インドと日本の仏教儀礼の比較研究

2008年11月20日の授業への質問・回答


マンダラがあんなに大きくて、カラーで細かいものだったとは・・・。驚きました。お寺や博物館で見かける仏具が、何のためのものなのか、今日はじめてわかりました。金剛杵って武器だったんですね・・・。明王に対して、ヒンドゥー系の神を仮想敵国のようにしてあてがっているのがおもしろかったです。ところで、ヒンドゥー系から文句は来なかったのでしょうか。マンダラを描くのは砂だけですか。
マンダラにはさまざまな種類があります。日本では仏画の一種としてとらえられていますが、立体的に表したものもわずかに伝わっています(那智から出土したものが有名です)。砂マンダラの伝統は伝わっていません。今回取り上げる灌頂では、敷曼荼羅といって、上からつるすのではなく、床に広げるマンダラが登場しますが、これが砂マンダラらの代わりになります。チベットでは壁画のマンダラもたくさんあります。木や金属で作った立体マンダラもありますが、中国の影響で作られたのではないかと考えています。もともと、マンダラは立体にする必要のない設計図なので、わざわざ立体にすると、かんじんの中身が見えなくなってしまいます。ヒンドゥー教の神の扱いは、密教の仏の世界を考える上で重要です。単なる悪役ではなく、随時、仏教の都合のよいようにあつかわれます。たとえば、マンダラでは一番外側のエリアが、ヒンドゥー教の神々に当てられることが多いのですが、マンダラの歴史を通してみると、中央の仏教の仏がつぎつぎと入れ替わっているのに対し、このヒンドゥー教の神々はほとんどかわりません。影の主役のような存在なのです。ヒンドゥー教徒にとっては、自分たちの神がないがしろにされているのを見るのは、もちろん、不快だったでしょうが、当時のインドでは、すでに仏教に対してヒンドゥー教は圧倒的な勢力を確立していたので、おそらく相手にされていなかったのではないかと思います。ヒンドゥー教から見れば、仏教も「少し変わったヒンドゥー教」程度にしか見えなかったかもしれません。

日常的な空間に聖なる空間は存在し続けられないということですが、では「家」というのはどうなるのでしょうか。家が聖なる空間のもっとも身近なものであるということは、はじめから言われていましたが、それと共に、家は日常的な空間でもあることは間違いないと思うのですが。
そのとおりですが、常に家が「特別な空間」であるという意識は消えないのではないかと思います。それとともに、聖なる空間があるように「聖なる時間」もあります。1年や一生という時間が、宗教的に均質ではないことは、空間と同様です。お正月やお盆はそのわかりやすい例でしょう(最近はそうでもないかもしれませんが)。葬儀も当然そうで、かつて、家で葬儀を行っていたときは、そのことが強く認識されていたはずです。その期間は、家が「俗なる空間」から「聖なる空間」へと転換しているのです。逆に言えば、セレモニーセンターなどに葬儀をゆだねるようになった現代は、家という宗教的な空間が持っていた意味を、人びとが見失いつつある時代なのでしょう。「日常的な空間に聖なる空間は存在し続けられない」のと同じように、つねに聖なる時間が持続することもあり得ません。葬儀の場合、その区切りになるのが初七日や四十九日の法要で、それによって、聖なる時間と俗なる時間が分断されるのです。日本民俗学では、このような構造を「ハレ、ケ、ケガレ」という概念でとらえることが多いようです。

マンダラ制作の流れで、ヴァーストゥナーガと大地の女神が出てきましたが、ヴァーストゥナーガつまり龍も一種の神獣ですが、このふたつの神の関係はいったいどういう関係なんですか。ふたつの神が大地にいて、その両方に請いをたててから、マンダラ制作に取りかかってるわけですが・・・。
儀礼のおもしろいのは、はじめから合理的につじつまが合うようにはできていないところだと思います。合理的なプレゼンテーションとしてできているわけではありませんので、無意味な行為や相互に矛盾する要素、冗長であったり重複する部分も、いくらでも含まれます。「はじめに行為ありき」の世界であり、それだからこそ、儀礼の起源や形成、意図などが読み取れるのです。ヴァーストゥナーガと大地の女神についても同様で、おそらく、大地や建築儀礼に関する異なる伝統がひとつにまとめられて、仏教の建築儀礼(マンダラ制作儀礼)はできあがったと考えられます。このうち、大地の女神は釈迦自身の降魔成道とも関連しますし、おそらく、インドの建築儀礼一般に見られる司祭と大地の女神の「聖婚」ともつながりがあると思います。ヒンドゥー教建築儀礼に見られたヴァーストゥプルシャと神々の碁盤目も同様で、それをひとつにまとめたために、カオス=ヴァーストゥプルシャに対するコスモス=神々の征服神話という「合理的な」説明が与えられたのでしょう。

小学五年の時、宿泊学習で富山県立山町の「マンダラ遊園」というところへ行ったことを思い出した。昔のことなので、何があったか覚えていないが、「マンダラ」と聞くと、この遊園を思い出してしまう。あのころはたしか「あの世とこの世」がテーマのようで、先のない吊り橋や、転生への道みたいな迷路があって、講義のような神、仏は一切なかった。あの場所は何だったんだろう・・・。
富山県出身の皆さんは、たいてい、高校までのどこかの段階で立山博物館とその付属施設であるマンダラ遊園などを訪れているようで、とてもいいことだと思います。富山県[立山博物館]は、私も何度か訪れたことがありますが、よくできた博物館です。主任学芸員の福江さんは、立山曼荼羅研究の第一人者で、詳しい展示があります。この立山曼荼ですが、代表的な社寺参詣曼荼羅です。立山信仰や立山登拝に関するさまざまなモチーフで構成されています。マンダラ遊園も、このような立山曼荼羅の思想を実際に疑似体験できるように、できています。その内容が「あの世とこの世」であるのは、立山が一種の地獄としてとらえられ、「地獄めぐり」の性格があるからです。私の授業で取り上げるマンダラとまったく違い、神や仏がいないというのは、重要な指摘です。日本のマンダラは、本来の密教の「仏の世界」から、われわれを含む人びとの生活空間に、その基本的な性格を変えてしまっているからです。その背景には日本人の「聖なる空間」のとらえ方が深く関係しています。立山マンダラについては『マンダラ事典』で項目をひとつ立てています。また、「日本人はマンダラをどのように見てきたか」『点から線へ』50: 78-102(2007)という文章で、そのあたりを含めて詳しく説明しています。

マンダラを壊して川に流すということに興味を覚えました。マンダラは一度作ったらずっと残しておくものだろうと考えていたからです。「聖なるものは俗なる場所にずっとあり続けられない」と先生がおっしゃっていて、私ははじめ、「聖なるもの」とは、マンダラに宿った神だと思ったので、神だけを帰せばいいのではないかと考えました。しかし、そうではなく、「マンダラ」自体を壊して砂を川に流すのなら、神の宿ったマンダラ自体が「聖」のものであるのだろうと感じられました。では、そのマンダラを作った空間も、そのような儀礼が行われたことで「聖」と認識されると思うのですが、その空間には、何か特別な措置はされないんでしょうか。
たしかに、マンダラは「仏たちの家」という「単なる容れ物」なのですが、それと同時に儀礼の装置でもあります。古代のヴェーダ祭式以来、儀礼の装置は聖なる空間としての意味を持ち、しばしば宇宙全体と重ね合わされます。宇宙の創造が儀礼の始まりであるとすると、その聖なる空間そのものを俗なる空間に戻す儀礼で、全体を締めくくる必要があります。もし、そのまま放置したら、日常的な俗なる世界にもどってこられなくなります。また、次に儀礼を行うときに、宇宙の創造をはじめられません。おそらく、儀礼空間に関するそのような考え方が、インドでは一貫としてあったのではないかと思います。なお、授業では言及しませんでしたが、インドのマンダラ制作儀礼では、キーラ(例の金属製の杭のことです)を抜くという作法が、儀礼の最後にあります。これによって結界がほどかれ、マンダラを含む聖なる空間が解消することになります。ご質問にある「特別な措置」に相当します。

・昔の商家の結界は、木製の格子で直角をなし、内側に机(その上に算盤、筆)を置き、外側に大福帳を下げます。寺院も内陣は聖(僧)、外陣は俗(一般)と分けられ、一般人は内陣へ入れません。
・民俗学の方になりますが、石川県では上棟の際、棟梁(大工頭)が棟木に塩鮭をぶら下げます。(工事中、当然腐ってくるので、いまはビニール袋に入れます)。大工工事完了のとき、その鯖を降ろし、サバオロシと言って、酒宴が行われます。なぜ、鯖なのか知りませんが・・・。
・鬼門の考えは中国から来たとかで、秋(天高く馬肥ゆる)になると?奴が毎年、北東から侵略してくるので、その方向を鬼門と呼んだとか。馬肥ゆるは「きょう奴」の馬、それを防ぐため、万里の長城が作られました。
・現在、北東に便所等を作った場合、鬼門封じとして、赤南天、白南天の木を夫婦(めおと)として、敷地の北東に並べて植えます。難を転ずるの意。
・古い家の井戸を埋めるときは、残土は使わず、山砂などの清浄な土で埋め、必ず、井戸の神が呼吸できるようパイプを入れ、地表まで伸ばしておきます。便槽を埋めるときも、陶器屋さんから焼き物の男神と女神を買ってきて、奉書紙に向き合いで包み、紅白の水引でしばり、底に安置します。埋めるときは、清浄な砂を用います。井戸も便所も、必ず酒と塩で清めてから埋めます。
・「儀礼としての寺院建立」にあった胎児の話ですが、日本の地鎮祭の場合、祭り終了時に神職が土器(かわらけ)の皿二枚の中に五色の色紙を切ったもの、麻糸を刻んだもの、真鍮の薄板(金色)で作った剣、貨幣などを入れ、奉書紙で包み、紅白の水引でしばったものを建設業者に手渡し、基礎の東北角に埋め込むように言います。インドと似ています。
たくさんの情報をありがとうございました。日本の建築儀礼もいろいろあっておもしろいですね。とくに、便所や井戸の埋める作法などは、いろいろな要素が入り込んでいるようです。地鎮祭で埋める作法は、おそらく古くから行われてきた鎮壇作法で、インド以来の鎮壇具が姿を変えたものと思います。建築に関わるこれらの儀礼は、石川県特有の地域的なものもあると思いますが、かなりは全国共通ではないかとも思います。詳しく調べられるといいですね。


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