不動明王の信仰と美術

2008年10月15日の授業への質問・回答


不動が顔をひねって正面を見ることは、授業で触れたこと以外に、歌舞伎でのにらみっ面と同じ機能があるのじゃないかなぁと思いました。つまり、こわさ、きりっと感じをイメージさせるという機能があるのではないかと。
よく気がつきました。今回の十九相観のところでお話しするつもりだったのですが、不動の視線がずれるのは、怒りのひとつの表現だと、私も思っています。十九相観の場合、天地眼といって、極端にまで左右の視線をずらしたり、目の形そのものを変えてしまうのですが、それも、その極端な表現と思っています。斜視という特徴は、けっして病的なものではないのです(『仏のイメージを読む』でもこのことは書いています)。歌舞伎の用語はよく知りませんが、大見得を切るときなどの役者の表情が、まさに不動とそっくりです。コミックなどでも、怒りに目を血走らせた表情などは、左右の視線がずれていたり、ゆがんだ形の瞳になっていることが多いのではないでしょうか。

胎蔵図像は童子、というより青年のイメージではと感じました。目が大きいといった人間離れしたイメージを持っている不動明王ですが、それでも人間に近い顔をしています。キリスト教や西洋のものにもありますが、なぜ、神や仏は人間の形に近いものが多いのでしょう。そう感じてしまうのでしょうか。ヒンドゥー教は、逆に人間離れしたものが多いような気がしますが。
仏教美術で「童子」といった場合、通常の用語とは異なり、かなり年齢の幅があるような気がします。「青年」とか「若者」という言葉はあまり用いないのです。童子の姿をとる仏や神については、私の『インド密教の仏たち』の第三章で取り上げています。日本ではこのほか「稚児」という言葉も現れますが、稚児の方が童子よりも年齢が低いようです。神や仏が人間の姿をとるかどうかは、宗教美術の重要なポイントになります。われわれは仏教やキリスト教を基準に考えるので、人間の姿をとらない宗教に違和感をもちます。しかし、おそらく世界の宗教の中で、神や仏のような存在を人間と同じ姿で表す方が圧倒的に少ないでしょう。日本の宗教も、神道ではもともとは人の姿をとりません。鏡や剣、曲玉などが御神体です。多くの宗教は人間と神や仏のあいだに断絶を置いています。人の姿で表現するということは、その断絶をあえて取り払うことになります。ヒンドゥー教の神々は人間離れしているものも多いですが、どちらかというと、いったん人間の姿にした上で、変形していったような印象を私は持っています。

密教では忠実に再現することが大事だということですが、その中でも変わったものが出てくるのはどうしてですか?その時代の流行のようなものが反映されるのでしょうか。でも、悟りを開くには忠実な仏のイメージを知ることが必要なら、そういうものの需要はなさそうな感じがするのですが・・・。
基本的には、どんなイメージも変化するでしょう。先回の東寺西院御影堂の不動明王などは、後世、その形をできるだけ踏襲して、再現しようとしたようですが、時代によって少しずつ異なり、醍醐寺の快慶作の像などは、もとの像とはまったく異なる印象を与えます。様式上の変化は、美術作品につねに起こりますし、それが時代の要求する「美の表現」だからでしょう。不動の場合、やっかいなのは、まったく異なる「形式」が現れることです。前回紹介した大師様と、今回の十九相観では、同じ不動でも異なる姿です。十九相観が登場した背景には、密教の独自の瞑想法があると考えています。その瞑想法を記した文献の影響で、実際の作品に大きな変化が起こったのです。何度も予告している「黄不動」の場合、特別な特徴がたくさん含まれますが、そのような「異形の不動」をあえて作ったことの意義を考えます。なお、「忠実に再現する」ということに関しては、密教美術のマンダラが格好の例になります。とくに、空海が将来したマンダラのイメージは、驚くほど忠実に伝えられ、後世においても正確に再現されます。

大威徳明王がのっている牛がものすごくかわいかった。西院本曼荼羅の不動の色づかいがおどろおどろしかった。赤と緑が反対色なので、正直ものすごく気持ち悪いです。しかし、白描像よりも明らかに迫力があります。今日はお不動さんが「メタボ」ってことが強烈に頭に残りました。
醍醐寺の大威徳明王の牛(実際は水牛)は、授業で紹介したように、けっこう人気です。「こんな牛なら、うちで飼ってもいい」というコメントを紹介しましたが、牛だけならいいですが、上の大威徳明王も一緒に付いてきたら、かなりたいへんです。西院本の不動は、私はそれほど強烈とは思いませんが、白描のあとに見るとそうなのかもしれません。赤と緑は反対色ですが、補色の関係にあるので、絵画作品にはよく用いられる組み合わせです。たとえば、キリスト教の絵画でマリアが描かれるときには、ガウンを濃い緑にして、その内側の衣装を赤く塗ります。緑に「貞淑」、赤に「愛」という意味もあり、それを表すために用いられた色という説明もされますが、逆に、緑と赤という組み合わせが効果的であることを知っていたから、先にそれが現れて、あとから意味が加えられたと思います。「メタボ」という言葉は最近よく聞きますが、つい4、5年前には全くなかったので、以前の講義では不動の特徴としては使っていませんでした。メタボな仏像としては、大黒天や閻魔天のように、もっとメタボなのもいます。

怖い顔をしたおじさんが三つ編みのような髪型をして、花やアクセサリーを付けているといった感じで、ミスマッチに思えてしまうのですが、昔の人は違和感がなかったのでしょうか。像の羂索の部分は何でできているのでしょうか。どうも木製のようには見えないのですが。
不動の図像のおもしろいところは、そのミスマッチなところかもしれません。頭の上に大きな蓮華をのせているだけでも、とても変です。もとは童子のイメージだったという説も、このような「かわいい」装身具を説明するのに、都合がよかったのでしょう。童子というのは中性的ですから。羂索については、他にも質問がありましたが、たいていはふつうの紐で作っています。前回紹介した作例の羂索は、いずれも後補です。不動に限らず、平安や鎌倉の仏像で、当初の持物が残っているのはほとんどないと考えた方がいいです。

不動の像は何らかのテキストから作られたものばかりなのでしょうか?文章のみであそこまで詳細な像を造るのってすごいなーと思うのですが、たくさん像があるにもかかわらず、けっこう似たやつばかりですよね。でも、少しずつ違っている。ということは同じテキストから作りだしたものなのに、解釈が違うのか、違うテキストから作り出したのか、どうなのでしょう。多くの人に不動というイメージを伝えたいなら、一個の像のレプリカをいっぱい作った方が効率がよい気がします。
テキストと作品の関係について、いろいろな見方を示してくれて、いいですね。密教図像の場合のテキストと作品は、多くの問題を含んでいます。たしかに、文献に規定されているとおりに作れば、同じ作品が生まれるはずですが、実際はそうではありません。文献というのは文字情報なので、イメージをともなっていません。文字からイメージを生み出した結果は、おそらく一様ではないでしょう。むしろ、先行する図像を参考にすることが多かったようですし、実際、そのような場合の助けになるのが、白描図像のような絵画です。あるいは、権威ある図像が、後世の規範の図像となることも多くありました。大師様における高雄曼荼羅や、黄不動がそうです。「一個の像のレプリカ」にあたりますが、それでも、同じものはできませんし、そこがおもしろいところなのでしょう。その一方で、十九相観では文献が先に現れて、それを具体化して玄朝様などが現れます。密教図像における文献と作品の関係は、この授業の重要なテーマのひとつになります。

迦楼羅は何とかいう集団の一員だったと思いますが(興福寺にもいたとか)。なぜ、不動明王が彼を背負っているのだろうか。授業とは関係ないのですが、どうしていつも不動明王は水のそばにいるのだろうか。イメージとは対称的な気がします。最近は石山寺の滝にもいらっしゃいました。
迦楼羅は八部衆のひとりで、興福寺像の場合、鳥の頭をもった人物像で表されます。仏教では八部衆の中に組み込まれていますが、もともとはインドの想像上の鳥で、ガルダというのが正しい名称です。ヒンドゥー教のパンテオンでは、ヴィシュヌの乗り物として有名です。鳥の王ともいわれ、蛇やナーガの天敵としても知られています。不動の光背にこのガルダが登場する理由はよくわかりません。もともと、インドに不動の作例がほとんどありませんし、わずかな例にもガルダは登場しません。インドで成立した『大日経』や『不空羂索神変真言経』の不動に関する記述にも、ガルダへの言及はありません。どこかの段階で、火炎を描いていたら鳥のようになってしまい、それをガルダとみなしたという程度のことしか想像できません。日本密教では、図像の特徴にそれぞれ何らかの意味が与えられることが多いのですが、たいていはこじつけです。後半の質問の不動と水の関係は重要です。大阪に水掛不動という有名な不動がありますし、那智参詣曼荼羅などには、滝にうたれて絶命寸前の文覚という修行僧を、不動の二童子が救う場面が登場します。赤不動もそのいわれとして、円珍が葛川で感得したと伝えられます。もう少し先の回で取り上げる予定ですが、これらには、おそらく不動と修験の関係があるのではないかと思います。

不動が迦楼羅炎を背負っているのは、仏がヒンドゥー教の神を踏みつけているのと同じイメージですか。天台の不動は真言より恐ろしい感じがします。色が赤黒いからかもしれませんが。空海はたくさん話に出てきましたが、天台の話の時には最澄ではなく円珍が出てきたのは、変な感じがしました。
上の質問への回答のように、迦楼羅炎の出現の背景はよくわかりませんが、足の下のヒンドゥー神とは、違う背景があるようです。なお、足の下に踏まれるヒンドゥー神も、本来は敵対関係にあるのではなく、従属者や協力者というイメージでした(くわしくは私の『インド密教の仏たち』第七章参照)。天台に円珍が出てくるのは、黄不動説話がもっとも有名ですが、他にもいろいろあります。もともと、中国から不動の図像をたくさんもたらしたということもありますが、それよりも、円珍が修験の祖とみなされていることが重要でしょう。天台の不動信仰の場合、円珍の他にも相応という天台僧も重要です。最澄は密教の導入には失敗していますし、もともと空海のような神話的な要素がほとんどない人物です。


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