不動明王の信仰と美術

2008年10月22日の授業への質問・回答


イメージするだけで不動が現れるって聞くと、何だかすごく簡単な気がしたのですが、実際、悟るとなるとやっぱりむずかしいのかなーと思いました。不動を悟る(一体化する?)ことを、行者は目標として十九相観を行いますが、不動とひとつになることのメリットって何でしょうか?イメージして、それを崇拝するだけでは駄目なのでしょうか。
仏教では早くから仏のイメージを瞑想するという実践法が行われていました。仏像の特徴である三十二相(頂髻や螺髪などの32の身体的特徴)も、本来は仏を瞑想するためのポイントだったとも言われます。見仏とか観仏といいます。釈迦が涅槃に入った後の仏のいない世界で、信仰や礼拝の対象を自らの想像力で生み出そうとしたのです。次の仏である弥勒が現れるのは、ずっと先のことです。浄土教における来迎も、そのような「仏を見ること」の特殊なケースと考えられます。そのレベルでは、たしかに「見ること」だけで十分で、その仏に礼拝や供養をすることで、功徳を積んだのでしょう。しかし、密教の時代には、仏を信仰の対象とするだけでは足りず、仏とひとつになることが求められました。日本密教では「入我我入観」と言います。仏が自分に入り、自分も仏に入り、不可分の境地に達するのです。もともと仏教とは「仏になること」が目標の宗教です。それをイメージの世界で実現させるのが密教です。ただし、どんな仏でもいいからひとつになるというのでは、狐憑きや神がかりとかわりがありません。そのため、密教では瞑想の前提として、大日如来という宇宙原理的な仏を登場させます。すべてが大日如来であり、その大日如来が自己とで同一であることを悟るのです。すべてが大日如来ですから、どんな仏でも最終的には大日如来になります。やっぱり、悟るというのはむずかしいことですね。

密教独自の瞑想法である不動十九相観を学びましたが、体に19の文字を置いて自分自身をグレードアップさせ、不動と一体になるというこの瞑想法は興味深かったです。「立印軌」の中に19の文字が書いてありますが、それぞれ意味があるのでしょうか。「カン(りっしんべんに感)」という文字が何度か出てきますが。
十九相観の説明は、よくわかりませんでしたというコメントも多く見られました。今回、冒頭でもう一度説明するつもりですが、簡単に補っておきます。インドでは文字を体の特定の部位に配置して、身体の聖化を行う修行法がありました。これは儀礼を行う前に、行者が自分自身の体を浄化するプロセスのひとつです。体に配置される文字はそれぞれ特定の神を象徴し、体全体が一個のマンダラのようになります(このことは授業ではふれませんでした)。密教でもおそらくこのような身体技法があり、不動に関する儀礼でも行われたと思います。その一方で、不動にはさまざまな身体的な特徴があり、それをひとつひとつ確認しながら、瞑想をしたことが、大日経やその他の経典からわかります。上の質問への回答に書いたように、不動の姿を瞑想するときに、体に文字を布置することが前段階としてあり、その数が19であることと、十九相観の19というは、おそらく対応していると考えられます。その場合、19という特異な数が現れるのは、インドで一般的な16カ所への文字の布置が基本にあり、それに、おもに頭部の三カ所への真言の布置を加えたためと推測されます。16の文字が単音節であるのに対して、3カ所の文字が長文であり、あきらかに異質であるからです。さらに、あらたに加えられたと考えられる3カ所は、行者の身体ではなく、仏に固有の特徴であるのも重要です。すでに、行者は自分の体に文字を置くだけではなく、それと仏の姿を重ねて瞑想していると考えられるからです。なお、質問の中にある「文字の意味」は、基本的にはほとんどありません。インドで古くから好まれた単音節の文字(オームやフームなど)や、文字が象徴する神の頭文字などが選ればれます。あえて、日常では使わない難しい漢字を使うのは、むしろ、意味を持たせないためです。

前期の授業でもあったと思うのですが、曼荼羅のテキストにしろ、十九相観にしろ修行で仏を思い描くためのものととらえてよいのでしょうか。もしそうだとするなら、どうして細かいイメージを想像するためのテキストが必要なのかなと思います。やはり、人の形は想起しやすいから、祀りやすいからというか・・・。何の形でもない、ごちゃごちゃしたものでは、修行がしにくかったり、祀りにくいのかなぁと思いました。
テキストに含まれる仏のイメージに関する記述が、修行のためのものであるかは、一概には言えません。しかし、密教文献の場合、その多くは瞑想のための手引きであることが多いようです。これは、前回の「テキストと作例」の問題にも関わりますが、文字情報はイメージを伝えるためには不完全です。そのため、師から弟子へは、文献に記された情報だけではなく、さまざまな補足的な情報が口伝の形で伝えられたはずです。しかし、それでも、師がイメージしている仏と、弟子の頭の中で描く仏が、まったく同一のものである保証はありません。そのとき、実際の仏像(あるいは仏画)があると、事態はまったく異なります。見本があるので、瞑想がずっと楽になるでしょう。すると、次の段階では、作品のイメージが、テキスト情報になります。文字が作品を規定するのではなく、逆に作品が文字の情報を生み出します。そこからまた行者が仏を瞑想して、足りないところは師からの口伝や、実在の作品を参考にして・・・と続いていきます。ただし、これに当てはまらないのが感得像で、今回からその話になります。

密教において文字は非常に大切であるということがわかった。しかし、よくよく考えてみれば、お経にもあるように文字が重要なのは当たり前かもしれない。ただ、お経というのは「言葉」の方に重きを置いている気もする。密教は明らかに「文字」という感じを持った。
おもしろい指摘ですね。たしかに、文字と言葉をわれわれは同じように考えがちですが、異なるものですね。前回紹介したように、密教では文字を重視し、瞑想をするときには仏のイメージの核として、はじめに文字を瞑想します。真言宗の阿字観もそのひとつです。このような文字は「種子」とよばれ、ちょうどそこから生命が生まれるように、仏を生み出していきます。マンダラの中には、この種子、すなわち文字だけで描いた種子マンダラというのがあります。日蓮宗や浄土真宗で文字を本尊とするのも、その流れを受け継ぐものでしょう。般若心経の写経も、文字を大量生産することに意味があります。しかし、その一方で、言葉を文字よりも重視する伝統も、インド以来、強固にあります。ヴェーダ文献は、文字に写されずに、口伝によって何百年も(古いものは数千年も)伝えられました。文字が発明された後も、かたくなに、文字による伝達を拒んできました。それでいて、驚くほど正確に伝えられたこともわかっています。

先生も強調されていましたが、19という数字は何となく不思議に感じました。個人的な感想ですが、割り切れないのが嫌です。でも、素数に特別な数というイメージがあるので、素数に何か力みたいのがあるのかなぁと思ったのですが。16+3で19になったのは、ただの偶然なんですか。
授業では「19は変な数」で、16や32のようなもっとすっきりした数が普通であるとか、好まれたというようなことを言いましたが、これは極論です。ご指摘のように、素数は不思議な数として、多くの文化で「特別な数」や「聖なる数」とみなされました。2、3、5、7などはいずれも素数であることが共通する「聖なる数」です。8や16、108などは逆に安定したほうの聖なる数です。おそらく、人間は安定してバランスのとれた美しいものにも、逆に、何によっても割り切れない不安定なものにも、独特の力を認めたのでしょう。不動の姿がアンバランスになったことと、その瞑想法が十九相観という素数の段階からなる瞑想法であることも、何か関係があるのかもしれません。ところで、素数はその不思議さから、古来、数学者の関心を引きつけてきました。素数が無限に存在することの証明というのがありますが、知っていますか?

十九種子布置観の文字を体の各部位に置いていくことから、耳無し芳一や、先生に教えてもらった曳覆曼荼羅などを思い出しました。19という数字は奇数で素数で何となく収まりが悪く、落ち着かないイメージがあるけど、それも不動を前にするものの気持ちを表しているのかなと思った。あと、仏などの頭髪の表現がくるくるしていることが多いのはどうしてですか。仏教系の仏で、ストレートヘアな人って少ない気がします。当時の人々は天然パーマの人が多かったのでしょうか。
たしかに、耳無し芳一の話を例にすれば、文字による体の聖化がわかりやすかったですね。あの話の場合は、たしか般若心経を体に書いたと思いますが、般若心経にそのような呪術的な機能があることも、重要です。般若心経は最後に陀羅尼が含まれますが、陀羅尼というのはインドで唱えられてきた呪文で、どちらかというと民間信仰のようなレベルで流布していました。これと、文字の布置とは少し系統が異なります。文字の布置と同時に、結界法や甲冑法を行うのも、外敵の妨害を防ぐためと考えられました。仏の髪型の表現はいろいろですが、たしかにストレートは少ないかもしれません。不動の場合、総髪はストレートですね。観音は髪髻冠というとても豪華な髪を結い上げていますが、少し、クセ毛のようです。仏は螺髪が基本なので、ストレートはありえないでしょう。不動以外の明王は炎髪といって、髪の毛が炎のように逆立っています。こうなると、パーマとかストレートとかいうレベルではありません。

聞き逃しただけかもしれませんが、十九相観で髪についての指定は弁髪だけですよね。しかし、図像を見ると髪は巻き毛です。前回では見られなかった表現法でしたが、これは、なぜ巻き毛で表現したのでしょうか。背にある炎のうねりからきたイメージが、髪にも反映されたのではないかと考えてみました。もしくは童子との差異のひとつとして髪の表現を描きわけたか。
髪の毛は関心が集まるところのようです。十九相観の不動の髪が巻き髪になっているのは、私は黄不動の影響があるかと考えています。十九相観と天台固有な不動のイメージに何か関係があると思われるからです。でも、背景の炎が反映というのもおもしろい考え方だと思います。たしかに、迦楼羅炎の表現と巻き髪は似たところがありますね。童子の髪型との差別化も、もう少し先で童子を取り上げますので、検討してみて下さい。

根本的なところですが、仏像の姿、形が変化していくのはなぜなのでしょうか。ひとつ確立したイメージがあるならば、それを踏襲していいけばいい気がするのですが・・・。他の系統の仏教が混ざり合ってイメージが変化する、変化するものを熱心に信仰するというのが引っかかります。たとえば、キリスト教のイエス・キリストは変化せず、変わらないものを人々が信仰するというのは納得がゆくのですが。
これは、なぜ美術に歴史があるのかということと同じだと思います。何かを形で表すときに、何千年も同じ形で表すことは、おそらくありえないでしょう。人間はつねに「斬新な形」を求め、表現する存在なのです。しかし、「変化しないものこそを信仰する」というのは、ある意味適切な考え方です。宗教によっては、神や仏のような信仰の対象を、具体的な形で表すことに躊躇することがあります。仏教も初期はそうでした。形というつねに変化する可能性のある不安定なものに、聖なるものの姿をゆだねることができなかったのでしょう。形というのは、一種、限定するものであり、神のような無限の存在と相容れないということも考えられます。

瞑想法についての話ですが、そうしたイメージを見ることによる修行を行うのであれば、仏像の存在は、よく言えばそれを行う助けになるかもしれませんが、逆に修行本来の重要性も失わせるように思われてなりません。仏や象徴、文字などのイメージの出発点くらいでとどめておくのがいいのではないでしょうか。
すぐ前の質問への回答にも通じることですが、そのとおりでしょう。だから、密教では文字や象徴(三昧耶形といいます)が重視されました。瞑想において仏をイメージするとき、人間の想像力にゆだねる方が、仏像という限定的な手段に頼るよりもはるかに可能性が広がったのでしょう。



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