の組み合わせを思い出した。「動」と「静」というのを同じ画面(枠組み?)の中に存在させることで、意図的に不安定さを演出しつつ、たがいに抑制し合う(補い合う?)ことで、安定性を生み出しているのかもと思う。両極を設定することで、その作品をニュートラルなものに仕立て上げているような気がした(「危うさ」というのがひとつの要素なのだろうか?)童子像といっても、ぱっと見て童子とわかるものもあれば、「えっ・・・」と思うような童子もいて、当時の人々は何をもって童子としていたのかと不思議だ。
義経と弁慶もそうですし、主人公がふたりの小説では、このような正反対のキャラクターにすることが多いようです。性格も外見もまったく異なるのに、ふたりのあいだには深い友情があったとか、ライバルであったとかそういう設定です。双子が主人公の物語も多くありますが、その場合は、外見はそっくりなのに、性格は正反対というパターンになります。もっとも、外見も性格もそっくというのでは、わざわざ主人公をふたりにする必要はないのですから、当然ですが・・・。童子像の実際の姿にいろいろあるのもおもしろいところです。日本からはなれて、ヨーロッパの絵画や彫刻でもそれは同様です。たとえば、幼児キリストを描いた中世の絵画などでは、われわれが見ても少しもかわいくない赤ん坊のキリストが描かれています。当時の人々の「聖なる子ども」のイメージなのですが、こういうところに文化の違いを感じます。最近、『子どもの図像学』という本が出たのを生協で見ました。日本の美術でも同じようなものが作れるのではないかと思いました。

屏風絵で好まれる絵柄に「唐子」があります。中国人の子どもが花車を曳く絵柄が多いのですが、その数は必ず奇数(陽の数)で、五人唐子、七人唐子、十五人唐子等々があります。子孫繁栄を願う意味で描かれたものですが、仏画では偶数(八童子等)なのは不思議です。
唐子がからなず奇数というのはおもしろいですね。仏教絵画でも、先回紹介した中の「弁財天十五童子像」などでは、奇数ですが、不動の脇侍の場合は偶数です。これは、中尊の両側に左右対称となるように配置するためと思いますが、中尊もあわせて数えれば奇数になります。数の象徴性は、どの文化にもありますが、中国の場合、陰陽や風水、八卦などと関連するので、いろいろ複雑な様相を呈しています。インドでは3、4、7、8、16などがよく現れます。素数とその倍数が好まれますが、これもどの文化でも見られることです。

中世の御伽草子では、稚児物語などで男色の世界が描かれていて、そのときの稚児はか弱い女性らしいイメージだったので、制たかや八大童子、酒呑童子などとはかなりちがう感じだと思いました。
授業で配布した阿部先生の文章にも、日本の文学や芸術における童子の多様な世界が紹介されていましたが、男色も大きなテーマになります。授業でも触れたように、女性と童子はいずれも社会の周縁に置かれた存在で、両者に通じるものがあったようです。少年を性の対象とする考えも、古くから見られます。前回の授業での童子の二分法に従えば、矜羯羅に代表される「恭敬小心」の素直な童子の方が、女性化の方向を進み、絵画の中では人数を増やして登場するようです。それに対して「悪性の」制?迦は鬼と通じるイメージをとるようになり、その場合は単独で巨大化、醜悪化するようです。酒呑童子はその代表でしょう。

童子(少年)は、子どもと大人の境界に位置するから、現世と異世界の境界、人と異形の境界、さらには性の境界を簡単に飛び越えられる存在として描かれているのだと思った。慈悲と忿怒という仏が持つ二面性を分離、両極化したものが不動の二童子なのだと納得した。
童子の持つ周縁性というのは、まさにこの「境界に位置する」ことです。それは配付資料の文章や、参考文献の中の津田氏の研究にも見られる基本的な視点で、日本史の黒田日出男氏の童子に関する研究でも見られるものでしょう。また、同じようなとらえ方は、女性や被差別民などの、やはり社会の周縁に置かれた存在にも適用されます。もちろん、このような視点は魅力的で有効ですし、現在ではむしろ広く認められたとらえ方なのですが、それほど古くからあったわけではありません。歴史研究で社会史が流行した80年代頃から主流になったように、私自身は思います。その背景には、さまざまな文化現象に見られる境界の重要性に注目した記号論的な人類学の影響もあったのではないかと思います。山口昌男の『文化と両義性』(岩波書店、1975)などは、そのような立場からの学際的な研究のはしりです。

運慶作とされる八大童子像の制かたが、規定や先例とは異なり、少年美の極致として表現されていることを知り、ふと疑問に思ったのですが、そもそも難共語悪者を童子で表現している点に違和感を持ちました。自分のなかでは子どもは純真、無垢な象徴のような気がするんですが・・・妖怪でも座敷わらしなど子どものものがありますが、恐ろしいのではなく、いたずらっ子な感じで、少年心が恐ろしさを持つというところが引っかかります。
授業で読んでもらった文章は、インドの少年神と関係の深い母神が、子どもの守り神であると同時に、子どもに死をもたらす恐ろしい神であるというのが、話の流れにあります。日本の子どもはたしかに純真無垢、いたずらっ子というイメージも強いですが、子どもの妖怪には恐ろしいのもいると思います。たとえば、子啼き爺は、老人のイメージもありますが、けっこう怖くありませんか? 妖怪の世界でも子ども、女性、老人など、社会の周縁のものが主役となることが多いような気もします。


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