不動明王の信仰と美術
2008年10月29日の授業への質問・回答
「異形」の不動を見ていたからかもしれませんが、同じポーズ(モチーフというかスタイル?)や、同じ十九相観をもとにしていても、少しずつ違った部分があるのは、美術史的に見ておもしろい部分だと思いました。いろいろな要因があるとは思うのですが、絵師に対してイメージを伝える修行者の違いによって異なるのかなと思いました。思い描く仏のイメージはやはりひとりひとり違うもののような気がするので・・・。(感得像ってつまりこういうことになるのでしょうか)。むしろ、十九相観に完全に沿ったオリジナルって存在するのだろうかと、ちょっと疑問に思いました。
今回詳しく説明する予定の、感得像そのものについて、先取りして考察したよい質問だと思います。実際に感得像とよばれるものは、十九相観などの規範どおりの像と、それほど大きな違いはありません。逆に、感得像とよばれなくても、独特の特徴を持っている作品はたくさんあります。感得像を成り立たせる根拠として、図像の特異な点とともに、感得体験という一種の神秘体験があります。これがセットになっている典型的な例が黄不動です。円珍という高僧の特殊な体験があったからこそ、黄不動は感得像というあらたな規範になり、多くの複製品を生んだのです。しかし、感得体験という神秘体験は、仏をイメージするという点で、複雑な問題をはらんでいます。観想法や成就法のようなイメージの創造とは異なり、そこに現れるイメージは規範どおりではありません。質問の中の「ひとりひとり違う仏のイメージ」がまさにそれです。そこに宗教図像の本質のひとつがあるということを、今回の授業の結論あたりで取り上げます。美術史の研究者が感得像をあつかうときには、このような発想はほとんどありません。感得像はどのような点が特異であるのか、それは既存の図像のどこに典拠があるのか、ということに関心が集中します。美術作品には「あるべき姿」というものが必ず存在するという、暗黙の了解の上で考察するのでしょう。感得像と宗教体験というのは、美術史と宗教学の接点となる学際的な問題であると、私は思っています。
赤不動はとても派手で、特徴的だと思いました。密教では忠実に写すことが重視されるので、典型と違う像があると「感得像である」など何らかの理由付けをしなければ、その像の尊厳を示せないということでしょうか。
それも感得像の本質に関わる問題です。密教図像は文献によって規定されたイメージにしたがっているのが原則です。しかし、実際の作品は必ずしもそれに忠実ではありません。また、文献には記述のない情報も、実際の像をつくるときには必要です。さらに、いったん、イメージが確立したならば、それが規範となって、複製がつくられ続けていきます。しかし、それは美術作品(とくに宗教美術)にとって、かなり危険なことです。形式が固定化すれば、作品そのもののオリジナリティが失われてしまうからです。感得像はそのジレンマを解決し、「あらたな規範」を生み出すことを可能にする作品でしょう。そこに感得説話のような権威が結びつくことで、「像の尊厳」を生み出す条件が整うことになります。黄不動感得説話の場合、さらに周到に、「自らの像を描け」と、複製の奨励まで含まれています。
三童子に名前のない童子を入れたのはどうしてですか、せっかく八人とか三十六人童子がいるのに、彼らを入れずに、こん羯羅と制たかにこだわっては、他の童子の意義がわかりません。あと、走り不動はアクティブで新鮮でした。実際、不動は移動するとき、走るのですか?仏は自分の足で移動するより、乗り物に乗ったり、平行移動するイメージがあります。
三童子と八大童子、三十六童子はそれぞれ系統が別のようです。こん羯羅と制たかは十九相観にも含まれるように、とくに重要な童子なので、どの組み合わせにも登場しますが、それに誰を加えるかは、とくに共通しません。また、八大童子と三十六童子は典拠となる文献があるのですが、三童子にはありません。そのため、三番目の童子は名称も姿もはっきりしません。蓮華を持ったり、こん羯羅や制たかのコピーのようなイメージになるのもそのためでしょう。童子については八大童子を中心に、二回分予定しています。高野山の不動堂の作品が中心ですが、作品そのものが見応えがあります。なお、走り不動については、サンダルを履いていることを指摘してくれた方もいます。授業中に言及するつもりだったのですが、忘れてしまいました。配付資料で確認しておいて下さい。不動も走るときには履き物が必要だったのですね。ただの坐像や立像は裸足です。
「感得像」としてあつかわれる異形の不動と、「〜様」として類別される不動の違いは何なのでしょうか。もともと大師様からさまざまな経緯を経て生まれたイメージであるのに、あつかわれ方が違うのは、作例の数の問題なのか、それとも生まれた経緯がはっきりわかっているかどうかなのだろうか。
そのいずれでもあると思いますが、私自身は「規範と逸脱」という言葉でとらえています。「〜様」とよぶのは「大師様」や「十九相観様」といった、典型的な像であり、それに従って、多くの像がつくられました。これらは「規範的な像」とよぶこともできます。これに対して、感得像は特定の感得説話が誕生の背景にあるのも重要ですが(すでに述べたように権威になりますから)、それ以上に、規範的な像から逸脱しているという点が本質だと思います。逸脱というのは、まったく異なるのではないけれども、どこかでズレているという意味です。これについても、授業でお話しします。なお、感得とよく似た言葉に、阿闍梨(密教の師僧のこと)の「意楽」(いぎょう)という言葉があります。これも感得像のように、規範どおりではない作品を説明するときによく用いられる言葉ですが、阿闍梨が意図的にイメージを改変した図像です。感得が受け身的であるのに対し、能動的な逸脱を行っています。日本密教では、文献には根拠を持たないさまざまな図像や儀礼があります。これらを説明するときに、えらい阿闍梨の「意図的な改変」があったからと言うのです。阿闍梨の自由裁量に任せられた部分が大きかったのです。便利な言葉で、密教の論文なのでもよく使われるのですが、これも落とし穴で、「阿闍梨の意楽」というだけで、それ以上の説明を放棄してしまうことになります。なぜ、そのような自由裁量が可能であったのか、変更したのはなぜか、などの方がずっと重要なはずなのですが。
黄不動が今まで見てきた不動明王とかなり受ける印象が違って驚いた。肉体描写が腕とか足は筋肉がすごいのに、おなかとか胸はたぷたぷに見えて、何か違和感が・・・。踏みしめているのが岩座でも人間でもなく、虚空なのが気になった。得体の知れない感じを出したかったのだろうか。
黄不動の筋肉表現が独自であることは、美術史家も注目していて、柳沢孝という平安仏画の大家は、その表現が解剖学的にきわめて正確で、それを表現できるような絵師は当時の日本にはいないのではないかという根拠で、中国成立説を提唱しました。以下の論文です。
柳澤 孝 2005 「園城寺国宝金色不動明王画像(黄不動)に関する新知見:不動明王画像修理報告」『美術研究』385: 135-150.
この論文は、柳沢先生が亡くなられてから発見されたもので、弟子が整理して公表しました。これまで黄不動の中国成立説を唱えた研究者はほとんどいなかったので、話題になりました。同じ雑誌には、仏教美術の大御所の高田修先生のコメントも載っていて、なかなか興味深いです(高田先生は中国成立説に賛成も反対もしていません)。
赤不動を最初に見たときも思ったが、日本不動明王像の顔は、妙にコミカルだと感じた。黄不動ではそのコミカルな面がより強調されているようにも感じる。平安期の像というのは、こういった目や口が強調された、現代人が見ればコミカルとすら思えるようなものも多いのだろうか。
黄不動を見てコミカルと感じることはとても重要です。私もそう思いましたし、おそらく他にもそう思う人もたくさんいたでしょう。本来、黄不動は霊験あらたかな像であり、円珍はその姿から圧倒的な印象受けています。けっしてコミカルなイメージではなかったでしょう。しかし、黄不動などの忿怒尊は、しばしばコミカルなイメージなります。これは、チベットの忿怒尊も同様で、全然怖くありませんし、むしろ滑稽です。私は「恐ろしい像」とか「グロテスクなイメージ」は、容易に滑稽になると考えています。恐ろしさを強調したり、誇張すればするほど、逆にリアルさよりもおかしさを生み出すようです。地獄絵でも感じることです。
不動が元寇の時、怨敵退散の祈願のためによく用いられたということは、その利益の根拠となる由来があったのでしょうか。「敵が攻めてきても動じることはない」ということからでしょうか。
不動の名称からそのような解釈もあったかもしれませんが、基本的に怨敵退散を祈願するときには、明王を本尊とする修法(密教儀礼)を行います。不動明王は明王の中でも中心的な存在で、このような修法の時にはしばしば用いられます。五壇法といって、五大明王全員を本尊とする修法もありますが、そこでも不動は中心です。他に、大元帥明王というとんでもない姿の明王がいて、この修法も重要です。とくに大元帥法(たいげんのほう)とよばれます。怨敵退散は降伏法(ごうぶくほう)とか調伏法(ちょうぶくほう)とよばれることも多く、密教の四種の基本的な修法のひとつです。残りの三つは息災(そくさい)、増益(そうやく)、敬愛(けいあい)です。いずれもインドに起源があり、インド密教でもチベット密教でも盛んに行われました。ただし、降伏法の主尊に不動が選ばれることは日本に特有で(おそらく中国からと思われますが)、インドやチベットでは別の仏です。たとえば、チベットでは大威徳明王が進化(?)したようなヴァジュラバイラヴァという仏が好まれました。
修験道は神道から生まれたと思っていたので、円珍が関わっていたのが意外だった。ということは、修験道の修行は天台密教系なのだろうが、真言密教の影響を受けたりはしなかったのだろうか。というか、真言宗の方は「空海の後継者」のような存在がいたかどうかすらよく知らないのだが・・・。
修験道は神道のようなものと思っていらっしゃる人が多いようですが、むしろ仏教に近い宗教です。山岳信仰と結びつくことが多いので、山岳修験ともいいます。北陸では白山や立山が有名ですね。修験道についてはあらためて取り上げますが、授業でも言ったように、滋賀の園城寺(三井寺)、京都の醍醐寺と聖護院が、修験の総本山として重要です。園城寺と聖護院は天台、醍醐寺は真言宗です。高野山も修験と密接な関係があります。高野山がある紀伊半島は、世界遺産にも登録されていますが、熊野、吉野という重要な修験の拠点を擁しています。世界遺産に登録されたときも、参詣道というこれらの聖地をつなぐルートが主役となりました。これは修験のための修行の道です。
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