インドと日本の仏教儀礼の比較研究

2008年10月30日の授業への質問・回答


奉献型の儀礼では、神と人が同じ空間を共有すると説明がありましたが、それは、もともと神は人と同じ空間に存在しているという考えですか。それとも、儀礼を通じて神が人のいる空間に降りてくるという考えですか。
重要な指摘です。これまで見てきたように、神と人との関係が、インドでは儀礼の重要なポイントとなります。前回の授業では奉献型儀礼の神と人との関係を簡単に図示しました。ずいぶん単純な図ですが、それなりに考えて書いたもので、両者が水平の位置関係にあり、神の方が人よりも少し大きな楕円で描きました。これは、神の像を前にした人をイメージしています。初期のヴェーダの祭式では、神々が天上世界にいて、儀礼の時にはアグニが供物を運ぶための媒体になることは、授業で紹介したとおりで、そのときにはアグニ以外の神々は儀礼の場にはやってきません。後期のヴェーダ祭式では、神々も儀礼の要素となりますが、その場合も天上世界から儀礼の場にやってくるというわけではありません。神々の領域も含めた全宇宙が、儀礼の空間に投影されているだけです。これに対し、プージャーの儀礼では、始めと終わりにお迎えとお帰りがあるように、儀礼の場に神がやってきて、接待を受けて、再び帰るという構造をとります。これは本来、人間に対する賓客接待の儀礼がモデルになっているのですが、それが神に応用されているのです。その背景には、ヴェーダ時代の宇宙原理的な神から、ヒンドゥー教の人格神への変換もあるでしょう。それとともに、ヒンドゥー寺院ができ、その中に神の像が祀られるようになったことが重要です。ヴェーダの祭式では、神は像の形で表されることはありませんでした。整備されたプージャーはこのような寺院、人格神、神像がそろっているのが特徴です。さらに、プージャーの接待を受ける神は、神像の姿で寺院に常にいるので、お迎えやお帰りが不要であるため、「目覚め」と「就寝」という形をとることもあります。現在、ヒンドゥー教の寺院ではプージャーは毎日行われることが一般的で、神の生活のリズムに合わせて行うのです。寺院は「神の家」であり、人間はそれにお仕えしているのです。このような考え方は、ヴェーダの祭式にはありません。

火を祀ったりする文化はよく聞きますが、水を中心とした儀礼は、あまり聞いたことがないのでおもしろいと思います。また、以前、地元の山形でも「土公神」のような信仰があると書きましたが、むこうでは「大将軍」などとよばれる方位神のようです。やはり関係があるのでしょうか。
火は目立ちますのでわかりやすいですが、水もけっこういろいろな文化で儀礼の中心になります。日本でも神道でおこなわれる禊(みそ)ぎのように、水による浄化が基本です。水をお供えすることも広く見られます。あたりまえすぎてなかなか気づかないこともあるようです。インドの奉献型の儀礼で水が用いられるのは、水を媒介として人と神がコミュニケーションをとれるという発想が基本にあるのではないかと思います。土公神や大将軍については、くわしい情報があれば教えて下さい。大将軍というのは朝鮮半島の民間信仰でよく登場するような気がしますが・・・。

プージャーの水の閼伽水は、祭壇に供える水として日本の古典の中にも何度か出てきていたことを思い出しました。日本には洗足水・嗽口水にあたるものはないのかが気になります。「神を接待する」という発想が他の儀礼と違うところなのでしょうか。
私も「閼伽」という言葉は高校の古典の授業ではじめて知りました(たしか『方丈記』)。古語辞典などを引くと、源氏や平家などにもよく出てくるようです。熟語として閼伽棚、閼伽器、閼伽堂などもあります。Wikipediaの「閼伽」の説明もほぼ適切です。その中に紹介されていましたが、「ラテン語の「アクア」(aqua)の語源という説もあるが俗説である」とありました。アクアと関係がある語はサンスクリットでは「アプ」もしくは「アープ」で、閼伽の語源の「アルフ」とはまったく別の言葉です。さて、閼伽水の他に洗足水や嗽口水はないかという質問ですが、ちゃんとあります。今回取り上げる護摩もそのひとつです。日本仏教の儀礼の起源は、インドにたどれるものが多く、名称や方法もほぼ忠実に伝わってきます。閼伽というのは狭い意味では、授業で紹介した3種の水のひとつですが、これらの総称としても用いられます。洗足水も嗽口水も閼伽なのです。日本ではこの総称としての閼伽が一般に用いられたのです。

前回の仏教文化論の講義で聴いたのか、自分で本を読んだのか記憶があいまいなのですが、インドにおける神々の飲み物が人間にとっては「酒」か「媚薬」「ドラッグ」などに類するものだという話を聞いた覚えがあります。ソーマ祭で使用されるソーマは、もしかして「神々の飲み物」に通じるところがある。あるいは、そのような神話と関係があるのだろうかと気になりました。また、アシュヴァメーダという祭式がおもしろく感じました。かける期間も一年と長いですし、儀礼がどれだけ人々の生活に密着しているのかがよくわかる気がします。些細な疑問なのですが、もし、途中で馬が死ぬなどしたら、やはり代理の馬をたてて続けるのでしょうか。壮大な儀礼なようですし、途中で断念は無理なように思われます。
ソーマはたしかに神々も飲みました。とくにインドラがソーマを飲んで英気を養ったことが、リグヴェーダにはくりかえし説かれます。『インド文明の曙』から該当箇所を、今回の資料に添付しました。アシュヴァメーダについては、私自身のヴェーダ祭式の知識がそれほどありませんので、これも他の文献資料を添付しました(訳が少しわかりにくいですが、イメージはつかめると思います)。

松原(1967)に書かれている神をもてなす方法は、能登に残っている風習「あえのこと」と酷似していると思います。浴室に案内し、座敷へ導き、酒、魚でごちそうする。プージャーも「あえ(饗)のこと」も、意味は同じなので、興味深いです。ただ、能登の場合、神が帰るのは来春ですが。
私も金沢に来てはじめて「あえのこと」を知ったときは、プージャーと同じと思いました。「あえのこと」の起源はインドのプージャーであるという論文や本は見たことはありませんが、調べてみるとおもしろいかもしれません。一般には「あえのこと」は日本の古い信仰ということで説明され、ユネスコの無形文化遺産の後補にもなっていますが、インドからの外来の儀礼であったとすると、かなりその位置づけは変わってくるでしょう。能登は古くから真言や天台の密教が盛んだったところなのも気になるところです。高野山のあたりの和歌山でも弘法大師信仰や祖霊信仰の形で、よく似た接待儀礼が行われているという研究もあります(日野西眞定 1999 「弘法大師と先祖信仰」『説話・伝承学』7: 11-26)。

プージャーにおいて、ヴェーダの互酬関係がない(見返りは期待しない)ということですが、接待であるにしても、何か理由があるような気がするのですが、本当に何もないのですか?儀礼がユニットの集まりとするなら(プージャーには当てはまらないかもしれませんが・・・)他の儀礼のためのプージャーだったりはしないのでしょうか。
そのとおりで、プージャーはそれ自体が独立した儀礼であると同時に、他の儀礼を構成する基本的なユニットとなります。これはアルガや護摩、バリも同様です。神々や仏を儀礼の場に招くことは、ヒンドゥー教や密教の儀礼の基本ですが、その神々を迎えるために、アルガが与えられたり、プージャーが行われたりします。十六段階からなるプージャーそのものも、その中にアルガを含んでいます。日本では、護摩は独立しても行われる密教儀礼ですが、灌頂などの大規模な密教儀礼を行うときには、しばしば平行して行われます。インド世界の儀礼の基本的な特徴として、ユニットで構成されるというのは、このようなことを意味しています。儀礼を拡大し、体系化するときには、基本的な儀礼がユニットとして利用されます。その場合、基本的な儀礼が「見返りを期待しない」儀礼であっても、全体の儀礼にはそれぞれの効果や結果が期待されます。

火の儀礼は火神アグニを介してのものだが、プージャーの水の儀礼に関する水神はいるのだろうか。河の神などは違う気がするのだが。
プージャーやアルガの水には水の神は登場しませんが、ヴェーダやヒンドゥー教には水の神がいます。ヴァルナといって、古くはミトラと並んで、ヴェーダの神々の中の至高神のひとりです。今回、水が「誓誡」と結びつくという話を紹介しますが、まさにヴァルナはそのような神で、人々が何か違約行為をすれば、かならず懲罰を与える恐ろしい神です。儀礼の水は神格化されていませんが、水そのものがそのような重要性を備えていると考えたのでしょう。なお、河の神もいろいろいて、サラスヴァティー(弁財天)はその代表ですし、ガンガー(ガンジス河)やヤムナー(同名の河)も女神として信仰されます。ただし、いずれも儀礼との結びつきは希薄です。ガンジス河の水のように、儀礼で用いられる水としては重要な役割を果たすことはありますが。

見返りを求めないで、神仏をもてなすというのは不思議な気がした。でも、日本での墓参りや仏壇の供養を考えてみても、見返りを求めているというわけではないかもしれない。水や花を供えて一定の行為をすることで、安心感のようなものを得ているだけで、神仏からの見返りを期待しているとはいえない気もする。
儀礼をはじめとする宗教行為の目的が何であるかは、宗教を考える場合、重要です。インドではバクティとよばれる宗教運動が中世盛んになります。バクティは「信愛」とも訳されますが、神々への絶対的な信奉や帰依を指す言葉です。ただひたすら神を信じ、神を愛し、恩寵を感謝することが重要で、それによって、来世は天界に生まれるとか、お金が儲かるとかいう話ではありません。つまり、愛には見返りは必要ないのです(そうですよね?)。日本では浄土真宗の教えに似ています。親鸞教学では、一般の浄土教の教えが主張する極楽往生や来迎などは求めません。阿弥陀の慈悲に感謝することだけが、われわれに可能であるという教えです。そこでは念仏さえも意味を失います。

儀礼の写真が七輪でキャンプファイヤーをしてるみたいでした。炉はイラストしか見たことがなかったのですが、土か何かコンクリートみたいなものでできているんですね。水戸黄門で宿で足を洗うシーンは、私もよく印象に残っています。たしかに、正月の神棚にも、仏壇にも、盆の墓参りにも、水と香は欠かせませんね。そう考えると、神や祖霊を招いておもてなしする儀礼では、水、食べ物、嗜好品(酒、茶、香)はどこでも必需品ですね。
写真で紹介した護摩の炉は、現代のヒンドゥー教のものなので、簡便なものが使われていたようです。本来は、土できまった大きさと形で作ります。神々をもてなすという儀礼形態は、たしかに日本では広く見られますが、キリスト教やイスラム教ではおそらく見られないでしょう。日本的と思われているものが、実は外来の習慣で、かつ、必ずしも普遍的なものではないと、私はとらえています。ところで、神道でも水や榊、塩、酒、魚(するめなど)はそなえますが、お香は使わないような気がしますが。


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