インドと日本の仏教儀礼の比較研究

2008年11月6日の授業への質問・回答


・護摩で火天の儀式に本尊が割り込むという話ですが、本尊だから割り込ませるのはわかりますが、ではなぜ最初から前後に分けないのでしょうか。火天を招く→帰る→本尊を招く→帰るではダメなのですか。本尊が帰るまで火天は帰ってはいけないのでしょうか。
・護摩の際にいったん、火天には待機してもらうということですが、それだと火天がお怒りになりそうな気もするものです。本尊がメインであるとはいえ、何とも人間の都合よく儀礼を変化させているものだと感じました。
よく似た質問なので、あわせて紹介しました。もっともなのですが、儀式の最後まで火天に残ってもらうのはふたつの理由があります。ひとつは、護摩がそもそも火を用いた儀礼であるため、その火がある限り、火天は儀礼の場にとどまるということです。本来のヴェーダ祭式のホーマの場合、火天は神々の中で唯一、祭場すなわち儀礼の場で活躍する神です。先週紹介したように、火を表す普通名詞がアグニすなわち火天です。もうひとつの理由は、インドの儀礼がユニット構造からなることと関係します。基本的な儀礼をユニットとして、さらに大きな儀礼を構築するときに、しばしばひとつの儀礼をふたつに分けて、その間に別の儀礼を差し込むという形式をとります。それによって儀礼全体の力が維持されたり、さらに強力になるのです。これはヴェーダ文献にも見られる説明だそうです(ヴェーダの専門家からお聞きしたことで、私自身は確認したことがありませんが)。ユニットを単に並列に並べるのではなく、サンドイッチにして、あらたに全体を大きなまとまりとするのでしょう。この全体が、あらたなユニットとなって、さらに別の儀礼を構築することもあります。一種の建造物のイメージです。

遠くから来た仏教というものが、いまでも日本に根付いていることだけでもすごいのに、細かい儀礼までもが、日本でも体系化されて行われていることは貴重な文化であると思います。この授業を受けていると、知らなかったことがつぎつぎと出てくるので、カタカナ言葉の理解が追いつきません。後、儀礼の様子を見せてもらうと、呆気にとられてしまって、すごいなぁ・・・という感想くらいしか出てきません。
仏教の文化は本当に多様で、それが日本ばかりではなく、アジア全般に受容され、継承されいていることに、私も驚きを覚えます。私の専門とする密教の場合、儀礼や美術がじつに忠実に受け継がれています。これは、同じ仏教でも、浄土教や禅宗と違うところです。比較文化の対象として、密教はとても魅力的なのです。ただし、それはたしかに貴重な文化なのですが、単に、古いものを伝える貴重なものというだけではなく、今なおわれわれの考え方や生活に大きな影響を持っていると思います。儀礼を取り上げるのは、外国の変わった風習を知るということではなく、そこに見られる人間の思考や行動のパターンが、われわれ自身のそれらを知る手がかりになるからです。儀礼というのは、そのようなものを誇張したり、図式化したようなものだと思っています。なお、カタカナ言葉の氾濫は、わかりにくいですね。前回は儀礼や水の種類を示すために紹介しましたが、これからはそれほど出てこないと思います。儀礼の様子はビデオやDVDなどで紹介するといいのですが、私はあまり動画に関心がなく、ほとんど持っていません。写真が精一杯です。「呆気にとられて」もらえるのはいいことです。全然知らない世界を知ることは、学問の醍醐味です。

だんだんこんがらがってきたのですが、ヴェーダは全宇宙を再現するような儀礼だったかと思いますが、護摩みたいな、アルガを使うような儀礼は、また違うイメージのもと行っているんでしょうか。
はじめのころのヴェーダ祭式のような壮大な儀礼は、いったいどこに行ってしまったのかと、思えますね。たしかに、宇宙を相手にするような壮大な儀礼は、奉献型の儀礼ではほとんど見られません。バリもアルガもプージャーも、人と神(あるいは尊敬すべき人)とのあいだの交流でしかありません。しかし、すべての儀礼が全宇宙的なスケールをもつとは限りません。むしろ、そのような要素を排除したところに、奉献型儀礼の特徴があるようです。日本の儀礼を考えた場合も、もともと宇宙や世界という概念にとぼしい民族であるから当然なのですが、宇宙が問題になるようなことはほとんどないでしょう。今回取り上げるマンダラ儀礼では、少し宇宙的な儀礼が登場します。

以前、日本中世史概説か何かの授業で、水取りのビデオを見た覚えがあります。達陀の様子もうつっていて、その迫力にすごいなぁという感想は持ったのですが、なぜ、お水取りに火が使われるのかまでは深く考えませんでした。火天、水天といった関係など、ちゃんと意味を持って、ひとつひとつの儀礼が構成されているのだと考えると、おもしろく感じられました。私も水と火はどうも相性の悪いものととらえがちになるのですが、まったく違った概念から、このような儀式が生じてくるのはとても興味深く思います。日本においてお水取りの他にも、火と水が相性のよいものとして、そのふたつを取り入れた儀式はあるのでしょうか。自分でも少し調べてみたいと思います。
平瀬先生の授業ですね。お水取りの様子はNHKのドキュメンタリー番組で取り上げられたこともありますし、おそらく図書館にもお水取りのビデオがあるのではないかと思います。私は授業でも少しふれましたが、20年ほど前に実際の様子を見せてもらったことがあります。といっても、内陣の外から、格子の合間から見るような感じで、全体像はよくわかりませんでしたが、たしかに達陀の迫力などは、強烈な印象として残っています。その頃はまだ儀礼の知識もなく、奈良時代の仏教についてもよく知らなかったので、もう一度、生で見てみたいと思っています。日本の儀礼で火と水が両方出てくるものは、たぶんいろいろあると思いますが、密教儀礼以外をあまり知らないので、具体的な例が思いつきません。ぜひ、自分自身でも調べたり、地元などで何か事例があれば、教えて下さい。

水と火に関して、不動は火炎を背負っていますが、日本各地に「水掛不動」があります。あれも「火と水」のインドの思想の流れなんでしょうか。また、五輪塔も地水火風空と火と水は接していますが、たまたまで関係ないのかもしれませんが。
水掛不動は水曜の不動の授業でも取り上げる予定をしています。日本では他にも不動は水と関係することが多く、感得説話の舞台が川の近くであることもそのひとつにあげられます。水はわれわれの世界と異界との境界であるとともに、その通路にもなります。川から流れてきたもので、異界とつながりを持つという物語もあります。桃太郎もそのひとつでしょう。不動が水と関係するのは、水の持つこのような性格や機能によるものと考えています。水が流れるものとしては、川の他にも滝がありますが、滝も異界との通路になります。その一方で、滝は蛇や龍のイメージとも重なります。不動が倶利伽羅剣という龍が巻き付いた剣を持つのも、滝のイメージが重なっているのではないかと考えています。一方の火ですが、不動のイメージそのものがインドに求められないのでよくわからないのですが、火炎の光背を背負うのは不動に特別なことではなく、忿怒尊一般でも見られます。怒りやエネルギーが形を持ったものとして、このような火炎が表現されると思うので、水との関係は希薄ではないかと思います。なお、五輪塔の地水火風空は、世界を構成する基本的な元素で、水と火が順番になっているのは、インド的な物質観で、硬くて粗大なものである地から、しだいに軽くて微細なものものにかわるという系列にもとづくものです。儀礼から説明するのは困難なようです。

サンスクリット語では「対象に依存する=尊敬」を意味するということなのでしょうか?それに、閼伽水・洗足水が尊敬され、口漱水・洒浄水が尊敬されない どこで区別するのかもよくわかりません。
説明が不十分だったようです。閼伽水、洗足水という名称は、「尊敬に値する(人に捧げる水)」や「御足(に捧げる水)」という意味で、いずれも水を奉献する対象を指しています。それに対して、口漱水は「口や手をすすぐ(水)」、「散布する(水)」という意味で、水を用いて行う行為を指す言葉です。アルガの儀礼で用いられる水に、奉献する対象(たとえば神)に向けられる水と、奉献する者自身(つまり儀礼をする人)を浄める水の2種があり、その名称がこの違いに対応しているということです。水を用いて行う「口をすすぐこと」「水をまいて浄めること」は、対象を限定する言葉ではなく、動作という中立的な言葉であるということもできます。



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