インドと日本の仏教儀礼の比較研究

2008年12月18日の授業への質問・回答


「仏を見ることが臨終行儀の一環」というのは何となく理解できました。しかし、その臨終行儀と、僧たちがふだん行っている修行とは、何が違うんでしょうか。もしくは臨終行儀は修行として考えない方がいいのですか。
前回の授業はその前の授業とひと続きになっています。はじめの回は個人的な瞑想をおもなテーマにしていました。これは、それまで見てきたヴェーダの祭式や密教儀礼とは異なり、一般には「儀礼」の範疇には含まれないテーマです。しかし、私の扱う儀礼研究では、このような個人的な宗教実践が、しばしば集団的な儀礼とクロスします。そのひとつ目の例が、成就法や観想法と呼ばれるもので、本来、行者が仏を瞑想することを基本としていましたが、その中に、灌頂儀礼が組み込まれているというのがポイントでした。前回はこの流れを受けて、個人的な瞑想であった「仏を見ること」が、臨終における重要なプロセスとして位置づけられ、それが、二十五三昧講のような集団で共有され、さらに迎講としてパフォーマンスとなったことを概観しました。臨終行儀の「行儀」とは、まさに儀礼のことなので、そこですでに修行は儀礼化していると思います。迎講はこの臨終行儀を年中行事にしている点で、修行の意味はほとんど失われています。むしろ、この儀礼を成立させているのは、寺院とそれをささえるさまざまな人びとという社会的な集団でしょう。

仏の智慧も具体的な形を持つものとされていましたが、成就法の中で智慧となるものは、出てきていたのでしょうか。智薩◎がその象徴でしょうか。
そうだと思います。智薩◎と三昧耶薩◎というのは、わかりにくい考え方なのですが、密教の成就法にしばしば登場し、密教の瞑想を取り上げる研究者のあいだでは、その重要性がかねてより指摘されてきました。智薩?は仏の智慧そのものがイメージをとって現れたもののようです。そのため、単なる「たましい」のようなものではありません。「仏作って魂入れず」ということわざにある「魂」の場合、なにか「霊魂」のようなものを注入するイメージがあるのですが、そうではないのです。授業では紹介しませんでしたが、この智薩?が成就法に登場する背景には、『金剛頂経』という経典に登場する「五相成身観」という瞑想法があるようです。詳細には立ち入りませんが、そこでは「法身毘盧遮那」という仏の智慧そのものが現れ、それが宇宙に遍満すると説かれます。そして、それは宇宙にいる無数の仏たち(大乗仏教以降はこのような多仏を前提とします)の心に「菩提心」として住すると説かれます。五相成身観では、一切義成就菩薩という菩薩が、瞑想の結果、この無数の仏たちの仲間入りを果たしますが、その瞬間、すべての無数の仏たちは一切義成就菩薩の心にある菩提心に帰入します。一個の存在であった一切義成就菩薩が、宇宙全体の仏たちとひとつになるのですが、それは宇宙が消えてしまうのではなく、宇宙そのものと等しいものになることを示しています。密教の悟りとは、そのようなものなのです。詳しくは私の『仏のイメージを読む』の第四章をお読み下さい。
※◎はつちへんに垂

當麻寺の迎講の写真にはすごく驚きました。あのような儀式が行われることはまったく知らなかったので、お面がのっぺりしていて、少しこわかったですけど。しかし、中将姫の像はあらかじめ移動させておくのではなく、儀式の中できちんとみこしに乗って移動させられるんですね。それって、この迎講の意味(来迎と成仏?)とは矛盾しないんでしょうか。それとも、これは来迎の「再現」だから矛盾しないのでしょうか。
迎講の儀式の様子は、ほんとうに驚きのパフォーマンスです。日本の仏教の法会にこんなのがあるなんて、というのがおおかたの人の感想でしょう。私はこれまでにも本や論文で當麻寺の迎講のことは何度も取り上げてきたのですが、実際に見ることができたのは今年(2008年)の5月が初めてでした。他の人の報告や紹介で知っていたつもりでしたが、やはり、本物をきちんと見なければわからないこともたくさんありました。たとえば、「練供養」というくらいなので、二十五菩薩がそれぞれゆっくり「お練り」をするのだと思っていたのですが、実際は観音と勢至の二菩薩のみが、合掌したり、蓮台を掲げたりして、パフォーマンスをしながらゆったり進んでいくのですが、それ以外の菩薩衆は、おつきの人に付き添われ、とことことと歩いていくだけでした。中将姫の移動もこのときにはじめて知りました。たしかに来迎や成仏とは矛盾するようですが、本来は準備の段階に相当する娑婆堂への移動も、儀式の一部に組み込まれてしまっていると考えればいいのではないでしょうか。なお、迎講はかつては日本中の各地のお寺で行われていたようで、石川県にも能登地方に迎講のお面が残っています。お面を付けるというのは、非日常的な世界を出現させる典型的な方法です。

「チベットの死者の書」についてのプリントにも「存在そのものの中有」のところに、来迎と思われる記述があったが、その点は死者自身が視覚的に仏を見ることを強調している。仏教的な行いの中には、観仏など、仏を見ることが重要であったが、来迎というものを実際に見ることは、迎講などによって多くの人が共有できるようになるとともに、本来、死後に見るべきものであったものの性質が変わってしまう気がする。
「チベットの死者の書」の資料を配付したのは、仏を見ることによる救いが、日本の浄土教だけではなく、チベットにもあることで、一種の普遍性を知ってもらいたかったからです。「チベットの死者の書」の場合、浄土教とは関係がないようなのですが、私はどこかでつながっているのではないかと思っています。チベットでも阿弥陀や極楽への信仰はありますし、密教も浄土教も、インドの観仏や見仏の伝統を受け継いでいるからです。個人的な臨終行儀が、迎講という儀式に変わることで、その性質がまったく変わってしまったというのは、そのとおりだと思いますし、それこそが授業のポイントです。「儀礼化」「祭礼化」とは、形式化であり、形骸化でもあります。はじめのころに紹介したように、儀礼とはしばしば形式主義に陥り、実質的な意味を失ったり、変質させたりしますが、それが個人的な実践にも適用されるのです。

ふと思ったのですが、極楽を想像するよりも、地獄を想像する方が楽しいような気がしました。たしかに極楽浄土へ行く方がよいと思うんですが、想像するだけなら、地獄でのあんなことやこんなことを考えて、勝手に怖がっていた方が気を引き締めて生活を送れそうな気がします。
私もそう思いますし、過去の人たちもそうだったのでしょう。極楽浄土図というのは中央アジアで生まれ、中国、日本へと伝わりましたが、全体は極楽浄土の宮殿の中に、阿弥陀如来とその取り巻きが描かれているだけで、おもしろくありません。「極楽浄土は三日もいれば退屈してしまう」と、誰かが言っていたと思いますが、美術でもそのとおりです。その点、地獄図は多様な情景を描いていますし、それ以上に、「こわいもの見たさ」を充足させる魅力を持っています。絵解きの題材として、日本各地に地獄図を所蔵する寺院はたくさんありますし、立山曼荼羅のように、他の絵画の中に組み込まれることもしばしば見られます。僧侶の説明を聞きながらこれを見ることが重要だったのです。ちなみに、浄土図の方は、浄土図に加えて、『観経』の物語や十六観を周りに並べた當麻曼荼羅の形式が、すでに中国から見られますし、さらに日本では九品往生の場面を取り出した来迎図が独立して描かれることが好まれるようになります。迎講はそれをさらに現実の世界に再現したことになります。

来迎引接ということで、極楽へ往生するための儀礼が、臨終行儀ということですが、この臨終行儀は日本特有のものなのでしょうか。インドで生まれた仏教から見ると、日本へ伝わってきた(というか日本で成立した)仏教は、異端というか、別物に見えます。
臨終行儀は日本特有ですね。中国の浄土教は日本の浄土教とかなり性格が異なり、本来の意味での観仏を重視します。プロの行者による高度な瞑想法というのが、その基本でしょう。日本仏教で来迎のような考え方が主流になったのは、天台における本覚思想という考え方にかなり依拠しています。これは、人間は本来、仏と同じで悟った存在であり、それに気がつきさえすれば、誰でもすぐに悟ることができるという考え方です(かなり乱暴な説明ですが)。このような考え方は、インドでも「如来蔵思想」という名で、すでに存在したのですが、インド大乗仏教では正統とはみなされず、むしろ危険な思想と考えられてきました。これを推し進めると「修行無用論」になったしまうからです。しかし、日本ではむしろ主流となりました。日本仏教がインド仏教から見れば異端であるというのはそのとおりです。しかし、それも「仏教」の名のもとで人びとに信仰されたのであれば、それを「特別な仏教」とみなすよりも、それをも包摂して「仏教」というものが歴史的に存在したとみなす方が生産的ですし、おもしろいのではないでしょうか。

『往生要集』はもっと思想についてばかりを述べたものだと思っていたので、「地獄観」や「臨終の行儀」についても言及していると知って、興味を引かれました。同時に「起請八箇条」などもたいへんおもしろい資料だと感じました。今となっては、病院などで看取られながら臨終を迎えるというイメージばかりで、特別、何かをするということはないと思います。しかし、昔はこのようにして臨終についての規定をし、そのための行儀もあったと知り、感心しました。ひとつ気になったこととして、これは庶民にも伝わっていたのかどうかというものがあります。このような臨終行儀は、どの身分のものにとっても一般的だったのでしょうか。
『往生要集』はよく知られた仏教文献ですが、全編を通読した人は少ないでしょう(私も実はしていません)。機会があれば、読んでみて下さい。源信の持っていた世界観や救済の論理がわかるはずです。臨終行儀やそれを支えた二十五三昧講などは、近年、死をめぐる議論の中で再評価されています。一種のホスピスなのです。「看取り」ということばもしばしば登場します。庶民もしていたかどうかは、明確な答えを持っていませんが、平安時代ではまだ庶民一般に浸透していなかったという印象を持っています。二十五三昧講も貴族や高僧のエリート集団ですし、そもそも浄土教が人びとに浸透するのは、鎌倉以降です(空也などの例外はありましたが)。鎌倉時代に成立した『法然上人絵伝』には、さまざまな人たちが来迎を体験したり、臨終行儀を行っている姿が見られますが、それでも僧侶以外の庶民のケースはまれです。来迎の場面としては芥川龍之介の「三の宮の姫君」が有名ですが、主人公の姫君も落ちぶれてはいても貴族の家柄です。


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